40.崩れゆく願い、祈り果てず
守りたいと願う気持ちに嘘はなかった。
走るたびに視界が飛び動き、痛みに意識が持っていかれそうになりながらもエリクは歩くような速度で走っていた。
手をついて、転がって休みたい。でも、それじゃあ意味がない。
悔しいと思ってもいるだけで足手まといになってしまうと分かっていた以上、素直に逃げるしかなかった。
副団長の話が本当なら、逃げても意味はないのかも知れない。それなら一緒に闘う道もあったんじゃ?
何度も同じ考えが頭の中を行ったり来たりしては、励ましと信頼を乗せた拳に叩かれた胸が熱くなり先へと進んで行けた。
「じぃちゃん……」
自然と呟いた言葉に、エリクは最後に見た祖父の狂気の笑みに再び背筋を震わせた。
あの時、本能的に逃げる事を選んだのもそのせいだ。
どれだけ自分を想っていようと、あの笑みは決定的に違う含みを持っている。
自分の直感を信じたくはなかったが、エリクは確信してしまっていた。
息を荒げながら心臓が酷く跳ねた瞬間、背後で氷が散った。
「っ……」
戻って確かめたくても出来ない。約束をしたから。そして、自分と一緒に闘ってくれる人が居るはずだから。
必死に逃げながら、ようやく少年は道の開けた場所に出た。
そして、再び息を呑んだ。
慣れ親しんだ詰所は瓦礫の山と化し、隣近辺の家々も同じように無残に打ち崩されていた。
そして何より、瓦礫に埋もれるように倒れたままの朧たちの姿を目にした少年はついに倒れてしまった。
「お、朧さん……先輩……」
這いつくばり、それでも先へ進もうとしていた。しかし眼前に打ちつけられた節くれだった杖にエリクは体を震わせた。
「エリク、お前は何故分かってくれんのだ? 調律能力を持たない魔力蓄積体質の人間に何が出来て、何を守れる?」
「そ、それは……」
痛いところを突かれたように言葉に詰まったエリクは、怯んだように視線を逸らした。
「全てお前の為だ。この獣はお前が外の世界でも生きていけるようになる為の相棒とも言える存在。何故それを受け入れようとはしない?」
老人は膝を付き、倒れた孫へ視線を合わせるよう地面すれすれに首を傾げて見せた。
純粋に倒れた孫を心配し、手を差し伸べる手はやはり骨張っており頬に触れた指先は冷たく、それは少年の知る祖父の優しい手だった。だからこそ――――
「じぃちゃん……」
震える体を叱咤してエリクは祖父の手を払いのけた。
「え、エリク……?」
必死に立ち上がり、ただ自然と落ちた涙の意味は分からなかった。苦しいから、悲しいから、悔しいから……色んな感情が少年の内側に渦巻き、溢れていた。
ラゼルはその涙の意味が分からず、おろおろと再び孫の顔へと手を伸ばしかけた。
「じぃちゃんの研究はこんな事の為にしてたの……? ボクに教えてくれてたこと全部、ウソだったの?」
力なくラゼルの胸元に縋るエリクの手は両肩へ掛かり、その手の平の力は反対に力強くなっていた。
「こんな怪物で、ボクの居場所を奪う気なのかよっ!」
ラゼルは初めて力強く、悲しく叫んだ孫の表情を見た。
濃茶の瞳にはやはり涙が溜まったままで震えるたびに地面へ落ちていった。
「嫌だよ……ボクは、みんなと一緒に居たい」
「エリク、何を言っている? 何故そんな聞き分けの無いことばかりを言い、儂を困らせる? 何故、お前は……お前は……」
何かに打ちのめされた様に呆然と呟くラゼルの姿に、エリクは掴んでいた手を放した。
「もう、やめようよ……お願いだから」
ただ祈るように呟いた言葉は届いたのか、ラゼルはその手にしていた杖を支えに小さく俯いてしまった。
「何故……何故だ……?」
うわ言の様に繰り返すラゼルに、エリクは居た堪れない気持ちになっていた。
――ボクは、じぃちゃんを裏切ってます……でも、止めないといけない。
心拍が妙に早く感じ、不規則な痛みが体を襲う。それでも立っていられたのはただ祖父の為だった。
倒れてしまえば、もう二度と立ち上がれない痛みで戦うための気力もなくなってしまうから。
遠くで瓦礫が崩れ落ちる音が聞こえた気がした。それでも、ただひたすら「何故」と繰り返すラゼルの呟きに、エリクは言葉を掛けられなかった。
「じぃちゃん……」
搾り出した言葉を皮切りに、再び狂気の色を映したラゼルの目がエリクを捕らえ、更に言葉を掛けるより早くその杖が地面を打ち鳴らした。
「――――っ!」
それまでずっと沈黙し控えていた黒い獣が再びエリクの体を抱えようとした瞬間、少年の視界が真っ白に覆われた。
力強く暖かい感触と血と泥の匂いに混じり、ただ体が倒れていくのだけが分かった。
「エリク、大丈夫か……?」
苦痛を押し殺し、力強く笑う笑顔は黒ずんだ血で短い黒髪をその額に貼り付け、菫色の瞳はただ優しかった。
「朧……さん……?」
「ああ。悪かったな、少し額切ってるから、後で絆創膏でも貼ってやるよ」
言われて震える手で自分の額を押さえると確かに、生暖かくぬるりとした感触と指先に付いた血に少しばかり視界が眩んだ。
それでもなお目の前にいる守護者は安心させるように自分の服の袖で血を拭い取ってやった。
しかし、その服はグレーのハイネックのままで肩口はぼろぼろに切り裂かれていた。
慌ててエリクは自分を見るとトレードマークの白いコートが巻きつけられているのがわかった。
「そいつ着てていいよ。下手な鎧より防御力あるからさ」
にんまり笑い立ち上がった朧は、愛剣を片手にエリクに対し背を向けラゼルに真正面から向き合った。
「くっ、まだ生きていたか……」
「期待に添えられなくて悪いけど、自分だけじゃない……みんな生きてるよ。てか、そう簡単にくたばってたまるかよ」
小さく笑ったその表情は悪戯を思いついたような、楽しげな笑みだった。
朧の言葉の証明のように呻きながら、瓦礫から銀色に輝く弓の持ち主が立ち上がった。
「死ぬかと思った……」
ほうっと軋む肺に顔をしかめたセオが服の汚れを払い、視線を左横へと動かす。丁度ラゼルの真後ろに当たる位置で瓦礫が崩れ落ち聞き慣れた雄たけびめいた声を上げて、立ち上がる影があった。
「うわ、おれら最後? だっせぇ……」
「いえ、この場合はカイトでしょう。もう少し寝かせておきましょうか?」
「起こしてやれよ」
底抜けに明るいイルドの声に冗談めかした低いアーヴァンの声。最後のはセオだ。
「あの、すんません……瓦礫どけてもらえると助かるんっすけど」
最後にか細く、涙を堪えたようなカイトの声にイルドが慌てて助け起こしてやった。
「ほら全員生きてる。ああ、エリク。サバスの旦那なら避難民誘導で席外してるだけだから、そこは勘弁してくれよ。協会の怖い人たちに説明しないといけないしな」
背中越しに声を掛けられ、見上げたエリクは嬉しそうに何度も頷いたが見れば全員が全員、何処かしら血を流し、泥にまみれていた。
その中でも一番酷いのはやはり朧だった。
「なあ、爺さん。あんたにとっての『家族』って何だ?」
突飛も無い質問だったが、それでも朧の目は真直ぐラゼルに向けられていた。
「実験の道具か? それとも守りたい命か?」
「何を言う! 可愛い孫の命を助けたい事の何処が悪い!」
杖を打ち鳴らし叫んだ答えにブラックボアホンが再び動いた。
「なら、なんであんな顔で笑った?」
朧は振り下ろされた黒い腕を、反対に体を捻り溜めた力でアルゲスを下から跳ね上げた。同時に、ブラックボアホンの片目が潰れている事に気が付きその死角へと回り込んだ。
「老人は体の良い事ばかり言って、その事実を隠す二枚舌持ってる……」
朧がべっと舌を見せて言うとあからさまにラゼルの表情が変わった。
知らないことを知るのは、何も楽しいことばかりじゃないんだよね……