2.軽い溜息の守護者
うぅむ、想像以上に面倒な予感だけがヒシヒシとするな。
燃え消えた黒い犬の灰も吹きぬけた風に散り、二人は暫しの間呆然としていた。
「うぁ、消滅タイプかよ……」
セオが些か感心したように呟き、朧も力なく頷いて見せた。
「不形系ならわかるけど、今のは予想できなかったな」
「全くだ。まあ、朝の目覚めから死骸が側に転がってるよりかマシだけど。とりあえず、帰るか……」
溜め息だけ場に吐きこぼすと二人は階段を登り、手掛かりになりそうな物を探しながら路地の一つ一つを確かめるように歩き始めた。
大通りに比べれば狭い路地だが人がニ、三人すれ違う程度なら問題もない路。しかしそれを遮るように立ち塞がるモノが現れればまた別の話になる。
「なあ、セオ君やセオ君……今日は何かある日でしたでしょうか?」
「オレに聞くなっ。それよりさっきの騒ぎで野次馬が集まりそうだけど、どうする?」
耳を澄まさなくても家々につく明かりが増え、幾人かが不安そうに窓際に立つ影と幼い子供の泣き声も僅かに聞こえた。
「そこは、ほら……始末書なんてもんは書き慣れてるんだし、お子様の安眠妨害しない程度に速攻で片付けるしかないだろ?」
「そう言って書くのはオレだけじゃないか?」
「文句言ってる場合じゃなさそうだけどねぇ」
朧の言う通り、先の黒い犬の獣とよく似た硬質な毛を持つ二足歩行型の魔獣が二人の行く手を阻み、グルルゥ……と低い唸り声を上げながら街灯の明かりの中にゆっくりと姿を見せた。
サルのような顔に潰れた鼻、こめかみから短く空へ突き出た角に突出した牙は無いが剥き出しにされた歯は鋭い。そして肩の筋肉だけが奇妙に膨れ上がり、首を筋肉の鎧で隠し太く長い両腕はいつでも攻撃できるように構えられていたが、重たそうな上半身を支えるには毛に覆われた下半身は細くアンバランスなものだった。
「やっぱり角とあの足は、既存種のゴーラとも違う……か。セオ、頼んだぞ」
こちらも初めて見る魔物に二人とも戸惑いは隠せなかったが、朧は既に相棒の顔を見ることなく愛剣を抜き放っていた。
「無理はするなよ」
それだけを残し、セオはわざと黒い獣に背を見せて来た道を戻り始めた。当然、獣は牙を向き立ち塞がる相手より逃げる獲物を追う事を選んだ。
細い下半身はスピードを支える基礎になるのか、筋肉に覆われた重厚な上半身とは裏腹に地面を蹴り跳躍をすると、立ち塞がっていた朧の頭上を軽々と越え走るセオの直ぐ後ろ側に着地を決めた。
「うわ、はやっ!」
感心する朧を他所にセオの小麦色の髪が街灯に反射し、距離を教えるのか黒い獣は彼の後を追う様に走り始めた。
狭い路では豪腕を薙ぐことはできないが、頭上から叩き潰すハンマー代わりにはなる。
咆哮と共に鋭く振り上げた黒い腕は完全にセオの頭上を捕らえていた。
「シルファッ!」
小さく叫んだセオの胸元で鮮やかな紅い光が螺旋を描き脚部に張り付き、同時に軽くなった脚で彼は地面を思い切り蹴り飛ばし、豪腕を寸でのところで避けた。
鈍重な破砕音を残し、黒い獣は忽然と姿を消したセオを探してキョロキョロと辺りを見回したが間を置かずに背中に走った衝撃に、身体を支えきれず前のめりに倒れ地面を揺らした。
「かってぇぇぇえええっ!!」
痺れた両腕の痛みを誤魔化すように朧が叫び声をあげ、倒れた獣の背中を蹴りつけ後ろへ飛び距離を開けると再び構えた。
ちょうどセオと獣を挟み込む形になり、十二分に距離を開けて立ち止まったセオは弓を構え、短い溜めで鋼鉄の矢を放った。
獣は空を切る矢を見つけると叩き折ろうと再び腕を上げ振り下ろしたが、矢はそれよりも一瞬早く失速し獣の足元に落ちた。そしてそれを見た獣は厭らしく口を歪めて笑った。
直感する。弓使いは弱い……と。
しかし、セオは次の矢をつがえることなく獣の後ろを見ていた。
翻る白い影の背後に構えられた剣が雷を纏い、鋭い音を立てて迫っていた。
直感的な危険を感じた獣は逃げ出そうと四肢に力を入れたが全く力が入らない。身動き一つ出来ないまま裂帛の声が背後から聞こえた。
「断ち切れっ、アルゲス!」
朧の力ある言葉に応じるように剣から雷が迸った。
縦一閃、鮮血が散った。
しかし、雷は予想以上に硬い毛と皮膚に阻まれ獣の全てを断ち切るまでには至らなかった。
ミシ…………ッ。
小さな亀裂が走る音に続き、獣の影を縫いとめていた矢が崩れ落ちた。
「――――ッ!!」
「嘘だろっ!」
二人にとって予想外の出来事に、咄嗟に振るわれた反撃を朧は転ぶように横へ抜け、顔面に太い拳が叩き込まれることだけはどうにか避けていた。
「アルテミスッ!」
セオは慌てて空の弓をつがえ、弦を弾いた。澄んだ音色と共に銀光の矢が現れ獣の肩を貫くと、獣は痛みに吼え取り戻した力を逃走する一心に向けていた。
それは巨躯と傷を抱えている事を疑うほど軽く、家々の屋根を伝いあっという間にその身体を小さくしていった。
「逃げたか」
「そうだな……これはちょっと、良くない傾向だねぇ?」
この場においての被害は出なかったものの、謎の黒い獣を取り逃がした事は二人にとっては手痛いものだった。
そして、何より恐れるべきものは後に待っている人物だった。
ともかく、協会に戻り対策を考える方が先決か……と思い巡らせ、セオはもう一つ重要な事を思い出した。
「いっ……たた。き、きた! 反動が……」
近くの壁に寄り掛かり、技の反動で動けなくなっていた朧は先ほどの黒い犬との一戦で負った傷も開いたのか辛そうに地面に座り込んでいた。
「くそぉ……」
彼は苦笑いを浮かべ、悪態をつく朧の手から零れたアルゲスを放し鞘へと収めた。
「立てるか?」
「……何とか、立ってみせる……」
頼りない返事を聞きセオが朧の右腕を取り立たせるには立たせたが、歩くには両足にまで来ているようで両膝が震えているのが見えた。
「はぁ……文句は後で聞いてやる」
そう断りを入れてセオは朧と体の位置を入れ替えるように両腕を己の肩に回すと、軽々と背負い歩き始めた。
「うわ、いいって! 降ろせっ、歩けるってば! 降ろせ!!」
「暴れるなって、落ちるだろ」
仕方が無い事とはいえ、朧は痛む身体ごと暴れてみせたがセオは気にせず帰路へ着いていた。
まさか、一閃でも倒せないとはな……参ったな……