1.走るは守護者
自分はただ、可愛い女の子と楽しくお喋りしてただけなのに最後はこの仕打ちですか?
夜、アーヴェラの街の細い路地を慌しく駆け抜ける音が響いていた。
汗で額に張り付く闇色の短い前髪を乱暴に払い、纏う白いコートが息を弾ませる主に、置いていかれぬよう必死に裾を翻し付き従う。
「位置照合、頼む」
『分かりました。守護者久遠、現在S―八四を移動中。守護者セオ、現在S―八七にて固定です』
「了解っと」
短い応答を終え携帯電話をしまうと、開いた距離を縮めようと更に足に力を入れて加速した。
明かりの点いた家々の下を縫いながら走り、先を行く黒い影を見失わず、追い込むための道を外させないように地面に転がっていた物を利用して頭の中にある地図をなぞらせていた。
「セオッ、追い詰めるぞ!」
「おう!」
予定通りの位置にいた相棒の返事を聞き、久遠朧は目の前を走る黒い獣に鋭く紫の双眸を向け直すと同時に、手にしていた白刃を投げた。
そして、狙い通り方向に進路を急転換した黒い獣の影を追い込むと数瞬遅れで、聞き慣れた高く澄んだ音と獣の悲鳴が耳に届いた。
しかし直ぐには立ち止まらず、獣に遅れたまま角の手前に落ちた愛剣を拾いあげ視線を先に左側の広場に向け、ようやく朧は目に映った光景に足を緩めた。
「さーすが流石、月弓の射手のセオ・パーシヴァル。眉間に一発か」
小さな広場を一度だけぐるりと見回した朧は弾む息のまま相棒をからかい、改めて黒い獣へ視線を向け直した。獣は眉間に鋼鉄の矢が深く突き刺さったまま凶暴な瞳を見開き絶命していた。
「それは何のイヤガラセだ。お前にフルネームで呼ばれると鳥肌が立つぞ」
「まあまあ、何はともあれ鬼ごっこは終わりってトコだな」
朧は鞘へと愛剣を収め、ふぅっと呼吸を整え汗で再び張り付いた前髪を払ってから同じように身体に張り付いていたパステルアクアのシャツを胸元で仰ぎ、風を送っていた。
「それはそうと平気なのか?」
「んー……何が?」
「何が? じゃないだろ!」
セオは地面に腰を降ろした朧の側にツカツカと歩み寄ると、問答無用で左腕を背中に反らす様に掴みあげた。
「いでっ!」
普段ならば大した事のないものだが、走り抜けた痛みに思わず声が出てしまった。
そして、セオが力を緩めると朧は腕を振り解き、わかったよ……と観念したように白いコートを脱ぎ、相棒へと背中を見せた。
シャツの上からでも分かるほどの傷。左肩甲骨辺りを鋭く走った獣の爪痕に沿うように血が滲んでいた。決して浅い傷ではないが、すでに出血は止まっているようだ。
「見た目よりかは平気そうだな。ったく、お前から珍しく誘う声があると思ったらこれだよ……たまには、厄介事なしで呼ばれてみたいもんだな」
心配な色を映していたセオの碧眼も言葉を重ねるうち安心したように穏やかになり、無造作に置かれたコートを拾い上げて朧の目の前に差し出した。
「だって、セオと飲んだって小言もらうだけじゃん」
くつくつ笑いながらコートを受け取ると、傷も感じさせないほどごく自然に羽織り直し立ち上がった。
「お前がある事ない事を適当に作り上げるからだろ。第一、酒も飲まないくせに……」
「何を言うか! 酔っていようが酔っていまいがそれが自分の人生の醍醐味。いかに面白く出来るかが腕の見せ所!」
「……それにオレを巻き込むな」
面白がって言う朧に対してセオは呆れた、と呟きながら緩く頭を振りながら視界の端で微かに辛そうな表情を浮かべた相棒にこっそりと溜息をついていた。
「とりあえず、コイツをどうするか……だな」
朧の言葉を受けセオも同じように視線を動かした。『コイツ』とはもちろん黒い獣の事だ。
「……それにしても、こんな街中で魔獣とは守護教会の連中は何やってんだか」
やれやれと、呟きながら朧は仔細を調べようと横たわる黒い獣に近づいた。
「セオ、明かりあるか?」
朧は振り返らずに相棒へ声をかけ、念を入れて左手は愛剣を抜きやすい位置に固定したまま、ゆっくりとしゃがみこんだ。
そしてセオはポケットから小さなライトを探し当て、明かりを灯すと闇を退け獣の容貌をはっきりと浮かび上がらせた。
横たわる黒い獣の瞳孔は完全に開き、光も差さずその生命活動を止めた事を示していた。朧は数秒ほど間を開け、ようやく剣から手を離し獣に手を触れた。
犬に酷似している魔獣の幾種類かはアーヴェラの近郊にもいたが、目の前に横たわる獣は二人とも初めて見るものだった。
尖った長い耳は背中に流れどこか兎の耳も連想させ、体躯も大きく小さな子供なら背中に乗っても問題はなさそうだが黒い毛は刃物のように鋭く硬かった。
「初めて見るな」
「だよな、自分は最初、ニードルウフルかと思ったんだけど毛の色が違うだろ? 変異種にしても耳はこんなに長くないだろうし、背中に特有の剣山もないしな」
記憶にある黒い獣に似通っている魔物の名前と特徴を挙げた朧だったが、思い出せば出すほど目の前に横たわる獣とは姿が違った。
「とりあえず、シオンさんには報告しておくか」
「よし、後は任せた! 自分は残りわずかとなった休暇を謳歌させてもらおう!」
セオの呟きに、はっと大事な何かを思い出したかのように朧は軽く手を振り、脱兎のごとく走りだした。
「……やれやれ」
それは毎度の事らしく、セオは軽く肩を竦めると躊躇いも見せず弓矢で狙いをつけると引き絞り、放った。
ちょうど階段を登り始めたばかりだった朧の数段上に、耳を掠める形で突き刺さった。
計算されていたのだろうか、勢いがついたままの朧が止まろうとして一、二段登るとちょうど眼前に矢が止まってあった。
「ぷぎゃーーっす! なにしやがるっ!」
あまりにも的確な位置に突き刺さった矢を掴み引き抜くと、逃げ出した時と同じ勢いで、セオの元に戻ってきた。
「あぁ、はい。ちゃんと、首に縄つけてでも仕事させますから……それじゃあ、あとで」
しかし、当の本人は携帯電話を片手に自分たちの上司に連絡をすませていた。
通話を終えると文句を言いたそうに待っていた朧に向き直り、何食わぬ顔で矢を受け取るように手を差し出した。
「うむ。備品は大事に使え……じゃないっ! 自分はこれからマダム・ダーナのところで楽しい時間をもう一度過ごすんだい!」
「お前はどこの我がまま太郎だ。それに諦めろ、日付変わって休暇は終わりだ」
セオは矢を受け取り足元につけた矢筒に戻すと、どこか晴れやかな笑顔で十二時を回った懐中時計を向けた。当然の如く遊びたい盛りな相棒はがっくりと肩を落とし、文句を言いながらすごすごと歩き始めた。
そして、ふと明るくなった景色に疑問をもち朧が顔を上げた。
路地の間にある小さな広場の明かりは太陽からもたらされるもの以外は特にないはず。
日付が変わったばかりの今に太陽が昇っていることはない。
「あ! うそ……だろ……」
やられた、と頭を抱え呟きながらセオを呼び光源を見るように力なく促すと、彼もまた朧と同じように驚きを露わに何も出来ずにいた。
二人の目に映っていたのは倒した黒い獣が青い炎を上げ燃えている姿だった。まるで油でも掛かっていたかのように激しく燃え、呆然と見守るなか一陣の風とともにその灰すらも辺りに残さず消え去ってしまった。
自分が厄介と思ったことには、ご丁寧にオレを巻きこんでくれるな……