6十六歳
本日2回目の投稿です。
色の濁流に押し流されないように、必死に手を動かす。今、自分が何を求めているのか。見失いそうになったときは、ジルのポスターを見直す。それから作業に戻る。インクを作っては色を塗って、乾かして、太陽光で確認する。
そんな作業を繰り返すうちに、今日がいつなのか、何時なのかがさっぱりわからなくなっていった。納品日はいつだったろう。それまでに間に合わせなくてはいけないのに。
私はどうしても……ジルがポスターに描いただろう感情が汲み取れない。悲しみの淵にある愛。身を焦がす恋。
「もう夕刻か」
気づけば作業室に夕日が差し込んでいる。もう色の確認はできない。いったん休息をとるべきか。汚れた指を濡らしたタオルでふき取る。白いコートとよれよれのシャツを、着替えるべきだろうな。そんなことをぼうっと思いながら、カーテンを閉めるために窓際へ移動した。
「馬車……?」
見おろす通りには貴族が乗るような馬車が止まっていた。見覚えがあるような気がするけども、ここ数日の記憶があいまいだった。たぶん、ひと眠りしないと思い出せない。
ジルのココアが飲みたいな。疲れた頭には一番きくのだ。
そんなことを思いながらカーテンを閉めようとすれば、かちゃりと部屋のドアが開いた。師匠か、タンタンか、それともジルか。そういえばジルにおはようとおやすみのキスをした覚えがない。
ということは、作業に没頭してから数日はたっているのかも。
のろのろカーテンに手をかけると、背後でドアが閉まった。なんだと思って振り返ると、そこには見覚えのある少女が立っていた。なぜかワンピースのボタンを外し、下着を露出させた奇妙な姿で。
ジャニーヌ・ルモワーニュ。
決意を秘めた眼差しに、追い詰められた表情。ちょうど私が立っている窓から差し込んだ夕日のおかげで、こちらの顔がよく見えないらしい。幼さの残る顔をしかめている。けれど、目が合ったのはわかったらしかった。
室内は茜色に染まっている。私のココアブラウンの髪が燃えるように光っているのが、目の端で確認できた。
「なにを……」
「こうするしかないの、初恋だったの! 劇場であなたを見かけたときに、こんなに美しい人はいないって思った。きっとあなたは私を好きになる! だから……私のものになって」
止める間もなかった。彼女は結った髪をほどき、それから甲高い悲鳴をあげた。それは屋敷中に響き渡り、十秒もしないうちに人影が飛び込んできた。それは見知らぬ男と師匠だった。
「ジャニーヌ! いったい、何が!?」
床に座り込み、身体を抱えながら震えるジャニーヌを、見知らぬ男が支える。その立派な服装に彼女の父親である、ルモワーニュ伯爵だと見当がついた。次に部屋に飛び込んできたのはお付きの男で、彼は床に震えるお嬢さんと私を交互に見比べて、それから呻いた。
「貴様……貴様、娘に乱暴を働いたのか!」
それにしても何がはじまったのだろうか。よくわからず、成り行きを見守る私に、伯爵が真っ青な顔ですごんでくる。ジャニーヌがいつのまにか泣き声をあげて、私が悪いのと繰り返した。その通りだった。
師匠はこの状況を見て、事の次第をすぐに理解したらしかった。
「男に……乱暴されたとあっては、どうしようもない。娘の愚行を詫びにきたが……それどころではない。この男に責任を取ってもらわなければならない……なんてことだ……」
「……はい?」
これはもしかして……私は、このお嬢さんと結婚させられそうになっている……? 働き詰めの頭にきつすぎる冗談だ。やっぱりひと眠りしないといけないらしい。夢かもしれないから。
伯爵はジャケットを娘にかぶせ、それからお付きの男に彼女を任せた。師匠以外、硬直した現場に新しく飛び込んできたのはジルだ。茜色の髪を乱して登場した彼に、お嬢さんの泣き声がぴたりとやんだ。
「どうしたっていうんですか。先ほど悲鳴が……ああ、ララ。ココアブラウンの髪がぼくと同じ色に染まってるね」
「うん、そうだな。でも、たぶん、そんなことを言っている場合じゃないぞ」
ジルはそう言われて初めて、それから泣いている令嬢と立ち尽くす私、私を睨み付ける伯爵の構図を見た。それから小首を傾げて私のそばにやってくる。
「よくわかんないんだけど、どういう状況?」
「とぼけるな! 娘に無体を強いたのだ! 見ればわかるだろう!」
太く怒気をはらんだ声がびりびりと鼓膜を叩く。それを聞いてジルが私の顔をまじまじと見つめた。
「ララって女性が好きなの?」
「違うけど」
「じゃあ、なんでこのお嬢さんに乱暴をしたってことになっているの」
それがさっぱりなんだ。怒れる父親はいまにも殴ってきそうだし、お嬢さんは登場したジルに唖然としている。師匠だけが楽しそうにニヤニヤしていて、性格が悪い。
「私が作業をしていたら、このお嬢さんがやってきて、勝手に脱いだんだ。それから突然悲鳴をあげて、今にいたる」
「それは貴様が乱暴したからであろう……かわいそうにジャニーヌ。乙女の肌をこんな責任感のない男に見られるとは。これは醜聞だ。社交デビューもしていない娘が、男に襲われた。もう、嫁ぎ先はない」
やっぱりこれ。私がお嬢さんと結婚する流れになっているし、お嬢さんのほうはいやいやと駄々をこねるように父親に縋り付く。
「お父様、これは、その違うのです! わたくしはただ驚いて、悲鳴をあげただけなのです……そう、虫に! 虫にです!」
「何を言っているんだ……そのような恰好で」
「本当です! わ、わたくしが結婚したいのは、この方ではありませんっ!」
娘の告白に伯爵の目が丸く大きくなる。ばつが悪そうにそらされる娘の顔に嫌な予感がしたのだろう。彼は大きく深呼吸をして、それから私に向き直り、それでも言葉を告げずにいた。ようやく絞り出した声は苦しそうだ。
「それでも……この状況ではどうしようもあるまい。例え、この男に乱暴をされていなくとも。世間はそう捉えまい」
だから、お前はこの男と結婚するしかない。そう言われてジャニーヌは顔を真っ青にして、泣き叫ぶ。
「いやですっ! なぜ話したことのない男性と結婚しなければならないのですか。あんまりです……これはちょっとした手違いなの、わたしが慕っているのは、この男ではない!」
ヒートアップする伯爵とその娘のやりとりに、私はどうやって割り込んだらいいのだろうか。困っていると師匠が咳払いをして、二人の注目を集めた。
「お二人にとって好都合なことに……そちらに立っていますのは、弟子のララ。背が高めの……女性です」
部屋中の視線を集めた私は、にこりと愛想笑いを浮かべるのが精いっぱいだった。
「女性……? それにしてはいで立ちが」
「作業場なので男性と同じくシャツとパンツ姿です」
「なるほど。確かに声は女性のものだったな……すっかり男性と思い込んでいた……ジャニーヌ。お前は女性相手に何をしようとしていたのだ……」
いや、それでも女性という証拠が欲しい。申し訳ないが、うちで雇っているメイド長に確認させてほしい。そう言われて師匠と私は頷く。
ようやくジャニーヌが、私とジルを間違えたのだとわかった。確かに後ろ姿は兄弟だ。しかも夕日のせいで髪は赤いし、逆光だったから顔は見えない。勘違いを起こす要素はたっぷりあったわけだ。
ジャニーヌはジルにはっきりと断られても、諦めることができずにいたらしい。父親が謝罪するというので、これが最後のチャンスだと実力行使に出たらしかった。つまり既成事実。
結局、ジャニーヌは想い人のジルと目線を交わすことなく、付き人と共に馬車に乗り込んだ。今から屋敷や連れ帰って外出禁止にするらしい。ついでにメイド長がこちらにやってくるという寸法だ。
「娘がとんでもないことをした。すまない」
「いいえ、気にしていません」
伯爵は私たちに重ね重ねの非礼を詫び、それから今後も劇場のポスターを描いて欲しいとお願いをした。伯爵の娘一人の非礼で、現在もっとも有名かつ人気のある工房から、仕事を断られると、劇場の出資者にとっては痛手である。それは伯爵一人の問題ではなく、貴族社会における失態でもあった。それほどまでに貴族社会における舞台、音楽、絵画を含む芸術活動は重要なものだ。
そして駆けつけたメイド長により私の性別が女であることが証明され、長い一日が幕を閉じた……かに思えた。
*
「ミレーヌさん。聞きたいんですけど、あのお嬢さんは十六歳で結婚をすると」
「ええ、そうね。ラザニアのおかわりはどう?」
「いや、ぼくは……」
「お願いします」
食卓の世話をするミレーヌさんにお皿を預ける。最近、ちゃんと食べていなかったからかな。どうもお腹がすいてどうしようもない。シャワーも浴びてすっきりとした私は、食卓の食事をすっかり平らげてしまった。
その隣で浮かない顔をしているのはジル。何を考えているかと思えば、唐突な質問だった。向かいの師匠がラザニアをもぐもぐしながら、とうとう来たかーと笑った。
私はラザニアを受け取って食べ始める。ときどき薄めたワインを飲みながら。
「貴族はほら、横のつながりも大事なのよ。婚姻でね、家同士が結びつくこともあるの」
「そうそう。そんで、わりと女性の貞淑に厳しくてさ。だから、あんな強引な真似をしたんだと思うぜ。ま、相手を間違えちゃ、どうしようもないわな」
今日は大変な出来事があったと、タンタンとバネットも夕食の席に参加していた。二人に勘違いした伯爵のお嬢さんの話をしてやると、腹がよじれるほど笑っていた。当事者じゃないってのは気楽でいい。あのとき、本当に結婚することになったらどうしようと思ったのに。
「そうじゃなくて。女性は……十六歳で結婚できるってことかな?」
「あら、知らなかったの。理由は知らないけど、昔からそうよ。男性は十八歳、女性は十六歳ってね」
ジルの言葉にバネットがふふんと笑った。それからフォークで私を指さす。
「よかったわね、ララ。あんた、強制的に結婚させられなくて」
「まったくだね」
初対面の男はごめんだと言っていたけど、そのほぼ初対面の男と既成事実を作ろうとしたことは……棚の上にあげているんだろうな。幸いだったのは私が女だったということ。ジルはちょうど伯爵と一緒に応接間にいたことだろうか。
バネットと笑いあうとタンタンが盛大なため息をついて、私に目配せをした。隣の男を見ろってことらしい。
ひえっと声がでそうになったのは、私がこの歳になってジルにびびったからだ。まるで猛獣のような目つきで私を見つめていた。瞬きの一切もなく。
「ああ、ララ」
絞り出した声はかすれていて、こっちが赤くなるくらい色っぽい。なにが始まるというのだろうか。目を白黒させる私に構わず、ジルがそっと膨らんだ頬をなでる。そこには食べかけのラザニアが収まっているはずだ。ごくんと飲みくだす。
「そうだ、おれ、ダチと約束してたんだったわ。悪いけど帰るな!」
「あたしはこれからデート」
「え? はい? きゅうに?」
タンタンとバネットが同時に立ち上がって、食器を洗い場に持っていくとさっさと出ていった。それを見た師匠も慌ててラザニアをかき込み、それから丁寧にナプキンで口元を拭く。そしてミレーヌさんに微笑んだ。
「今夜は観劇の予定だったね。そのあとは久しぶりにワインでも飲みにいこうか」
「それはすてきね。楽しみだわ」
夕食の片づけもそこそこにミレーヌさんと師匠が立ち上がる。そして残された私はまだ残っているラザニアとジルを見比べて……折れた。
「大事な話があるんだ。ぼくの部屋でいいかな」
恋を自覚したばかりの私に、断る選択肢なんてない。いや、恋を自覚しなくても……ジルの誘いを無下になんてできないのだ、昔から。
ふるりと身体の芯が震える。
何故ならジルの視線が、私の内側を焦がすほどに熱かったからだ。その目を私はよく知っている。絵を描いているとき、そんな目をしていた。そして私にキスをするとき、優しく触れているとき。唇や指先は穏やかでも、グリーンの瞳に灯る苛烈さは隠せていなかった。その目と見つめあうと、私は自分が食べられてしまうのではと、背筋がぞくりと震えた。
今、絡んだままの視線は宣言していた。
お前を食べるぞ、と。




