「通貨危機」
「800ボンドだよ」
店に戻ると、スキンヘッドに生傷といったスリリングな風貌の店主が、我々の前にずぅんと立ちはだかってそう告げた。
この時の俺には、800ボンドというのが一体どのくらいの価値なのかサッパリわからんかったけれど、どちらにせよそんなワケの分からんおカネはビタ一文持っていやしない。
「……何とか一万円でどうにかなりませんか?」
「なんだこりゃ。変なホクロのオッサンだな」
ちょっ!叱られるよ?
「こ、これが俺の国ではおカネなんです」
「ははっ嘘付け!こんな妙なカネ、見たことも聞いたこともねえぜ」
異世界というのはまったく怖ろしいところである。
かの強大たる日本円がまったく通用しないとは。
大蔵省と日本銀行の威光も、異世界に至ってはイチ飲食店の店主の頭すら照らすことあたわず、といったところか。
「本当ですって。俺の国ではこれで愛も友情も買えちゃうんですよ」
「な、なかなかドライなお国柄だなぁ……まあ、仮に本当だったとしても、ウチはボンド銀貨か銭貨以外でのお支払いは遠慮してもらってんだ」
「そこを何とかお願いします」
「駄目なモンは駄目だ。こっちは単なる飲食店なんだから、証文や外貨はちゃんと両替してきてもらなくちゃ参っちまう。世の中には両替手数料ってもんがあるんだしな」
テコでも動かない感じだ。
振り向くと、さっき叱ってからというものシュンっと落ち込んでいるラトカが、銀髪を垂れてうなだれている。
「すまぬ、吉人……」
ちょっと言い過ぎたかなと心が痛んだのと同時に、この女がまったく頼りにならないことを思い出して絶望的な気分になった。
まあ、それでも食ってしまったものは仕方が無いので、
「だったらそのボンドとかいう貨幣を800用意してくるからちょっと待っていてください」
と頼んだのだったが……
「そんなこと言ってもこのまま放したら逃げちまうかもしれないじゃないか。あんだけ飲み食いしてトンズラされちゃあウチはあがったりだからな。はい、そうですかと納得するわけにも行くめえ」
彼の言うのももっともだ。
とりわけ我々は一度無断で去ってしまったのだし、信用がなくて当然だろう。
「でも……それじゃあ、どうすりゃあいいんです?」
「要はあんたがちゃんとカネを用意して帰ってくるという保証がありゃあいいんだ。」
そう言って、スキンヘッドの店主は俺の後ろを指差す。
「そっちの奥さんは置いてきな。旦那がちゃんとカネを持ってきたら返してやるから」
俺の後ろの奥さん――もとい女賢者ラトカは、
「お、おお、奥さんだと……」
などと言ってワケの分からない不思議な動きをしつつ、顔を真っ赤にしている。
まあ、そりゃあ賢者というまで自負のある彼女が「人質になれ」だなんて言われては、怒りで我を忘れもするだろう。
気持ちは分からないでもないが、原因はそもそも食い逃げ上等で店に入った彼女にある。
我慢して人質役くらいはこなしてもらうとしよう。
と、言うわけで、俺はラトカを取り戻すために800ボンドを用意してこなければならなくなったのだった。
◇◆◇
さて、ここカリムの街で、俺はただ一人。
右も左も知らぬ人ばかり。
正直心細い。
まあ。なにはともあれ、今は800ボンドだ。
でも、こんな異世界で、どうやって800ボンドなんて用意すりゃいいのだろう。
そもそもボンドという貨幣は1ボンドでどれほどの価値があるものなのか。
それすらも見当が付かない。
そんなふうに惑っていると、ふと、往来の武器屋さんっぽいお店に冒険者風の男が入ってゆくのを見た。
そうだな。
まずは彼の買う武器を観察してみるのも良いかもしれない。
俺はそう思って武器屋っぽい店へ入って行くのだった。