想い
【12】
病院に着くなり、救急処置室へと搬送される久追の口元は自身の血で赤く染まっていた。
救急車が来てからも山本の説明は続いていて、二人して付き添いで乗り込んだ。山本の説明が終わったのは病院に着く直前。処置室の前にあるソファーに座り、久追が出てくるまで異様に長い沈黙が続いた。山本は久追の母親に連絡するため、席を立ち、ひよりは個室のベッドで眠る久追に付く。
いくつも管に繋がれた久追は見ていて痛々しい。医師からは、命に別状はないので数日で意識が戻ると説明を受けた。規則正しい呼吸をしていても、ひよりの不安は払拭しない。山本からの説明が頭から離れないのだ。久追が頑なに隠していたのは、まさにこの現実なのだろうと理解した。
やがて山本からの連絡を受けた母親が駆けつけ、我が子の姿を見るなり泣き崩れた。その震える小さな肩を山本が支えて、立ち上がらせると、近くの椅子に座らせる。
重い沈黙が降り注ぐ。誰もが言葉を発しようとは思わなかった。
久追の目が覚めないまますでに4日は経過している。彼が目覚める様子はない。あれから毎日のように放課後に見舞いに行くが、言い知れぬ不安だけはまとわりついて離れない。いつも明るく空気を和ましてくれる山本も、さすがに笑顔を忘れたように無表情だ。
規則正しい久追の呼吸と心電図の電子音だけがやたらと響く病室内は重たく冷たい。ひよりは無意識に久追の右手を取り、両手で包むように握る。久追の動いていない手は、指先まで冷えきっていた。
「少し、外に出てくるね」
ふいに山本が告げる。ひよりはまっすぐに久追を見つめたまま動かない。それを確認してから山本は静かに病室を出ていった。
いつの間に山本が開けたのか、窓から暖かくなった風が病室の中へ入り込んだ。もう7月だ。あと数日もすれば夏休みに突入する。梅雨もつい二日前に明けたところで、もう夏を感じさせるには十分な熱気がある。夏休みになったら、三人で一緒に海や山に行こうと盛り上がっていたのに、行けそうな雰囲気ではない。
このまま久追が目を覚まさなかったらどうしようかといらぬ心配と不安ばかりが募る。 もうあの口の悪い声や笑顔は見れないのではないかと、余計なことを考えてしまう。ひよりは瞼をぎゅっと閉じて祈るように久追の手を握った両手を額に当てた。「……っ!」
ひよりの手の中でピクリと微かに動く感覚がして、慌てて久追を見る。閉じられていた瞼が、ゆっくりとその隠していた瞳を映し出す。
「久追くん!」
思わず名を呼んだひよりの声に導かれるように、久追の視線がゆっくりと移動する。意識が覚醒したばかりで、ぼぅっとした久追はひよりの涙に濡れた姿を見て、力なく笑みを作り上げた。そうして解放された手をゆっくりとひよりの目元にやると、指で涙を優しく拭う。
「なに、泣いてんだよ……馬鹿……」
久追の唇から零れた声は掠れ、どこか弱々しい。目元から離れる久追の指先が、思っていた以上に細くひよりの胸を締め付ける。現実が押し寄せてくる。どうしようもない想いが溢れそうになって、ひよりはぐっと目を閉じてそれを抑え込んだ。
自覚した。自覚してしまった。
「……ひより?」
止めどなく涙が溢れる。気遣わしげな久追の声が、こんなにも胸を締めつける。もうどうにもならないのに。わかっているのに。ひよりは声を殺して泣くしか方法が分からなかった。
カチャリと音を当てて病室のドアが開き、入ってきたのは外の風に当たってきた山本の姿だった。意識を取り戻したのに気づいた山本の目が見開かれる。手に持っていたコンビニのビニール袋を落とした音で、久追はゆっくりと山本の姿を認めた。久追が声を発するよりも早く、山本の瞳からいくつもの涙が溢れる。
「山本まで……なに泣いてんだよ。……バーカ」
力なく肩を震わせて笑う久追。あれだけ頼り甲斐のある久追の態度が、こんなにも弱く儚いものだと思わなかった。
やがて山本は涙を拭い、気恥ずかしそうに笑うとナースコールを押して、応答した看護師に久追の意識が戻ったことを報告した。まだ話したいことはたくさんあるが、これからやってきた医師たちの状態確認などが始まることもあり、医師が来るのと同時に病室を後にした。目を覚ましたばかりの久追に長時間の会話は酷だろうという判断でもあった。
今は久追の意識が回復したことを素直に喜ぶべきだろう。二人はなんとも言いがたい気持ちを抱きつつそのまま病院を後にした。
【13】
久追の意識が回復して二日目。いつもなら共に見舞いに行く山本が、担任からの呼び出しで行けそうにないとメールをしてきた。仕方がないので、ひよりは日課になりつつある見舞いに一人で向かうことにした。 病室の近くまで行くと、なにやら言い争いのような声が聞こえてきて、ひよりは何事かと駆け寄りゆっくりと音を立てないようにドアを少し開けた。ぐぐもって聞こえていた声が鮮明になる。
「いい加減にしなさい!」
久追の母親の声が耳に刺さった。
「なんでそこまで強情なの、あんたは!」
「うるせぇ、俺のことを俺が決めてなにが悪い」
「だからお母さんは治療を受けろって言っているの。それ以外はなにも文句なんて言わないわよ!」
親子喧嘩。しかし、内容が……。
「治療なんかしても結果が変わらねぇなら、やるだけ無駄だろ!俺に金使うよりほかのことに使いやがれ!」
「子供が親に指図するんじゃないの!」
ひよりは静かにドアを閉めて、少し病室から離れた場所にある休憩室に移動した。久追とその母親の口論の内容からして、今後の治療の件なのだろうと察しはついた。しかし、当の本人は治療を拒否。それが母親には理解できなかったのだろうか、治療してほしい思いが伝わってきた。それはそうだ、我が子を、簡単に見捨てるような真似など母親にできるわけがない。生きてほしいから治療を勧めるのに、肝心の本人がそれを良しとはしないから治療に踏みきれないのだ。
久追もまた、治療しても回復する見込みがないことを知っているからこそ、治療費を別のところで使ってほしいと願っている。互いが互いを思いやっているのに、なぜあんなふうに口論するような形になってしまうのか。
生きてほしいと願う親と、苦労をしてほしくない子供。思いは切ないぐらいにすれ違う。
山本から久追の症状を耳にしていなければ気づかなかった。久追は強くて、時に厳しい優しさを持っていて、どんなに心強かったか計り知れない。そんな久追が抱えていたものは、ひよりが想像していたよりも重かった。久追のことなのに、久追の気持ちを思うと堪らなく涙が溢れる。久追の抱えているものを少しでも分かち合えたなら、暗くて重いものを軽くできるのに。その術をひよりは見出だせずにいた。 少し離れた場所で、ドアの開閉する音がしてひよりは顔をあげた。ちょうど視界に久追の母親が廊下を歩いていく後ろ姿が映る。自然と立ち上がり、ひよりは病室のドアの前に立つ。きっと今の久追は気が立っている。迂闊なことを言えば、追い出されるかもしれない。けれど、それでもいいとひよりは一人頷いてドアを開けた。
「……ひよりか。毎日飽きないやつだな」
ひよりの姿を認めた久追が苦笑して迎え入れる。ぶっきらぼうに返されると思っていたひよりは拍子抜けした。ベッドサイドにある椅子に腰かけて、久追の顔色を窺う。
「顔色が良さそうでよかった。昨日まで意識がなかった人には見えないわ」
「俺はタフだからな」
ひよりの言葉に久追が自慢気に鼻を鳴らす。そして山本の不在に気づいたのか、山本は?と首をかしげた。
「担任に呼ばれたんだって。今日は来られないって言ってた」
「なるほど、そろそろ呼び出し来るだろうとは思ってた」
「え?」
まるで山本の事情を知るかのように久追は小さく息をついて一人で納得する。その理由をひよりには分からなかった。
「知らなかったのか?あいつ進路の用紙を白紙で出しやがったんだよ」
「嘘っ……。だってセンパイ就職決まってるって……」
「アホか。まだ二学期にもなってないのに決まるわけないだろ」
久追に言われて、たしかにとひよりも納得する。あの時、受験生の山本に迷惑がかかると思っていたひよりは、問われても答えなかった。だからだろうか、山本は咄嗟に嘘をついたのかもしれない。
「まぁ、あいつの成績なら適当な大学でも受かるだろうけどな。内申書は知らんが」
今では成りを潜めているが、一応これでも不良の久追とつるんでいたのが、山本にいい影響を与えていたとは思えない。
「どうして嘘なんか……」
「ひよりを気に入ってるからだろ。俺と平然と一緒にいる女は今までいなかったし、なにかと肝が据わってる」
「それって誉めてるの?貶してるの?」
「誉めてんだよ。素直に喜べ」
「……嬉しくないなぁ」
何気ない会話が続く。久追が重い病気を抱えているなんて嘘のように、心地のよい空気が漂っていた。けれど、昨日よりはマシではあるが、それでも点滴を見ると現実が押し寄せる。
久追の母親の治療してほしい思いが痛いほどわかった。「ねぇ、久追くん」
意を決したようにひよりはまっすぐに久追を見た。目を丸くする久追に、真剣な眼差しで口を開く。
「治療、受けようよ」
ひよりの言葉に久追の目が剣呑になる。
「お前も言うのかよ。やるだけ無駄だって山本から聞いてるだろ」
「聞いてるよ。でも、それでも私は久追に治療を受けてほしいの」
嫌われたっていい。無駄なことだって分かってる。だけど、それでも……。
ひよりの瞳から涙が溢れる。それを見て久追が驚いたように目を見開いた。
「生きてほしいよ。久追くん……生きてよ……」
「……無茶言うなよ。なにをしたって結果は変わらないんだ。俺を困らせてぇのかよ、お前は」
バツの悪そうに目を逸らして久追は言う。そんな久追の手を取りひよりは眉をつり上げた。手を掴まれて反射的にひよりを見る久追。
「なんで逃げるの!?」
「……逃げてねぇ」
「逃げてるよ!現実から目を逸らして、立ち向かおうとしてない!久追くん私に言ったじゃない、過去を受け止めて前に進めって!」
ひよりが久追に対して声をあらげるのは、初めて出会った日以来だ。それだけひよりが真剣な証拠だった。しかし、久追も譲れないのか反論する。
「ひよりと俺は違うだろっ」
「違わない!逃げてることは何一つ違わないんだよ!死を受け入れてるフリして、闘おうしてないじゃないっ!」
ひよりのさらなる追及に久追は息を飲む。ひよりの瞳からはまだ涙が溢れていた。それだけひよりが必死になっている。
「物分かりの良いフリして、治療拒否なんて子供と同じよ!」
「お前に分かるかよ!俺の気持ちなんかっ」
「分かんないわよ!私は久追くんじゃないもん!」
二人のやりとりが、出会った時に重なる。身を投げようとしたひよりと、それを止めようとした久追のやりとりが重なる。立場が変わってしまった。生きることを諦めてしまっている久追と生きてほしいと願うひより。思いが交差する。
「死ぬって怖いよ。そんなの私だって分かってる。久追くんに助けてもらって初めて死ぬことが怖くなったの。だから今の久追がどんなに死に恐怖してるのか分かる。きっと私が思っている以上に怖いはずなんだ」
「……」
久追の反論が止む。ひよりはゆっくりと本当に伝えたい思いを、伝わるように心掛けた。「ねぇ、久追くん。もう格好つけるの、止めよう?」
「……」
「怖いなら怖いって言っていいんだよ。弱音吐いていいんだよ。生きたいって我が儘言っていいんだよ!じゃなきゃ、久追くんだけが苦しいだけじゃないっ」
カタカタと久追の体が震える。
「生きてよ。最後まで足掻いてみせてよっ!……私にも、その苦しさを分けて、よ……っ」
不意に久追が俯く。肩を震わせて、小さく本当に小さな声で吐露した。
「死にたくない……っ。生きて……いたい……っ」
ポタリと久追の顔から雫が落ちた。
「死ぬのが怖いんだ。怖くて堪らない……っ」
「当たり前だよっ」
ひよりは思わず久追を抱き締めた。驚愕に揺れる久追の瞳は涙で濡れている。ぎゅうっと強く抱き締めてひよりは涙を流しながら、さらに続ける。
「怖くない人なんかいない!いないんだよっ」
久追はボロボロと溢れんばかりに涙を溢し、声を殺すようにして泣いた。すがりつくように、ひよりの背中に手を回して。ひよりもまたそれに応えるようにさらに腕の力を入れて抱き締めた。
十数分ほどして落ち着いた久追が体を離して、ひよりの肩に手を置いた体勢で、まっすぐに見つめる。その表情は真剣なもので、逸らすことを許さないなにかがあった。
「……久追くん?」
不思議そうに首を傾げるひよりに、久追は一度頭の中を整理するかのように目を閉じてから、すぐに開いた。
「俺の事情はわかったはずだ。このまま契約を続ける必要はない。破棄をしよう」
「な、なに言ってんの……?」
久追の口から紡がれた言葉に、何を言われたのか理解できず、ひよりは動揺する。
「ひよりはこの数ヶ月で十分強くなった。俺がいなくても大丈夫だろ。むしろ俺の存在が重荷になる。ひよりに契約を続けるメリットとはねぇだろ」
たしかにひよりは強くなった。他校の不良たちに捕まったときも、冷静に判断し最小限の行動しかしていない。これならばクラスメイトのイジメが復活したところで、適切な対処ができるかもしれない。
しかし、ひよりは久追と離れることなど考えていなかった。契約というものが、久追との繋がりだと信じて疑わない。だから契約破棄は久追の傍にいられないと感じた。
「や、やだ。絶対やだ!」
「なんでだよ。俺は近い将来死ぬんだぞ」
久追の中で整理がついているのかもしれない。それは生という諦めではなく、死を受け止めた上での発言だった。「それでも私は久追くんと一緒にいたい!一緒に闘いたいよっ」
「馬鹿だな。俺は札付きの悪だぞ。一緒にいるメリットなんかあるかよ」
「私は……っ」
なおも説得しようとする久追の気持ちが分からなくて、ひよりは子供のように首を左右に振って抵抗する。
きっと伝わらない。言ったところで無駄なのも理解している。それでもひよりはついて出た言葉を止めることができなかった。
「好きなの……っ。久追くんが好きなの……っ。お願い、傍にいさせて……」
「……」
突然の告白に久追は微かに目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻してひよりの頭を撫でた。
「本当に馬鹿だろお前。俺は死ぬんだぜ?彼氏なんかにしたら絶対辛いのはひよりだろうが」
「それでも……っ。それでも良いの!最後まで久追くんの傍にいたいの。隣にいたいの」
我が儘を言って、久追を困らせているのは百も承知だ。想いを受け止めてもらえないのだって分かっている。ひよりが勝手に久追に恋をしただけで、彼に非はない。久追がひよりのことを異性として意識していないのだって理解している。前に山本が久追もひよりを可愛く思っていると口にしていたが、久追も留年しているだけで年は山本と同じ。ひよりを妹のように感じていただろう。だから、伝えるだけでそれ以上は求めない。
「妹でもいい、傍にいたいの。それだけでいいの……」
久追の顔を直視できなくなってひよりは俯く。久追の反応が怖い。どんな答えだって笑顔で受け入れる覚悟をしているつもりだった。覚悟をしていても、やはり胸が痛む。
「……参ったな……」
ふいに聞こえてきたため息混じりの声に、ひよりはビクッとした。やはり受け入れてはもらえない想いだったのだ。だったら、いっそのこと振ってほしい。
久追が動いたのをひよりは俯きながら確認した。その瞬間、自分の体に熱を感じる。気づいた時には、ひよりは久追の腕の中にいた。何が起きたのかひよりには分からなかった。そんなひよりの頭上から声が降ってくる。
「自制してたのに、この馬鹿……」
その声は温かく、とても優しかった。思わず瞳から涙が溢れる。
「俺に時間は限られてる。だから俺の我が儘でお前を縛りつけるのはダメだと抑えていたのに……。覚悟しろよ……絶対に離してやらねぇからな……」
「うん……っ、うん……っ」【14:久追side】
意識か戻って数時間、一通りの診察が終わった後、病室に一人残った久追は、開け放たれた窓の外を眺めていた。彼の脳裏には目を覚ましたときのひよりの涙に濡れた姿が浮かんでいる。
悲しませる。傷つける。そんなことは山本に言われなくても最初から分かっていた。結末を容易に想像できるぐらいには……。
出会った時、ひよりは身を投げようとしていた。原因はクラスメイトによる集団いじめだ。生きることに意味を見出だせず、死を選択した彼女を久追は一瞬妬ましいとさえ思った。生きようと思えば、いくらでも生きられるはずのひよりが、久追にとっては些細な出来事で死を選択したのがどうしても許せなかった。
死を選ぶなら、その命を俺にくれよ……!
病気を知らずにいた頃は、死ぬことなんかたいしたことはないと思っていた。そう、実感なんてこれっぽちもなかったのだ、自分が死ぬという現実を。
きっかけは去年の他校の生徒たちとの乱闘。そのせいで手足を骨折し、内臓にもダメージを受けていた。そこで検査をしたら、骨折よりも重大な欠陥が発見された。血液の数値が異常を示し、かなり進行していると告げる医師の表情は厳しいものだった。そんな医師の口から出たのは余命宣告。治療をしても一年だと耳にしたとき、全然実感が湧かなかった。けれど、いつもできていたことができなくなっていくのを目の当たりにして、嫌でも実感を味わうことになったのだ。
何をしても死ぬことに変わりはないのなら……。
何度も自分自身の運命を呪っては、気を遣う母にやつあたりを散々繰り返してから、久追はようやく自分がどうしたいのかを考えた。
その決断は母や山本を悲しませるもので。母にどんなに説得されても思いを変えることはしなかった。
『どうせ死ぬなら、何もしないで自由に残された時間を生きたい』
治療拒否。これが久追の下した決断だった。医師はそれを飲む代わりに、定期的に通院することを条件に出し、久追はそれを受け入れた。日が過ぎていくにつれて、体の自由が少しずつ利かなくなっていく。通院する度に、告げられる進行状況。 そんな折りに出会ったのがひよりだ。いじめに苦しんでいた彼女は死を選び、そこへ偶然余命宣告をされた久追がやってくる。なんと皮肉な出会いだろうと思った。助ける気は本当になくて、ただ簡単に自分の命を蔑ろにできるひよりが妬ましくて、羨ましくて、だから生に執着してほしいと思った。
俺は死ぬのに、こいつはまだまだこれから先、生きていけるのに。
簡単に捨てようとしないてほしい。限られた最も大切なものを、大事にしてほしい。そんな衝動が久追のなかに生まれた。結果、ひよりを生かし助けることに繋がった。生きる意味を見出だせないでいる彼女に、久追は提案する。
自分に許されたギリギリの時間を、ひよりに生きるための強さを学ばせるために使う。それが一年間の契約だった。その内容はなんでもよくて、思いついたのが『恋人のフリをすること』だっただけで、他意は本当になかったのだ。
それなのに……。
この数ヶ月を共に過ごすようになって、ひよりの知らない一面をいくつも見てきて、思うようになる。
『まだ、死にたくない……』
生に執着することを諦めたのに、死を受け入れたはずなのに。死ぬことが怖くなっていく。まだ、ひよりや山本たちと楽しくつるんでいたい。ようやく充実した毎日を手に入れたのに、病は久追を待ってはくれない。
久追は無意識に手に力を込めていた。治療をすれば一年は生きられる。だが治療を拒んでいる今では、一年体がもつか分からない。もしかしたら一年経つ前に、耐えきれずに滅びてしまうかもしれない。分かっていたはずなのに、後悔ばかりが久追を襲う。
「馬鹿なのは、俺だよな……」
呟いた久追の頬に一滴涙が零れた。