忍び寄る影
「なんて顔してんだよ、立ちくらみだっつったろ?」
不安気なひよりに気づいた久追が、ニッと笑ってみせる。それを見たひよりは久追の隣に立つ山本に視線を移した。山本は困惑しているかのような笑みを浮かべている。ぎこちない笑みと言ったほうが早いかもしれない。
「……でも、山本センパイは大したことなさそうな顔をしてますが……」
ひよりの言葉に山本は僅かに見開いたが、すぐに平静を装う。すると久追本人は本当に大したことないとでも言いたげに、ペシンと山本の頭を叩いた。
「単に、山本が心配性なだけだ。大袈裟なんだよ、お前は」
「ごめんね。久追って喧嘩ばかり繰り返してたから、怪我が治ってもたまにこういう風に体調崩したりするんだよ。参るよね、心配するこっちの身になれってんだ」
「うるせぇ」
久追にたしなめられて、山本は自分の行動の弁明を笑顔でした。その弁明をひよりはなるほどと納得する。
たしかに今まで喧嘩をしてきて大事なかったほうがおかしい。それに久追はその喧嘩が原因で入院したわけだから病み上がりと同じだろう。体調を崩していてもおかしくないかもしれない。
「久追くん、私頑張って久追くんの体調に気をつけるよ!」
両手に拳を握って決意するひよりに、たじたじになりながらも久追は了承した。そんな久追の耳に山本の呟きが聞こえる。
「これで、ますます体調は崩せないねぇ」
この時の笑顔の山本を久追は一生忘れるものかと自分に誓った。
【4】
二人が付き合い出して時が経つのは早いもので、すでに2ヶ月を過ぎていた。季節は初夏、梅雨に入っている。毎日が雨で憂鬱になる日々が続く。梅雨に入ってから、お昼は専ら学食になっていた。ひよりと久追、山本の三人の仲は学校でも有名になりつつある。付き合い始めはぎこちなかった二人も、今では遠慮というものがなくなった。
「久追くん、その卵焼きちょうだい」
「じゃあ、そのウインナーよこせ」
こんな会話が当たり前になっていた。久追の存在は、たしかにひよりを前向きにさせていく。顔色を窺っていたクラスメイトに挨拶を交わすことができるまでは成長したのだ。まだ挨拶だけだが、それでもイジメを受けていた時に比べたら格段に変わっている。ひよりはそんな毎日が楽しくてたまらなかった。 毎日が楽しくて、このまま続けばいいとさえ思い始めていた。偽りではあるが彼氏の久追は、会話を重ねていく度に、良いところが見え始めていて、ひよりは彼を良い友達とさえ思っていた。他の誰よりも久追を信じている。久追は契約とはいえ、ちゃんとひよりをあらゆるものから守ってくれていた。
放課後は三人で下校。途中でコンビニに寄ったり、本屋に寄ったり。時間を有意義に使うのが嬉しくてたまらない。自然と笑顔も増える。苦しかった毎日が、息ができるようになって、呼べば応えてくれる人がいる。それがどんなに幸せなのか、ひよりは身に染みて実感していた。
三人で仲良く並んで街中を歩いていると、後ろからひよりを呼ぶ声がした。その声にひよりはドクンと心臓が激しく鼓動を繰り返すのを感じる。この声は、忘れようとした声。できるなら二度と聞きたくないと思えるほどのものだった。
「新谷さん……」
ゆっくりと振り向いた視線の先には、大人しそうな少女が立っている。華奢な体をして可愛らしい顔の少女。彼女は控えめな瞳をひよりに向けていた。少女の姿を見た瞬間、ひよりの動揺は見てとれるほど明らかだ。ひよりの顔から笑顔が一切消え失せ、真っ青な顔をして一歩、また一歩と後退する。
「ひより……?」
様子のおかしいひよりに、久追と山本はひよりと少女を見比べた。二度目に少女の口からひよりの名が出た瞬間、ひよりはなにも言わずにその場から逃げ出した。
「ひより?!」
「ひよりちゃん!!」
走り出したひよりを追いかけるように二人も走り出す。残された少女は呆然とした表情を浮かべたまま走り去った三人を見つめた。
思い出したくない記憶が蘇る。忘れようと自分に言い聞かせて過ごしてきたことを思い出す。声を聞いた瞬間、まだなにも忘れていなかったことに気づく。
そうだ、あの日もこんな雨の日だった……。
あの時は周りに友達がいて、自分が巻き込まれるなんて思ってもいなかった。ただ、守りたかった。傷ついているクラスメイトを、ただ守りたかった。だけど、それは叶わないまま、思ってもいないところで、矛先がひよりに向いた。守ろうとした人が、いとも簡単にひよりを利用して逃げた。
残されたのは、立場の逆転だった。
そうだ、私がイジメを受けていた理由は……。
【5】
今の高校に入学して数日で、すでにグループはできていた。そんな中でポツンと一人だけいるクラスメイトがいた。雰囲気だけでなく実際にも大人しく意見を言うことも出来ない彼女は、自然とクラスメイトたちのかっこうのストレス発散となっていた。最初は本当に些細な悪戯からで、それは日々エスカレートしていく。それをひよりは客観的に傍観者を決め込んでいた。彼女がどんな仕打ちを受けても抵抗はおろか一切言葉を発さない。それがひよりには歯痒くて仕方なかった。嫌なはずなのに、「やめて」の一言すら言わない。だからイジメはさらにエスカレートしていく。担任や他の教師には気づかれない場所を徹底的に攻撃する。見た目は変わらないけど、おそらく彼女の制服の下は数え切れないほどの痣や傷があったはずだ。それほどまでにイジメの主犯格の女生徒はうまく立ち回っていた。
そんなある日の放課後、イジメっ子たちが満足気に帰っていく姿を目撃したひよりは、そろりと教室を覗いてみた。そこには上の制服をすべて脱がされて肌が晒されている彼女の姿があった。頻繁に殴る蹴るを繰り返された彼女の肌は目を逸らしてしまいそうになるほど、酷い有り様だった。このときに、見て見ぬふりをしていた自分を恥じたひよりは、思わず彼女のもとに駆け寄り、床に落ちている制服拾ってカタカタと震えるその肩にかけてやった。ひよりの無言の優しさに彼女は堪えていた涙を流してギュッと体を丸めたのだった。
こんなにも弱々しい姿の彼女を、ひよりは守りたいと思った。彼女に味方をすれば自分がどんな目に遭うかなんて、容易に想像できたが、そんなことは二人であれば乗り越えられると思っていた。
『今まで見てるだけでごめん……。これからは私がそばにいるから』
ひよりがそう言うと、彼女はひよりの胸で大声で泣いた。
翌日から、ひよりは彼女の隣にいる姿を周囲に見せる。どこからでも来なさい。そんな気迫で周囲を睨んだ。挑戦的なひよりの態度はイジメっ子たちの逆鱗に触れるものばかりで、イジメは執拗に繰り返し、さらにヒートアップするばかり。それでも、ひよりは耐えられた。教室に行けば彼女がいる。挨拶をすれば答えてくれる。それがひよりの支えであったからだ。
そんな日々が変わったのは、彼女と仲良くなってから数ヶ月経った9月。二学期の開始と同時に、ひよりの環境は驚くほど急変していた。夏休みに入るまで一緒に登下校していた彼女が、ひよりを避けるようになったのだ。そういえば、8月に入ったぐらいから連絡がつかなくなった。だから二学期に入ったら聞こうと登校したのだが、クラスの様子が一学期のときと全然違う。
ずっと傍観者を決め込んでいたクラスメイトたちまでも、イジメに参加するようになったのだ。何が起きたのか、ひよりには理解できなかった。
登校してきた彼女に声をかけようとした途端、彼女を守るようにイジメっ子たちが立ち塞がる。
『新谷さん、その汚れた姿で近づかないでくれるかしら』
主犯格の女生徒がニヤニヤ笑っている。その後ろで彼女が怯えた表情を浮かべ隠れるように移動した。
……え?なに……?どういうこと?
『理解できないようね、新谷さん』
クスクス笑う主犯格の女生徒につられるようにクラスメイトたちも笑い始める。
『おめでとう。新谷さん。貴女は売られたのよ、彼女に……』
『……!』
気まずそうに彼女はますます影に隠れる。
そう、ひよりはイジメに耐えられなかった彼女によって裏切られたのだ。一緒にひよりをイジメれば、もうなにもしないとでも言われたのかもしれない。
ひよりの中で何かが、大切だった何かが脆く崩れ去っていくのが分かった。 あれ以来、標的がひより一人に絞られたクラスは、奇妙な団結力を発揮し、ひよりに自殺を考えさせるほどに追い込んだ。
最初は抵抗した。でも誰一人ひよりを助ける者がいない。完全にクラスで孤立させられたのだ。担任に言っても取り合ってもらえず、授業中ですら関係なくなってきた。教師がいる前でも堂々とイジメが行われても、教師たちはまるでそんなものが起きてないとばかりにそのまま授業を進めていく。
ああ、もう味方なんていないんだ……。
途端に、もう抵抗する気力がなくなった。殺されそうになったことだってある。生きてはいけないのだと、思い込むには半年は充分だった。
あの時、久追に見つかっていなければ、ひよりはこの世に存在していなかっただろう。
そうして、ひよりがイジメられる元凶である彼女は、年明け前に親の都合で転校していった。ひよりに対して感謝も、謝罪すらなかった。ひよりの目から逃げるように彼女はなにも言わずいなくなったのだ。
だから忘れようとした。もともと彼女なんかいなかったと。あの裏切りはなかったのだと。そう思い込まなければ、耐えられなかった。
なのに、彼女はあの頃と変わらない姿で、目の前に現れた。その意図は分からない、分かりたくもない。彼女に罪悪感があるなら、もっと前にどうにかなっていたはずなのだ。
関わりたくない、顔も見たくない。
ひよりはひたすら街の中を走り抜ける。彼女が追いかけてくるとは思わないけど、同じ場所にいるのが堪らなかった。
「ひよりちゃん!」
後ろで追いかけてきた山本が呼ぶ。体力も限界になっていたこともあって、ひよりは足を止めて振り向いた。ようやく追いついた山本だけだ。一緒に走ってきたはずの久追の姿はない。
「いきなり走るなんて、どうしたの。さっきの子となにかあったの?」
「……」
問いかけにひよりは答えない。
「まあ、話したくないならこれ以上聞かないけど」
「……ごめんなさい」
ひよりの中で、まだ解決していない問題を簡単に話せない。山本や久追は信用できる人だが、迷惑をかけたくなかった。とくに山本は受験生だ、余計な心配をさせて受験に響くのだけは避けたい。
「ひよりちゃん、一人で抱え込んじゃいけない。何のために俺たちがいると思ってるの?」
「……だって」
「もしかして、俺が受験生だからとか気にしてる?」
「……」
図星をつかれて押し黙る。だって迷惑をかけてしまう。せっかく優しくしてくれている人たちを、こんなことで煩わせたくない。ただでさえ、イジメを受けていたことで迷惑をかけているのだ。これ以上は……。
「ひよりちゃん」
山本がひよりの頬に触れて視線を合わせる。綺麗な顔立ちの彼が至近距離に、目の前にいることに恥ずかしさから目を逸らした。
「俺は受験しないよ。すでに就職が決まってるしね」
「……え」
山本の発言にひよりは思わず彼を見た。満足気に笑う山本は、そのままの体勢でひよりの頭を撫でる。
「俺たちは友達でしょ?気なんか遣わないの。ね?」
「でも……」
「意外に強情だね、ひよりちゃん。久追も俺も、ひよりちゃんが可愛いんだよ。だから悩んでいたら助けたい」
山本はさらりと大胆なことを口にする。久追なら絶対言わないであろうセリフを、彼はまるで息をするかのように簡単に言う。だからだろうか、山本には友達というよりも兄のような感覚があった。
「俺たちは迷惑かな?」
「違います!……違う……んです」
こんなに優しくされたら甘えてしまう。頼ってしまう。
ひよりは恐る恐る頬に触れる山本の手に触れた。こんな状況じゃなきゃ、きっとひよりは山本に惹かれていたかもしれない。こんなにも優しい人をひよりは知らないから。「なにやってんだ、お前は」
不意に聞こえてきた声にひよりはビクッとして、慌てて手を離す。山本も優雅にスルリと頬から手を離し、後ろに立つ久追に振り向いた。
「口説いてた」
笑顔でさらりと言う山本。びっくりしてひよりは口を閉ざす。久追は青筋を立てて、そのまま山本の頭を拳で叩いた。
「弱ってる女になにやってんだよ、お前は。大丈夫か?ひより」
「あ……うん。センパイのお陰で落ち着いたから」
心配そうに顔を覗かせる久追にひよりは慌ててそう答える。久追は一度もと来た道を一瞥してからひよりに向き直った。
「あれだろ、さっきの奴が原因だな?」
「え……」
なんで分かったんだろう。
「なんとなく、だけどな。あの女なにか言いたそうにしてたし、ひよりも明らかに動揺してたみたいだからな」
「久追の洞察力って怖っ」
「うるせぇ」
茶化す山本を窘めて、久追は再びひよりを見る。
「過去を引きずるなとは言わないが、いつまでも気にしていたら前に進まねぇぞ。過去は過去。過ぎ去ってしまったことは、もう戻せねぇ。だからこそ過去と向き合ってみろよ。今のお前ならできる」
山本は優しい。それは真綿のような優しさ。だが、久追は厳しい。逃げることをけして許さない厳しさがある。けれど、その厳しさの中には安心のできる優しさがあった。そんなに辛くても必ず守り支えてくれそうな優しさだ。
久追も山本も性格や態度は全く違うけれど、優しいのだけは同じ。質の違う優しさ。ひよりは、この二人に出会えて良かったと心から思う。
「……うん、頑張る」
自然と涙が溢れる。
ああ、なんて私は幸せなんだろう。こんなにも私を思ってくれる人たちがいる。
彼女と向き合うのは正直に言ってまだ怖いけど、逃げることだけはしたくない。私、強くなるよ。二人に恥じないような強い女になるから。
ひよりは涙しながら、静かにそう誓った。【6:久追side】
失敗した。いや、これは失敗にならないかもしれない。しかし、まさかこんなに早く来るとは思っていなかった。
突然踵を返して走り出したひよりを、俺は思わず追いかけた。少し気になって走りながら振り向いたら、呆然と立ちすくんでいる少女が見えた。追いかけてくる気配はない。隣には、山本も一緒に走っている。前方、およそ50メートル先にひよりの背中が見えた。ひたすら逃げているように見える。
「久追、あとは俺に任せてお前は走るな」
横で共に走る山本が俺に注意を促す。しかし、俺は足を止める気なんてこれっぽっちもなかった。いつまでも走る俺に、山本は走りながらもため息をつく。
山本がやたらと俺を気にかけるようになったのはいつだっけか。退院が目の前に迫っていた3月中旬だった気がする。ところどころ骨折していたせいもあって入院が長引いたわけだが、見舞いに来るのは家族ぐらいだった。
そんな折の山本の見舞いだ。俺は心底驚いた。なぜ見舞いに来たのか、今さらなぜ顔を見せたのか、俺の中で疑問だけが増えていく一方だった。
しかし、見舞いに来た山本は神妙な表情をして、ゆっくりと口を開いた。
『おばさんに聞いた。なぜ黙ってた、久追』
山本の問いの意図を俺はすぐに理解する。そしてあっけらかんと笑ってやったのだ。
『仕方ないだろ、半年も入院してたら留年にもなるって』
『……バカだよ、お前は』
『決めたからなぁ』
そう、俺は決めたんだ。
『他にも方法あるだろ、なんで……』
『さあな。ま、学年は変わるが、仲良くしてくれよ、山本』
『……学校側はなんて?』
頭を抱えた山本が、呆れたとばかりにそう尋ねてきた。
『大人しくしてるなら、協力するってよ』
『……』
俺が答えると山本は何度目かのため息をついた。悪いな、余計な心配だけかけさせて。なんだかんだと付き合ってくれるお前が好きだよ。絶対言ってやらないが。
少し前の出来事を走りながら振り返る俺は、突如襲ってきた体の限界に足を止めて座り込んだ。それに気づいた山本がすぐに引き返してきた。
「久追!」
「悪い、運動不足だ……」
「……だから言っただろう、走るなって。とりあえず日陰に……」
顔を上げる山本の袖を掴み、俺ははっきりと告げる。
「ひよりを見失うな!俺は大丈夫だから、行け」 躊躇う山本の尻を叩くように俺は急かした。山本は渋々ひよりを追いかけ始める。その姿を見送りながら俺は涙を流し続ける空を見上げた。
「……冷てぇなぁ……」
【7】
逃げてはいけない。ちゃんと向かい合わなければ何も変わらないし進まない。心のどこかでどうにかしなきゃいけないとは分かっていた。けれど勇気がなくて、怖くて目を逸らしていた。それを久追に見透かされたのだと思う。だから彼はあんなことを言ったのだ。突き放すような言い回しではあったけど、その中には前に進んでほしいという優しさがあったことをひよりは気づかされた。
だから怖くても前に進まなきゃと思った。どうしたらいいのかなんて今は分からない。でも、何もしないで久追にガッカリさせたくないから。
あの一件以来、ひよりは放課後を使って彼女の今いる学校を調べている。あの時は偶然に出会ったのだろうから、彼女自身がこちらに出向くとは思えなかった。偶然というキッカケがなければ動けないぐらいに彼女は弱い。何かしらの行動に移すならば、ひよりを売るような真似はしないはずだ。
ひよりの行動を久追と山本は何も言わず見守る。一人でやると言っていたが、やはりあの逃げ方からして心配だったのもあったからだ。そうして行き詰ったら手を差し伸べるつもりで、二人はただひよりの傍にいた。
ひよりはやはり行動力のある娘だった。集団イジメを受けていなければ、これほど動ける少女だったのだ。たった数日でひよりは彼女が現在通っている学校を突き止めた。ただ、やはり怖いのか学校に行くまではしない。それではいけないことを言わなくても、ひよりは分かっているはずだ。
「いつでも構わない。その時も俺たちは一緒だ」
「ひよりちゃんの中のタイミングでいいからね」
二日ほど動けずに悩んでいるひよりに久追と山本が声をかける。なんて優しい言葉だろうか。こんなにも頼もしい人たちを、絶対に失望させたくない。
「うん、ありがとう。私、ちゃんと前に進むよ」
ひよりが拳を握って意欲を告げると、久追からは軽く頭に手をポンと叩かれ、山本からは優しく頭を撫でられた。気恥ずかしさの中、ひよりははにかむように笑みを浮かべる。一人なんかじゃない。改めて二人の存在の大きさを実感した。
「……あのね」
意を決したように真面目な表情を作って二人の顔色を窺う。動くなら今だろう。後回しにすればするほど勇気が必要になり、関係も修復しない気がした。
お願い。どうか私に前に進む勇気を……。
【8】
彼女が通っているのは、隣町の公立高校だった。他校の校門前で人を待つという行為は初めてなので、物珍しそうに見られることがこんなにも居心地が悪いとは思わなかった。
さすがに三人並ぶのは目立ちすぎるし、相手も逃げてしまうかもしれない。そんなわけで、山本だけは少し離れた場所で様子を見ることになった。ひよりを一人にしたら、校門から引き返しそうな気もしたし、そもそも本人が久追に傍にいてほしいと希望したのもあったので、久追だけがひよりの傍に立つことになった。
他校の男女の生徒が校門に立っている時点ですでに目立っているのか、じろじろとひよりたちを見ては下校していく生徒たち。その中に彼女の姿はまだない。校門前に立って十分少々経っても、下校する気配を感じないので、すれ違いですでに下校しているのかもしれないと思ったひよりは、さりげなく離れて見守る山本の様子を窺った。
「……あれは、なに……?」
目に飛び込んだ光景にひよりは思わず呟く。ひよりの視線を追った久追も、視界に入ったものを見て半眼になった。
二人の視線の先には、女生徒たちに囲まれている山本の姿があった。確かに見目麗しい山本は立っているだけでも惹きつけるものがある。しかも、女性の扱いは手馴れているときた。久追の隣にいなければ、あのようにモテていたことだろう。
「あれは放っておけ」
久追は山本から視線を外して校舎のほうに向きながら、そう告げた。久追の言葉に本来の目的を思い出して、ひよりは慌てて昇降口に視線を走らせた。すると、目的の人物がちょうど姿を現したところだった。近くに友達らしい人がいないところから、一人での下校だと直感する。
「運がいいな。一人だ」
ニッと口角をかげた久追が口を開く。ひよりは途端に緊張感に襲われ、無意識に隣に立つ久追の左手を握った。突然手を握られた久追は驚いたように手を見ると、ひよりの手がカタカタと震えているのに気づく。ひよりの視線はまっすぐに前を向いていたが、握られた手は震えている。
「……!」
突然強く握り返されたことにひよりは思わず久追を見た。すると彼は笑みを浮かべて小さく頷く。 そうだ。私は一人じゃない。
ひよりは再び前を向いて深呼吸をする。緊張はまだ取れないが、少し落ち着いた。視線の先にいる彼女がひよりたちに気づいて歩みを止める。
気づいた彼女の表情は固く、しかしどこか悟ったかのようなものだった。ひよりがわざわざここまで赴いた理由が分かったのだろう。目の前まで来た彼女は立ち止まり、ちらりとひよりの隣に立つ久追に視線を向けた。
「俺は単なる付き添いだ。気にすんな」
彼女の視線の意図を理解したらしい久追が答える。
「……場所を変えましょう」
彼女は固い声音でそう告げると、二人の返事も聞かずに素通りして校門を右へと曲がった。二人は見合わせてから彼女の後を追う。その道中、久追は山本に移動する旨をメールした。落ち着ける場所に着いたら、さらに連絡する予定だ。山本ならば、女生徒たちを適当にあしらって合流してくるだろう。
彼女が向かったのは、前に偶然再会した場所の近くにあるオープンカフェだった。四人席をひよりと久追で並んで座り、彼女一人だけが向かい合う形で座る。注文したメニューがテーブルに並べられてから、ようやくひよりは口を開いた。
「私が会いに来た理由、分かってるとは思うけど……」
冷静に口火を切っってはいるが、テーブルの下でひよりは久追の手を握り続けている。そんなことは知らず、彼女は、ひよりの言葉に小さく頷いた。
「本音を言えばね、私は貴女と関わりたくない。こうして会うのさえも本当は嫌」
ひよりが告げる本音に彼女は悲しげに目を伏せる。
「でもね、私はあの事を引き摺ったまま過ごすことになるほうが嫌だから、こうして会いに来たよ」
「新谷さん……」
「ねぇ、教えて」
ひよりが告げる言葉一つ一つに彼女は瞼を震わせた。彼女のなかでどんな葛藤があるのかは分からない。けれど、一番知りたいことだけは教えてほしかった。
「どうして、あの時……私を売るような真似をしたの?」
彼女にとって、ひよりなどどうでも良かった存在だったわけじゃないはずだ。少なくともひよりはそう自負している。自分が行ったことは間違ってなんかいないと、そう信じている。
彼女は一度自分のなかで言葉や記憶を整理するように目を閉じ、やがてゆっくりと目を開けると、ひよりをまっすぐに見つめて言葉を紡いだ。「……夏休みのある日、塾帰りの私の前に中塚さんたちが現れたの」
それはまるで彼女を待ち伏せしていたかのような状況だった。リーダー格の女生徒、中塚が率いる数名が彼女の前に来たという。
「中塚さんたちは、なぜか私の家庭の事情を把握してて……」
彼女は言いづらそうに視線を彷徨わせながら話を続ける。
「……家庭の事情?」
問いかけると彼女は小さく頷いた。
「新谷さんには言っていなかったんだけど、私が高校に入る前から両親が不仲で……あの頃にはすでに離婚が秒読みになってたの」
確か親の都合で転校することになったのを当時の担任から聞いていた。
「もし離婚が決定して、お母さんについていくことになれば、転校は避けられない。私、ずっと悩んでた」
グッとテーブルの上に置かれた両手を握る姿に、ひよりは当時の彼女を思い出す。二人でいることになった頃、彼女は時折ひよりを見て申し訳なさそうな悲しげな瞳を向けていた。何かあったのかと聞けば、彼女は必ずなんでもないと笑って答えていたのだ。
「新谷さんが味方になってくれて、学校に行くこともようやく楽しくなってきて……でも、帰れば両親のケンカに現実を見せられて……」
ポタポタと彼女は涙を流す。
「このままじゃ、新谷さんを置いて私だけが逃げるような形になってしまいそうで怖かった」
「でも結果、私を売った」
「……そう、なるよね。……そんな時に中塚さんたちが現れて、一つの条件を突きつけてきたの」
ひよりの責めを彼女は肩を落とすように受け、そのまま話を続けた。
『近いうちに転校するのなら、貴女を弄るのもこれで終わりにしましょう?その代わり、頼みを聞いてほしいの。簡単よ、あのめげない生意気な新谷を裏切りなさい』
何を言われたのかが彼女には分からなかった。だから、嫌だと、友達になってくれたひよりを裏切る真似だけはしたくないと拒絶した。しかし、中塚たちはそれを許さず、さらなる脅迫をかけた。
『いいのかしら?今、新谷のところに坂出くんを向かわせた。あの気の強い新谷でも、男に襲われたらどうなるのかしら。一生お嫁に行けない体になるのも時間の問題ね』
「……ひでぇな……」
彼女の話を聞いていた久追が、心底不愉快とばかりにそう呟く。ひよりも、まさかそんなやりとりがなされていたとは気づいていなかった。
「どっちを選んでも新谷さんを傷つけてしまう。でも、私は新谷さんを守りたかったの。新谷さんが私を守って助けてくれたように」
だから、裏切る選択をするしかなかったのだ。
「何を取り繕っても私が新谷さんを傷つけたことには変わりはないよね。私、ずっと新谷さん謝りたかった。許してほしいとか友達に戻ってほしいとか言える立場じゃないし……」
彼女の裏切りは、ひよりを男の手から守るためだった。久追は無言でひよりを見つめる。ひよりはどう答えていいのか思いあぐねていた。
「ごめんなさい。脅されていたとはいえ、貴女を裏切り傷つけてしまって……」
「……」
謝罪をする彼女に、ひよりは何も言えずにいた。許す許せないで言えば許せない。けれど、守ろうとした結果があの裏切りだった。もし彼女の立場だったなら、自分も同じ選択をしたのではないだろうか。いや、ほかの選択肢を作っただろうか。簡単には蟠りは溶けないと思う。けれど……。
「話してくれて、ありがとう」
「ううん、私のほうこそ聞いてくれて、会いに来てくれて嬉しかった。ありがとう新谷さん」
彼女は涙に濡れた瞳で笑った。
きっと彼女は後悔をしていたかもしれない。他にも守る方法があったのではないかと。きっと罪悪感に苛まれていたのだろう。どんな理由があるにしても裏切ってしまったことに。
「新谷さん、良かったね」
「え……?」
注文したドリンクを飲み干した彼女が、席を立ちながら微笑む。彼女の視線の先に久追がいた。
「私は新谷さんを守るどころか傷つけてしまったけど、今の新谷さんは良い顔してる。きっとこの人が新谷さんを守ってくれてるんだね」
そう言って彼女は自分の分の代金だけを置いて、そのまま店を出て行ってしまった。
彼女に言われて、ひよりはようやく久追と自分が周りにどう見られているのか認識したらしく、握っていた手を慌てて離した。急に恥ずかしくなってきた。ちらりと久追を盗み見ると、彼は気にした様子もなくアイスコーヒーに口をつけている。
「……久追くんてこういう人だよね」
「ん?なんか言ったか?」
「なんでもありません」
ポソリと呟いたひよりの言葉を聞き取れなかった久追は不思議そうな顔をしてアイスコーヒーから顔を離して問いかける。ひよりはなんとなく悔しくて拗ねたように口を尖らせてそっぽを向いた。