貴方に出会えて本当に良かった
【プロローグ】
夕焼け空に染まる河辺に長い影2つ。ゆっくりとした足取りで、カサカサと鳴る紙袋を持ちながら無言で歩く。そこにはどこかしんみりとした空気が漂っていた。
「終わったね……」
そんな空気を断ち切ったのは前方を歩いていた少年だった。茜色に染まった髪を微かに揺らして振り向く彼の表情はどこか暗い。その理由を後ろを数歩空けて歩いていた少女、ひよりは知っている。彼女もまた複雑そうな表情を浮かべていた。
「一年の契約ですから……」
そう自分に言い聞かせなければ受け入れられないぐらい、ひよりの心は深く悲しみとに囚われている。
ひよりの言葉に少年は少し躊躇いがちに視線を外して空を見上げた。赤く染まる空に飛行機が東の方へと向かうのが見える。少年の視線を追うように、ひよりも空を見上げた。
「私、後悔はしてませんよ」
「……え?」
空を見上げながら、ひよりは微かに笑みを浮かべて言った。それを聞き取れなかったのか、少年は聞き返す。そんな少年を見てひよりはまだ赤く腫れ上がった目をしながらも笑ってみせた。
「政継くんに出会えたこと、後悔なんかしません。たとえへ遠く離れても、この一年、私は幸せでしたから」
「……そう。キミがそう言うなら久追も心残りはないよな」
「はい、あったら私は政継くんを許してやりませんよ」
「ひよりちゃん、本当に強くなったね」
「すべては政継くんのおかげですよ、山本センパイ」
そう言ったひよりの顔は満面の笑みだった。【1】
ことの始まりは一年前に遡る。ひよりが少年と知り合う前の話だ。二年に進級したばかりの春。桜が最後の花びらを散らず頃の話。当時のひよりにとって毎日が苦痛で、生きているのが嫌だと思うには十分なほどのことが、日常茶飯事に学校で起きていた。
今日こそはと、誰もいない屋上に足を踏み入れて、靴を脱いで揃えると落下防止用のフェンスに手をかけた。制服のまま全身ずぶ濡れで、瞳からはいくつもの涙がこぼれ落ちていた。
もう嫌だ、なぜ私が。
そんなことの繰り返しで。最終的には、この決断に至った。いっそ死ねば楽になれるかもしれない、苦しみから解放される。そんな安易な考えに至ってしまうほど、ひよりの心は追い詰められていたのだろう。
死ぬのに恐怖はある。でも、一瞬だ。これからも起きる毎日の苦痛に比べれば、そんなことなんて小さい。そう自分に言い聞かせて、ひよりはフェンスに力を込めた。
「おお、決定的瞬間を目撃だな」
突然後ろの出入口から声がして、ひよりはビクッと身をすくませた。そろりと振り向くと、そこには他のクラスの生徒。しかも『二年に留年した不良がいる』という話で有名人の久追政継。
たしかにケンカ慣れしてそうな、どこをどう見ても不良だ。怒らせたら危険、というか関わりたくはないタイプ。
「何があったかなんて、その姿見たら容易に想像つくけどな」
馴れ馴れしい態度。それだけでもひよりには恐怖でしかなかった。また悪夢の再来なのかと。怯えた顔をするひよりを見て久追は苦笑をした。「そんなに怯えなくたって俺は何もしねぇよ」
そう言われても、ひよりには自分以外は全て敵にしか見えない。直接彼のような有名人と関わったのは今が初めてなのだが、それでも簡単に心を許せるほど、その時のひよりに余裕はなかった。警戒心を露にするひより。
「あ、俺に構わず続けて。あんたがやろうとしてることを止めるほど俺は出来た人間じゃないし」
「……」
まさか促されるとは思ってなかったので、ひよりは呆気に取られた。止められても踏みとどまるつもりはなかったし、バカにされて笑われることだって覚悟していたのだが、普通に促されてしまうことまでは想定してなかった。
「出ていけ、て言うなら出ていくが、俺としては屋上に居たい気分なんだわ」
久追という人物がどんな人間なのか掴めないが、とりあえず飛び降りをしようとしてる相手に向かって言うセリフではないのは確かだ。だが、折角促してくれたのだから遠慮なく飛び降りてしまおう。そう考えて、ひよりは再びフェンスに力を込めた。
「イジメを苦に自害か……」
不意に聞こえた声に、ひよりはかけていた足を止めた。
「……何が言いたいの?私の邪魔しないで」
「邪魔するつもりはないんだが、実に残念だなとは思う」
「は?」
久追の言葉の一つ一つにひよりは過敏に反応してみせる。彼は顎に手を当てて少し思案するような素振りを見せた。「まだ十数年しか生きていないのに、自らその命を絶つのは勿体ないだろ?むしろ、イジメてるやつらに、あんたのたった一つの大切なものを捧げてやることはないと思うぞ」
止めるつもりはなかったのではないのか?
「貴方に私の何が分かると言うのよっ」
「分かるわけないだろ、あんたじゃないんだから」
「っ!」
同情されてる気がして拒絶するような言い方をしたら、正論で返されてしまって言葉に詰まる。久追は小さく吐息を漏らすと、まっすぐにひよりを見つめた。逸らすことを許さない何かが彼に感じる。
「綺麗事を並べるつもりは俺にはないし、本当に死にたいなら止めはしない。だが、ほんの一時でも死ぬことに迷いがあるんなら、生きろよ。世の中、そんなに悪いものじゃないぜ?」
彼はひよりを引き留めようとしているのだろうか。しかし、その真意は彼にしか分からない。
「そりゃあ、毎日好き放題に過ごしてる貴方には悪くないかもしれないけど、私はもう嫌なの。毎日、何をされるのか怯えながら過ごすのは」
「好き放題に、か……。あながち間違ってないよな」
ひよりの言葉に久追はクスクスと笑う。
「なら、あんたも好き放題に過ごしてみたらどうだ?案外、他のやつら驚いて何もしてこないかもよ?」
「簡単に言わないで。そんな勇気があったらとっくに……」
やっていると言おうとして、ひよりは真剣な表情の久追に言葉を濁す。「死ぬ勇気のほうが、もっと必要じゃないのかよ?」
「……」
「そんなに軽いのか?あんたの命は。……違うだろ」
「……」
「もう一度言う。一時でも迷いがあるんなら、生きろ」
ひよりはその場に泣き崩れる。
本当は死にたくない。でも、生きていることのほうが辛くて、死に逃げようとしていた。
「一人で立ち向かうのに不安があるなら、俺が一緒に戦ってやる。一人が寂しいなら、気がすむまで隣にいてやる。俺みたいな不良と一緒が嫌なら、信頼できるやつを紹介する」
「……」
「強くなれ。その為なら俺は助力は惜しまねぇよ。あんたを辛い現実に引き留めた責任だからな」
スッと差し出された手。その手を掴むのに勇気は必要なかった。きっと明日から、いや、今から変わるのだ。新しい日常が。あの悪夢から、解放される日がきっと来るはずだと、不思議と久追を見ていたらそう思えた。 後に、ひよりは軽く自分の判断を後悔する。信用しようとしているのは、学内外に有名な不良。いじめ以外の弊害が起きないはずかない。それに気づくの遅れるほど彼女は追い詰められていたのだろう。
二人きりの屋上に、しばしの沈黙が訪れる。それを打ち破ったのは、なにやら考え込んでいた久追のほうだった。
「なぁ、俺ら付き合わねぇか?」
「……は?」
いきなり何を言い出すのか。面識などないに等しい間柄なのに、どういった意図でそんな話になるのだろう。
「別に本当に付き合うんじゃねぇよ。俺みたいなのが、あんたの彼氏という話になれば、迂闊にあんたにちょっかいかける奴も少なくなるだろ?」
「それって、彼氏という名ばかりのボディーガードってこと……?」
ひよりの問いかけに久追は大きく頷いた。本当にそんな扱いをされて彼は構わないのだろうか。
「俺のことは気にすんな。俺はやりたいようにやってるだけだし。本音を言えばだな、一度『恋人』とやらを体験したかっただけだ」
「……」
なんだろう、この適当さ加減は。気遣ったこっちがバカみたいではないか。
「期限は、そうだな……。来年の春まで。一年間だけ『恋人ごっこ』をやらないか?」
こちらが黙っているうちに、久追はさっさと話を進めていく。ひよりの意思は無視のようだ。なんと強引かつ勝手なのだろうか。
……でも。
どこか新しい玩具を与えられた子供の気持ちになっている自分がいることに気づく。なんだかんだと、楽しんでいるんだなと、ひよりは心の中で呟いた。【2】
ひよりと久追が付き合いだしたという噂は瞬く間にその日のうちに広まった。それは放課後、帰宅の準備を黙々としているひよりのクラスに、久追が顔を出したことがきっかけであった。
「ひより、帰るぞ早くしろ」
「ま、待って……!」
不良として有名な久追がひよりを迎えに来たことに周りはざわつく。しかし、それだけならば久追の下僕にでもなったのかと思うところだろう。クラスメイトの見ている中で、ひよりはきごちなく鞄を手にして久追の元へ駆けていった。
「ごめん、遅くなって……」
少し気まずそうに謝罪するひよりの頭を久追が優しく撫でる。まさか頭を撫でられるとは思わなかったひよりは驚いて顔をあげた。そこには、怒るどころか楽しげに笑う久追の姿があった。
「よし、罰として帰りにクレープ奢れ」
「……え?クレープ……?」
「なんだ、嫌いなのか?クレープ」
「違うけど」
「よし、決まりだ。さ、帰るぞ」
そう言って久追はひよりの肩を抱いて廊下へと連れ出す。そして肩越しに振り向いてから、呆然とするクラスメイトたちに牽制をするような目付きをした。
「ひよりは俺の女だ。これから俺の許可なくひよりに何かしたら女であろうが男であろうが容赦しねぇからな……」
吐き捨てるように言った後、久追はひよりとともに教室を後にしたのだ。久追にここまで言われては、ひよりをいじめようと思えない。もししたら、きっと病院送りにされる。それは確実だった。 駅前のクレープ屋に向かう道中、ひよりはひたすらに駆け足になっていた。久追とひよりの歩幅が違いすぎて、先を歩く彼を追いかける形になっている。さすがに学校を出てから走り続けていて肺と心臓が悲鳴を上げていた。いい加減走るが疲れたひよりは、その場に立ち止まって呼吸を整える。
「……あ」
二人の距離が50メートルほど離れたあたりで、久追が振り向いてひよりが呼吸を整えていることに気づいた。そして駆け足で戻ってくる。
「悪い、俺の足が速かったんだな。女と歩くなんてことしたことなかったから分からなかった」
ひよりのそばまで来て久追は謝罪をする。その頃には呼吸も落ち着き、ひよりは顔を上げた。
「ううん。私がちゃんとついていけなかっただけだから……」
「違うだろ」
「……?」
ひよりが答えると、すぐさまそれを否定されて目を丸くする。久追は少し怒ったような表情でまっすぐにひよりを見ている。
「これは彼氏である俺の非だろうが。彼女なんだから「速い」って言っていいんだぞ」
「……ごめんなさい」
「いや、だから謝るのは俺なんだって」
叱られた気がして思わず謝罪を口にすると、少し焦った様子で久追が言った。
「とにかく、これからは俺がひよりの歩幅に合わせて歩く。いいな?」
「え、あ……うん」
別に許可を得なくてもいい気がしたが、あえてそれは口にしなかった。そうして二人並んで歩き始める。今度は歩幅を意識しているのかゆっくりと歩いてくれていた。
やがて駅前に着くと、目的のクレープ屋を見て二人は固まる。放課後という時間帯のせいか、クレープ屋には長蛇の列ができていた。今並んだとしても、たぶんクレープを食べられるのは30分後な気がする。ひよりは隣に立つ久追の様子を窺った。誘った張本人がどうするのか気になったからだ。
「ひより、どうする?待つことが嫌じゃないなら買うけど」
久追もさすがに迷っている様子だった。どのみち家に帰ったところで、なにもすることはない。それなら待ってみるのも悪くはないかと思った。
「大丈夫、待てるよ」
「じゃあ並ぶか」
「うん」
こうして二人は長蛇の列の最後尾に並んで待つことにした。 列は少しずつではあるが、前へ前へと進んでいる。その間、二人に会話らしい会話はない。知り合って数時間の二人に共通点を見つけるのは困難である。
ひよりは、この変な沈黙をどうにかしたかったが、相手は接点のない不良。話が合うとは思えなかった。チラリと隣に立つ彼を盗み見る。
「……」
久追はひよりに興味がないと言わんばかりにスマートフォンを弄っていた。
フリだけど、仮にも彼女をほったらかしにしてスマートフォン弄る?あり得ないし。
しかし、よく彼を観察すると、ゲームなどをやっている様子ではなかった。真剣な表情で、文字を打ち込んでいるようだ。何を打っているのか気になったので、後ろから静かに覗きこもうと試みる。
「人のケータイの内容を見ようとすんなよ」
怒りではなく呆れに似た表情を浮かべた久追が覗きこもうとしたひよりを注意する。素直に謝罪しながらも、ひよりは心の中で舌打ちをした。
「なに打ってたの?」
注意されても興味はあるので、今度は素直に問いかけてみる。
「秘密」
「いきなり隠し事?」
「うるさい。ひよりが知る必要はありません」
どうやら絶対教えてくれなさそうな雰囲気だ。
「彼女じゃないの?私」
「フリであろうが彼女であろうが、人には触れてほしくない部分てものがあるんだよ」
「不良がなに言ってるのよ」
「言うね、お前……」
「根は素直なので」
「……その強気な部分をクラスのやつらに見せておけば良かったんじゃね?」
「集団相手に、強気になれるほど私の肝は据わってないの……」
ようやく会話らしい会話ができたと思えば、結局はこの話題になるのだ。二人の接点など、こんなところだろう。なにやってんだろうと、ため息をついたひよりの頭を、久追が優しく撫でる。思わず顔を上げたら、彼が笑っていた。
「俺相手に強気でいられる女なんかお前だけだよ」
……嬉しくありません。
なんだかんだと他愛のない会話を続けていると、ようやくメニューが見えるほどにまでやってきた。 いろいろなクレープがあるなか、ひよりはすでに並ぶ前に何を食べるか決めていた。というか食べれるものが少ないというのが現実だったりする。
「なぁ」
ふいに横から声をかけられて、ひよりが振り向くと、これまた真剣な表情をしてメニューとにらめっこをしている久追の姿かあった。
「クリーム入ってないクレープねぇの?」
「は?」
「なんかメニュー、ほとんどクリーム入ってんだけど……」
「基本的に入ってるのものでしょ、クレープって」
「マジかよ……」
ひよりの答えに、肩を落とす久追。どうやらクリームは苦手なようだ。
「じゃあ、私と同じチョコバナナにする?」
「クリームないならなんでもいい……」
すでに意気消沈している様子の彼を横目に、ようやく順番がきたので店員に注文をした。クレープ代は久追が率先して出す。誘ったのは自分だからという変な責任感を抱いているようだった。
クレープを片手に、二人は近くのベンチに腰を降ろし、のんびりと食す。温かな生地の中から甘いチョコとバナナが口に広がる。
「……初めて食ったけど、意外とイケるな」
クレープを食べながら久追が感心したように呟いた。クレープ食べたことない人を初めて見たひよりは、物珍しげに眺める。美味しそうにクレープを頬張る彼の姿を見て、不思議な感じがした。
不良……よね?こんな顔できるんだなぁ。新鮮だ。
ひよりが半分ぐらい食べたところで、久追はクレープを平らげていた。満足気に腹部を叩いている。そしてベンチから立ち上がると、まだ食べているひよりを見下ろして笑った。
「飲み物買ってくる。何がいい?」
「……じゃあ、ミルクティ」
「了解。そこで待ってろな」
ひよりの返事を待たずに彼は少し離れたところにある自販機に向かって歩いていく。その後ろ姿を眺めつつもクレープを食し、ひよりはぼんやりと考えていた。
不思議。昼間ではあれだけ絶望していたのに、今、私……楽しんでる気がする。
視界の先には、自販機にたどり着いた久追の後ろ姿が映っていた。「本当に放課後デートしてるとはね……」
突然聞こえてきた声に、ひよりはビクリと身をすくませてから振り向いた。そこには柔らかそうな栗色の髪をした優しそうな男子学生が立っていた。身につけている制服から同じ学校の生徒のようだ。彼はベンチに座るひよりを見下ろして笑顔を浮かべる。
「キミが新谷ひよりちゃんかな?」
なぜ見知らぬ人が名前を知っているのか分からない。自分がそれほど有名だとは思えないからだ。いつまでも唖然としたまま返事をしないひよりに彼は苦笑をしてベンチの背もたれに腕をクロスして顎を預ける。
「あ、チョコついてる」
間近にひよりの顔を見た彼がそう言うと、おもむろに口の端についているチョコを軽くキスをするように舐め取った。
「ん、甘い」
満足気に笑う彼を見ながら、ひよりは自分がされた行為を思い出し、クレープを持っていない手でそこに触れてから、顔を真っ赤にして口を開いた。
「きゃああああ!!」
ひよりの悲鳴が駅前に響き渡る。
「ひより!?」
ひよりの悲鳴を聞きつけた久追が、缶ジュースを二缶手にして駆けつけてきた。そして真っ赤になって口許を押さえるひよりとニコニコと笑っている男子学生の姿を確認するや否や、久追はものすごい形相で男子学生の胸倉を掴む。
「ひよりに何したお前!?」
「く、苦しいよ久追……っ」
「内容によればこの場で叩き潰す!」
「説明、したくても……こんな状態じゃ……できないって」
胸倉を掴む久追の手を軽く叩いて男子学生は苦しげにそう口にした。久追が納得できない様子で手を離すと、解放された男子学生は咳き込みながらも呼吸を整える。
「まったく……喧嘩早いの治しなよ……」
「それは山本がひよりになにかしたからだろ!」
「まぁ、それは否定しない」
「山本!」
「待て!ちゃんと説明しますから!」
今にも殴りかかりそうになる久追に山本と呼ばれた男子学生は焦りを見せて早口で言った。ひよりの口許についていたチョコを舐め取ったことを聞いた瞬間、久追の拳骨が山本の脳天に叩き込まれた。「い、ったー!お陰で覚えた単語全部飛んだ……」
頭の上を両手で抑えて山本が涙目になりながらそう呟いた。それを見た久追がフンと鼻を鳴らす。
二人のやり取りを見ながら、ひよりは山本が久追の知り合いだと知る。キスと受け取っても間違いないであろう山本の行動は、いまだに動揺を隠せないひよりに重くのし掛かった。手にしているクレープも食べる気がなくなった。
悲鳴をあげてから一言も発さないひよりに四つの瞳が射抜く。明らかに明後日のほうを見ているひよりを目にして、さすがに山本もやりすぎたと思ったのか、本当に申し訳なさそうな顔をして謝罪をした。
「おっ……と」
ひよりの手からクレープがずれ落ちそうになって、慌てて久追が彼女の膝に落ちる前にキャッチした。ひよりは固まっている。見事にフリーズである。
「山本、この代償は高くつくぞ」
「……わぁ……」
久追の言葉に山本は顔を青くするばかりだった。
どれぐらいの時間が経ったのか、ようやくひよりが我に返った。心配そうに覗きこむ二人に、一瞬なにが起きたのか理解できずに軽く体を後ろへ傾ける。
「ごめんね、ひよりちゃん」
「え……?あ……」
山本の謝罪になんのことかすぐには分からなかったが、謝罪の理由を思い出した瞬間、再び顔を真っ赤にして声にならない声をあげた。
「落ち着けひより。とりあえず山本は一発殴っといたから」
フォローしているようでしていない久追の言葉。
「自己紹介しないとね。俺は山本。山本暁。久追の元クラスメイト兼数少ない一般の友達」
瞬間、山本の頭に久追の拳が再び落ちた。
「そうやってすぐに手が出るから友達ができないんだよ、久追は」
「うるせぇ、お前は余計なこと言い過ぎなんだよ。つか、何しにきた?」
頭を擦りながら言う山本に不機嫌そうな表情で、久追は彼がここにいる理由を尋ねた。途端に山本の表情が真面目なものに変化し、雰囲気も変わる。
「心配だからに決まってるだろ」
山本の言葉に一瞬の間が作られたが、久追は顔色を一つ変えず、鼻で笑った。
「山本に心配されるほど俺はそこまで危険人物か?」 久追の問いかけに山本は真剣な表情から一転、笑顔で答える。
「久追じゃなくて、今までのお友達がね」
山本が言わんとしていることは、ひよりにも分かった。久追は不良で有名だ、他校の生徒と問題を起こして謹慎を食らったことなんて何度もある。その執着が留年なのだから情けないことこの上ないだろう。
「うるせぇ」
不貞腐れた顔をしてひよりの横にどかりと座る。そして手にしていたクレープをひよりに差し出した。
「ほら、お前の。落としかけてたから」
「あ、ありがとう……」
受け取ってはみたものの、すでに食欲はない。勿体ないが、あとでゴミ箱にでも捨てよう。
「ひよりちゃん、こんな危なっかしい奴だけど、よろしくしてあげてね。なにか悩み事があれば相談に乗るし。あ、ちなみに久追に飽きたら俺に切り替えても構わないから」
友人らしい挨拶をしていたかと思いきや、ナンパまがいなことまで口にしだしたので、山本は何度目かの久追の鉄槌を受けることになった。
「さて、帰るか?」
と、久追に聞かれて、ひよりは素直に頷く。ごっこではあるが、恋人らしいことの一つはクリアしただろう。本当にイジメがなくなるのかは、明日になってみなければ分からない。
ひよりはベンチから立ち上がると、まっすぐにゴミ箱に向かい躊躇いなくクレープを捨てた。それを久追は咎めはしなかった。
駅の改札口でようやく久追たちとひよりが別路線の電車であることが判明した。方向は真逆。途中まで送るという行為はできそうにない。
「明日この駅から一緒に学校に行こう」
と久追が言えば、「俺も一緒だよ」と山本も笑って続けた。二人の仲は初対面のひよりでも分かるぐらい良い。そんな二人と一緒に登校できることは、今まで一人ぼっちで登校していたひよりにとって、とても嬉しいことだった。
待ち合わせ時間と場所を指定して別れる。先に改札口の中へと消えたひよりを見送ったあと、二人の間に奇妙な空気が流れた。
「まさか、ひよりちゃんに黙ってるつもり?久追」
冷ややかな山本の声。それは責めているようにも聞こえた。
「一年の契約だって?……最後に傷つくのは、ひよりちゃんなんだよ、久追。分かってるの?」
山本の問いかけに久追はしばらく無言で返していた。「大丈夫だ。あいつが俺に惚れない限りは、な」
「……人がどう変わるかなんて分からないよ、久追」
どこか憂いを感じさせる瞳で、山本は呟く。
「現に、キミは変わったじゃないか。前のキミは今を大切になんかしてない」
「言葉にすると、すげぇ恥ずかしいな」
責められているはずなのに久追は笑う。どこかくすぐったそうな笑顔だ。それを見て山本はため息をついた。
「俺もできるかぎりのフォローはするけど、いつか来る日にはちゃんと逃げないで、ひよりちゃんと向き合いなよ?」
「分かってる」
「俺は見たくないよ、女の子が泣く姿なんて……」
すでにいないひよりの姿を思い浮かべながら山本は告げる。その言葉の重さを、静かに久追は受け止めるのだった。
【3】
ひよりと久追が契約とはいえ付き合いだしてから、すでに一週間は過ぎ、ひよりに対するイジメもぱったりとなくなっていた。公認のカップルと言われてもおかしくはないが、二人の関係は周りから見ると奇妙なものであることだけは変わらない。不良といじめられっ子が、どういう経緯で付き合うことになったのか疑問なのである。
山本と出会ってから、ひよりは久追だけでなく山本とも一緒にいるようになっていた。三人でいることのほうが多いかもしれない。
「つまんねぇ……」
昼休み校庭のベンチで三人並んで仲良く昼食をしていた時、おもむろに久追がぼやいた。
「なに、どうしたの。ゴキゲンナナメだね、久追」
「うるせぇ」
「なんか、体育の授業に出たかったみたいで……」
「あー……なるほど」
ひよりのフォローに山本は納得する。この学校の体育は2クラス合同のため、クラスの違うひよりと久追は体育で一緒に授業を受ける。付き合い出してから分かったことだが、久追は体育の授業をすべて見学している。その理由が彼らしいといえば彼らしいのだが、学校側から喧嘩に発展しかねない体育は見学しろと言われたからだ。それに対して大人しく従っている久追が不思議なのだが、ひよりはそれを口にすることはなかった。
「こればかりは仕方ないよね、久追。今までの行動のツケはちゃんと払わなきゃ」
「うるせぇ!」
「でも、なんで喧嘩に発展するって決めつけちゃうんでしょう」
ひよりの何気ない呟きに、二人の視線が一気に注がれた。 やがて二人が堪えきれずに笑いだした。ひよりはなぜ笑われたのか混乱する。なにかおかしいことでも言ったのだろうかと、自分の言葉を脳内でフル再生してみたもののさっぱり分からなかった。
「良かったねぇ、久追。一人でも学校側の言い分をおかしいと言ってくれる子がいて……はは」
堪らないと山本が腹部を押さえて笑っている。久追は肩を揺らして笑って答えた。
「まさか、ひよりに言われるとは思わなかった……」
「だよねぇ。貴重だよ、うん」
笑うことに満足したのか、山本が久追の言葉に応えるように言う。
なにがなんだか分からない。とりあえずバカにされた気がしたので、ひよりはムスッとしてみた。すると二人とも短く謝罪をしてひよりを宥める。
「ひよりちゃんなら、きっと……」
「山本」
「あ、ごめん」
「?」
笑ったせいか、気が緩んだらしい山本が言いそうになったセリフをすぐさま久追がたしなめるように名を呼ぶと、彼はすぐに気づいて謝罪をした。そんな二人のやりとりの意味が分からないひよりは首を傾げた。
「久追は幸せだよね、ひよりちゃんがいて」
先に昼食を済ませた山本が丁寧に片付けながら口にする。それに久追が肯定するように短く「ああ」と答えた。偽りの恋人という関係で、そこまで言ってもらえるのはなんだかくすぐったい。ひよりは恥ずかしそうに弁当に箸を伸ばして、おかずを口にする。
「照れてる。ひよりちゃん可愛い」
「……」
からかうかのような山本の言葉にひよりはさらに真っ赤に頬を染めた。それを誤魔化すように無言で弁当をつつく。
山本は本当に思ったことをストレートにぶつける男だ。良くも悪くもあるその性格が、久追には心地いいのかもしれない。誰もが敬遠する不良の久追を、周りと同じように接するその姿が異質にも感じるが、それでも久追にはありがたかった。しかし感謝なんか投げ掛けてやるつもりはないが。
やがて久追とひよりも食事を済ませると三人揃ってベンチから立ち上がる。その直後、久追が突然膝を折った。
「久追!?」
頭を抱えて片膝を立てて座る久追に山本が顔色を変えて駆け寄る。
「……大丈夫、立ちくらみだ」
そう言って久追は立ち上がる。しかし、こころなしか顔色が悪いような気がした。
「朝飯を抜いたのが悪かったな」
苦笑する久追を見て、ひよりはほんの少し不安を感じ取った。さっきの山本の様子があまりにも異常だからだ。