0.『恋の結末 4』
ベアトリーチェは街を駆けまわり、アーサーの姿を探していた。
アーサーの姿はなかなか見つからず、もう辺りは日が暮れかけている。ここでも有名人なベアトリーチェだが、人通りが少ない時間帯なのであまり目立つこともなかった。
街の粗方の場所を探し終わり、街はずれの港にたどり着いたとき、ベアトリーチェの目にアーサーの姿が映し出された
道の真ん中でうつ伏せに倒れ付し、ぴくりとも動かないアーサーの姿。
その姿を見た瞬間、ベアトリーチェの心に氷の破片が突き刺さり、心臓が一気に縮み上がる。
「アーサーさま!」
ベアトリーチェは無我夢中でアーサーに駆け寄った。
スカートに土がつくのも構わずしゃがみ込み、両手を使いその半身を精一杯の力で抱え上げる。
「アーサーさま、しっかりしてください!」
泣きそうな声で、動かぬアーサーに語りかけた。
反応しないアーサー。しかしやがて、その目蓋がわずかに開く。アーサーは弱々しい掠れた声で呟いた。
「も…、もう飲めん…」
何気なく息を吸ったベアトリーチェの鼻腔に、強い酒の匂いがただよってきた。
「………」
すくっと無言で立ち上がったベアトリーチェは、アーサーの頭が地面に衝突するのにも構わず両手をぱっと離すと、そのまま道の端にあった木桶を一個拾い上げ、しゃがみ込み海の水を木桶に一杯にくみ上げる。
そしてアーサーの元に戻ってきたベアトリーチェは、水の入った木桶をそのまま思いっきり上に掲げあげ、アーサーの頭めがけて投げつけた。
「ぐふぅっ!」
アーサーの叫び声が、二人しかいない港に木霊した。
***
港沿いの夜道。ベアトリーチェとアーサーは二人並んで歩いていた。。二人とももうずっと無言である。
「怒ってるのか…?」
ぽつりとアーサーが言った。
「当り前です…」
ベアトリーチェは普段の彼女より少し低い声でそう言った。追い出された後、酒場でずっとやけ酒を飲んでたらしいのだ。倒れた姿を見て、心臓が凍りつく思いがしたベアトリーチェとしては、機嫌を損ねざるをえない話である。
意識はちゃんとしているようだが、酔いのせいかアーサーの足取りは少し不安定だ。
「今日はアーサーさまの情けないところばかり見ています」
それは拗ねるような子供っぽい口調だった。
アーサーは苦笑する。
「そうか?俺はずっと情けない男だったと思うが」
「そんなことないです。アーサーさまはかっこよくて、頭が良くて、優しくて、何でもできて、完璧で、尊敬できる方で」
「いったいどこのどいつだ。その男は」
「あなたのことですよ!」
ベアトリーチェはどうやら自分の特徴を並べたらしい。
そのあまりの立派さに思わず笑い出してしまったアーサーを、ベアトリーチェは真っ赤な顔をして怒鳴りつける。
「俺はそんなに凄い奴じゃないぞ。むしろ好きな女ひとり守れない。それどころか、自分から傷つけてしまう馬鹿な男だ」
アーサーの言葉に、ベアトリーチェは首を傾げる。
「レティと喧嘩したんですか?なら、仲直りしてください。あの子も、わけわからないことばかり言って…。本当にどうかしてます」
アーサーの言葉はベアトリーチェに通じなかった。それは自分の行動のせいだと理解していた。
「違う、レティシアのことじゃない。ベア、お前のことなんだ。俺が好きなのはお前なんだ」
「えっ?」
わけのわからないことを言われたように、またベアトリーチェの目が開く。そんなベアトリーチェの反応を見て、アーサーは情けなさそうに苦笑いをする。
「わからないよな。後宮にいたころから、俺はお前のことが好きだったんだ。最初は自分でも気付いてなかったが…」
ベアトリーチェは今もなおアーサーの言う事がわからない。アーサーはレティシアのことが好きなのだ。だから自分が冷遇を受けたのも仕方ないと思っていた。むしろ後宮にいさせてくれたのは、アーサーの好意からだと思っていた。
アーサーは優しいからレティのことが好きでも、邪魔な自分も王宮に置いてくれた。
「お前を正妃に迎えるつもりだったのに、まわりの圧力に負けてしまった。それでもお前を手放したくなくて、無理やりに側妃にしてしまった。そうしたら今度は、お前に嫌われてしまったかもしれないと怖くなった。それでお前と顔を会わせるのから逃げた。その間、お前がどんなに辛い思いをしたか考えることなく…」
「ちがいます…そんなはずないです…」
アーサーさまは優しい人、アーサーさまは立派な人。そんなことが真実のはずない。アーサーさまは本当にレティと愛し合い、私は邪魔者で、それに耐えきれなくなって逃げ出して…。
それなのにアーサーの口からは、違う真実が語られていく。
「お前が私たちのために傷ついたときも、私は自身の感情に囚われてお前をなぐさめることすらしなかった。お前に出て行かれた後は、ひたすら連れ戻そうと躍起になった。再会したときお前の傍に仲間がいるのを見て、その仲間たちに嫉妬した。そして無理やりにでも、取り返そうとした」
「あ、アーサーさまはそんなことする人じゃありません…」
ベアトリーチェは現実を拒否するように首を振る。
「真実なんだ…。俺は情けない男で、お前を」
アーサーの告白に、ベアトリーチェの震える唇から悲鳴が漏れた。
「そんなの聞きたくないです!絶対にそんなの違います。アーサーさまは私の目標で、本当に凄い方で…なのに…なんでっ…そんなこと言うんですか」
ベアトリーチェの瞳からこぼれた涙を見て、アーサーの顔がゆがむ。
「すまない…」
「なんでっ…私はアーサーさまがかっこよくいてくれさえすれば、それで良かったのに…」
恋は終わっても、心の中でアーサーさまが優しく微笑んでくれいた。それでよかった。それで自分はずっと幸せだったのだ…。
「すまん…本当に…すまない」
自分のせいで泣かしてしまったベアトリーチェに、アーサーは苦しそうに頬をかき謝罪の言葉を繰り返すしかない。
そんな情けないアーサーの姿にベアトリーチェの感情が爆発する。
「アーサーさまのばか!大っ嫌いです!もう知りません!」
ベアトリーチェは傍に近づこうとしていたアーサーの体をどんっと突き放すと、そのまま逆方向へ駆け出した。
***
しばらくして立ち止まって、ベアトリーチェは気付いた。この道ではマーセルたちのもとに帰れない。
戻らなければならない。そう思い、さっきのアーサーの顔が浮かぶ。自分のしらないしおれた情けない姿。胸に走る感情は、むかむかした苛立ちなのか切なさなのかわからない。それで唇がへの字に歪む。
少し戻れば、別の道を歩いてもマーセルたちのもとに戻れる。なのに、ベアトリーチェはさっきとまったく同じ道を選んでいた。心に宿る複雑な感情にいろいろ言い訳をしながらも、思い浮かぶのはアーサーのこと。
アーサーさまはもう帰ったろうか。
そう思いながらさっきの場所を横切ったベアトリーチェの目に映ったのは、道の端の樽に突っ込んだアーサーの姿。
ひくっとベアトリーチェの頬が引きつる。
ベアトリーチェはアーサーの体を、両手で引っ張り上げるとまた叫んだ。
「もう、何やってるんですか!」
「いや、追いかけようと思ったんだが、酔いがさらに回ってきたらしくてろくに歩けなかった…」
アーサーの言葉にまたベアトリーチェの目じりに涙が浮かぶ。
「ほ、本当にかっこ悪い…」
下唇をかみしめながら、助け起こしたアーサーの体を支えながら言う。
「もう、王宮に帰ってください!迎えでも呼ぶか、馬車を借りればいいでしょ!」
「王宮には帰らないぞ」
しかし、アーサーはそれを拒否した。
「なんでですか!」
そう問い詰めるベアトリーチェに、アーサーは顔を逸らしていう。
「だって気まずいではないか…」
「はあ!?」
「ベアを好きだったと自白し、王をやめたいと言った時、もう戻ってくるなと言われた。それから側近たちには一応、応援の言葉も貰ったのだ。かなり無理をしてもらったし、迷惑もかけた。今更、振られたからといって帰れない…」
「振られたって…」
ベアトリーチェとしてはアーサーを振ったつもりなんてなかった。むしろ振る日が来ることがあるなんて思ってもみなかった。
「そういうわけで、帰るのは無理だ…」
「本当になさけない…。自業自得じゃないですか」
アーサーの言い訳を聞きながら、ベアトリーチェは苦虫を噛み潰したような泣きそうな顔になる。
「確かに自業自得だが、王宮はレティシア達と新体制で動きはじめてるし、今更戻ってもやることがない。居場所がなさすぎるじゃないか…」
「レティとの子供はどうするんですか!見捨てるんですか!」
ベアトリーチェの言葉に、アーサーは頬から汗を流す。
「見捨てるって、人聞きがわるいな…」
「どこが違うんですか!」
「にゅ、ニュアンスがちがうだろ。ほら、ちょっと」
「ニュアンスってなんですか!」
「こう、それについてはあの、だな。そもそもがレティシアが言い出したことなんだ。あいつは子どもだけ残してさっさと行ってくださいって言ってるし。さらには一緒に子育てする気なんてないから、一生帰ってくるなってまで言ってたんだぞ。側近たちにも王としての最後の責任を果たせと言われてたし、まわりで全力でフォローするからと言ってたんだ。それが無かったら俺だって、さすがにこんなことは…」
「今度は人のせいですか?!最低です!最悪です!」
アーサーの情けない言い訳に、ベアトリーチェが暴れだす。
「うわっ、ちょっと、倒れる」
支えられた腕を外され、アーサーはそのまま無様に地面に倒れることになった。そんなアーサーをベアトリーチェは拳をぷるぷると震わせ、涙目で睨みつける。
「こんな人だとは思わなかった…」
「悪かったよ…。本当に悪かった…」
地面からくぐもったアーサーの声が聞こえる。
「もう謝罪の言葉は聞き飽きました!」
ここ最近、アーサーに謝られてばっかりのベアトリーチェだった。そんなことまったく望んでないのに。
「………」
ベアトリーチェがそう言うと、アーサーは何も言えなくなってしまったようで、地面に突っ伏したまま無言になってしまった。そんなアーサーをベアトリーチェはじっと睨みつける。
しかし、反省故かもう何もできることがないのか、アーサーがそのまま硬直してしまったのを見ると、結局、膝を曲げてアーサーの体を引き上げてしまう。
アーサーへの恋心は終わっていて。最後に残っていた憧れの感情も今日で粉々に破壊され。もうアーサーのことなんて放り出してしまいたいはずなのに、それでも置いてけはしなかった。
その感情がなんなのかベアトリーチェにもわからない。
「もう…、本当に仕方ない…。帰りますよ。アーサーさま…」
「ああ…」
不機嫌な顔のまま言った言葉に、アーサーも頷く。
どこへと帰るのか。二人の帰る場所は一緒なのか。曖昧な言葉。
それでも人通りのない夜道を、足取りのおぼつか無いアーサーを支えてぽつぽつと二人で歩いていく。また二人の間は、静かになった。
自分よりかなり大きなアーサーの体を支えているせいか、喉が渇いてきた。ふと、触れているアーサーの腰にあるボトルが目に付く。
「喉が渇きました。ちょっとお水貰いますね」
ベアトリーチェはそう言ってボトルをアーサーの腰から取ると、蓋を開け口づける。
「お、おい、それは」
アーサーの焦る声が聞こえてきたが、既に中の液体はベアトリーチェの口に流れ込んでいた。それはベアトリーチェの今まで味わったことのない水で、熱く苦い、なのに不思議と美味しい。
「さけ、なんだが…」
何かまずいことが起きたように呟くアーサーを無視して、ごくごくっとそれを飲んでいく。だってとても美味しいのだ。
そしてベアトリーチェがそれをどんどん飲み下していくと、不思議な現象が起きた。
レティシアと喧嘩をして、アーサーの情けない姿を知り、波だった気分だったベアトリーチェの心が、不思議な幸福感に包まれだしたのだ。
「ん~?あはは、何これ。気持ちいい~」
「ベ、ベア…?」
ベアトリーチェの瞳に恐る恐るとこちらに手を差し出すアーサーの情けない姿が映ったが、不思議とさっきまで感じたような苛立ちはなかった。
ベアトリーチェの心にあるのは、とてつもなく爽やかな、全てから解放された気分だけ。
「あっはっは、アーサーさまって本当にばぁっかですね!さっきの話が本当なら、それじゃあ、私に迷惑かけてばっかりだったんじゃないですかぁ!」
「あ、ああ、そうだな…」
身体はまだ動かないものの、大分酒が抜けているアーサーは、おかしくなり始めたベアトリーチェの態度に冷や汗を流す。
「ベア、大丈夫か?」
「んえぇ?」
アーサーの言葉にベアトリーチェはふらりと首を傾げた後、上機嫌な様子から一転、両手を振り上げ、怒声を上げて叫びだした。
「大丈夫なわけないでしょ!アーサーさまも、レティも勝手なことばっかり言って!アーサーさまのばかああああ!レティもばかああああああああ!」
酔っ払いの馬鹿声が夜道に響き渡る。さすがのアーサーもこれはまずいと考えた。変装しているとはいえ自分も目立ちたくない立場だし、ベアトリーチェも大陸中の有名人である。こんな姿を誰かに見られたらまずいことになる。
「悪かった、悪かったから、落ち着け」
そうやってアーサーが今日何度目かになる謝罪の言葉をもらすと、けろりとベアトリーチェは笑顔になった。
「えへへ、許してあげますよ~。今の私はとっても気分がいいから」
赤ら顔でのけ反りふらふらするベアトリーチェに、アーサーは本格的にまずい予感をたぎらせる。ただどうにかしようにも、自分も酒の飲みすぎで足がろくに動かない。
そんなアーサーに満面の笑顔でさっき飲み干したボトルを差し出すと、甘えた声で言い出す。
「許してあげますから、この美味しい水をもっとください」
「だから、それは酒だ…」
ひっくと、一呼吸間を置いてアーサーの言葉を飲み込んだベアトリーチェは、首をかしげて上機嫌にけらけらと笑う。普段の彼女の明るい、でもどこか上品な笑みに比べると、明るいのは同じだが子供っぽくて怪しい笑みだった。
「おさけ~?じゃあ酒場にいけばありますね~。アーサーさま、私を酒場に連れて行ってください~。はやく~はやく~」
「だめだ。もう帰るぞ、ベア」
かなりおかしいベアトリーチェの様子に、アーサーはとにかく連れ帰ることを選択。ふらつく足で近寄りベアトリーチェの手を取りなんとか誘導しようとしたが。 その手はばっと振り払われた。
「けちぃいい!アーサーさまのけちいいいい!さんざん今まで迷惑かけたんだから、酒場に連れてってくれるぐらいいいじゃないですかあああ!」
次の瞬間には子供の用にじたばたと暴れだしたベアトリーチェ。
酒乱。
アーサーの頭にその二文字が浮かぶ。アーサーの顔が真っ青になる。今や聖女とすら呼ばれているベアトリーチェのこんな醜態を、世間に晒すわけにはいかない。いろんな意味でこれはまずい。
「わかった、わかったから!しかし今夜は遅いから店は閉まってる!今度絶対に連れてってやる。だから今日はもう帰るぞ」
「ううっー…わかりましたぁ」
酒場は夜こそ開かれているのだが、健康的な生活をしてきたベアトリーチェは幸いにもそれがわからなかった。
不満げな顔をしながらも、なんとか自分の引く手についてくるベアトリーチェにほっとする。しかし。
「あはは~、なんか地面が揺れてる~」
「おい、ベア。あまり暴れるな。支えきれん」
ふらふらふわふわと歩くベアトリーチェに、本来なら自分も酔いつぶれるほど酒を飲んでいたアーサーは、なんとか家の方に誘導するのに精いっぱいだった。
「ちゃんと歩いてくれ。支えきれん」
その間にベアトリーチェは暴れ、止まり、ゆらゆら揺れ、ふわふわ動き回り、怒り、笑い、愚痴り、奇声をあげ、その歩みは遅々として進まない。
「なんか眠い~」
「もうすぐだ。もうすぐだから」
ベアトリーチェが目をこすりはじめる。アーサーは半泣きになりながら、ベアトリーチェを家へと送り届けようとがんばる。
「くっ、まずいぞ。俺にも眠気が…」
アーサー自身も、相当飲んでた上に、ベアトリーチェに振り回された疲れで視界がかすみだしてきた。
「ベア、もう少しだ。もう少しだから頼む。歩いてくれ…」
「うっふっふ」
怪しい笑い声をあげながら歩くのをやめてしまったベアトリーチェを、半ば引きずるようにしてアーサーは進む。
「もう少し…。もう少しだ…」
「………あ…ほー」
眠気を堪え、ベアトリーチェを抱え、アーサーの瞳に映ったころには、ベアトリーチェは既に意識があるのか怪しく、アーサーもほとんど意識を失いかけている。
「も…う…」
「ぅー…」
バタンッ
そして結局。
ベアトリーチェたちの家の目前でもつれるように倒れ込んだ二人の姿が、心配して探しにいこうとしたマーセルたちによって発見されたのだった。
***
次の日、起き上がった瞬間に、ベアトリーチェは強烈な頭痛に見舞われた。
「うう、頭いたい…。」
額を抑えて起き上がると目の前には、腰に手を当て怒り顔のマーサがいる。
「二日酔いよ。もう、みんな本当に心配したんだからね!」
「ごめんね…」
怒鳴り声が頭に響いてベアトリーチェは顔をしかめたが、心配をしてくれたマーサの言葉には素直に謝るしかない。
しゅんっと上目遣いでこちらをみるベアトリーチェに、マーサは一瞬許しかけたが昨夜の惨状を想いだし表情を引き締める。
それから一時間ほど、マーサからベアトリーチェは説教を受けることになった。
それが終わるとルミが水を持ってきてくれたり、イレナからも穏やかな口調だが軽い注意を受けたり、ウッドは何もしゃべらなかったが酔いさましの薬をもってきてくれた。
「まあ、俺たちもちゃんとベルにお酒の飲み方ぐらい教えとくべきだったかもな」
マーセルは苦笑しながらそう言った。
ベアトリーチェの外見が子供っぽいせいか、それともその性格が純心だったせいか、マーセルたちはベアトリーチェにお酒を与えたことがなかった。ベアトリーチェ自身もまったく飲もうと思ったことがなかったせいもあるが、もう十分に飲める年齢なのだから少しぐらい与えてみるべきだったのかもしれない。
ベアトリーチェは心配してたみんなひとりひとりにお礼と謝罪の言葉を述べた。それからはゆっくり休んだ方がいいと言われて、みんな部屋を出て行った。
それから。
「ベア、大丈夫か?気分はどうだ?」
扉が開いてアーサーが入ってくる。
みんなに優しくされさっきまで微笑むように緩んでいたベアトリーチェの目元がサッと引き締まり冷めた視線にかわる。
「な、なんだその目は。良い覚ましの薬を買ってきてやったんだぞ」
「ウッドさんからもらったからいりません」
ベアトリーチェの目つきに気圧されるようにのけ反ったアーサーが、なんとか右手で差し出した役袋をぴしゃりと突き返す。
「それよりアーサーさま、これからどうするつもりなんですか?」
「か、帰るつもりはないぞ。とりあえず、ここらへんで住める場所を探すつもりだ。さすがにアーサーとは名乗れんから、偽名を使っていく」
「ふーん」
自分で聞いときながら、ベアトリーチェは無関心にアーサーの答えに応じる。
「ふーんって…」
普段は綺麗にぱっちりと開いているベアトリーチェの瞳は、今はしかめるように半分ほど閉じられてアーサーをじとっと見てきている。
アーサーはその視線に見覚えがあった。昨夜、酔ってやたら上機嫌になったしばらく後、急激に機嫌が降下し愚痴を延々とのべはじめた時のベアトリーチェの瞳だ。
それからベアトリーチェはアーサーを視界から外し、ぶつぶつと昨日のように独り言をつぶやき始める。
「それじゃあ、もうアーサーさまって呼ばなくていいよね。アーセル…そのまますぎ…アル…さま…。あ…、さまはもう必要ないか…」
「ベ、ベア…?」
異様な雰囲気を放ち始めたベアトリーチェに、アーサーが昨夜のように恐る恐ると声をかける。
「ん、何か用、アル?」
敬語も敬称もかなぐり捨てた言葉。
そう言って振り返ったベアトリーチェの表情は、詐欺師を見るような胡乱げな目付きだった。
それは世界でただ一人、アーサーにしか向けられたことのないベアトリーチェの新しい表情だった。