0.『恋の結末 3』
ベアトリーチェはアーサーの言葉を、ただ呆然と聞いていた。
「いきなりやってきて、いきなりどういうことよ!」
アーサーの言葉を聞いてから動かなくなってしまったベアトリーチェの代わりと言うわけではないが、ルミが紛糾するように叫ぶ。
実際、ベアトリーチェを心配していると言えば聞こえがいいが、どっちかっていうといつも通りにベアトリーチェに近づく男を威嚇しているだけだったりする。
「さっきも言った通り、ベアといるために王をやめることにしたのだ」
「やめるってあんたねぇ…。そう簡単にやめられるもんじゃないでしょ」
マーサがアーサーに指を突き付けて怒鳴り気味に言う。マーセル楽団の女性メンバーは、ベアトリーチェの件についてほとんど聞いているので、アーサーへの尊敬の態度が一切ない。
「ああ、かなり無理をしたのは事実だ…。しかし、既に側近たちの間で話はついてある」
肝心のベアの反応は未だない。その分、イレナ、ルミ、マーサたち女性陣がアーサーを責める。
「滅茶苦茶だねぇ。子供だってできたんだろう」
「確かにそれも事実だ。だが、レティシアとも一緒に決めたことだ」
「私たちが許すと思ってるの!?さんざん、私たちに迷惑かけといて!」
「確かにその件についてはすまないと思ってる!しかしそれでも、私はベアと一緒にいたいと思って」
そのままアーサーと女性陣が言い合っていた時。
バシャン
アーサーの頭の上に、冷たい水が降り注いだ。みんなが驚いて振り向いた先、冷たい目を光らせ、アーサーを睨みつけるベアトリーチェがいた。
「頭は冷えましたか…?」
「ベ、ベア…?」
手にはバケツを持ち、冷たい瞳のままアーサーを睨み、扉を指差していう。
「頭が冷えたなら、レティのところに戻ってください」
帰れと言われ、アーサーが焦ったように口を開く。
「いや、私はだな。お前と一緒に」
「意味が分からないこと言わないでください!アーサーさまにはもうすぐ子供も生まれるんですよ!レティに子供をひとりで生ませる気ですか!?ふたりを見捨てるつもりなんですか!」
「レ、レティシアは一人で生むからいいといっていたのだ。というか、そもそも提案してきたのは」
何か言おうとするアーサーを、ベアトリーチェの言葉が遮る。
「そんなわけないでしょ!レティはあなたのことが好きなんだから!あなただってレティのことを愛してるのに!」
「そ、それは誤解だ。レティシアは私のことを好きなんかではないし、私はお前のことが」
アーサーがその言葉を言い終わるまえに、ベアトリーチェの叫び声が炸裂した。
「もういいから帰ってください!」
「待ってくれ、ベア、私はお前のことが」
「帰れったら帰れぇ!」
そのまま物凄い剣幕でぐいぐいとアーサーの背中を押して、宿の外へと追い出してしまう。そして、バタンと扉を閉め、ガチャリと鍵までかけてしまった。
「ベ…ベル?」
みんな茫然とベアトリーチェを見る。誰もがベアトリーチェがこんなに怒るのは見たことなかったし、正直、ベアトリーチェがこんなに怒る姿を想像してもいなかった。だからこそマーサたちはベアトリーチェの変わりにと言う気持ちで、さっきアーサーに文句を言いまくった面もある。
アーサーを家から追い出した後も、ベアトリーチェの様子は異様だった。
苛立った表情で親指の爪を噛み、険しい顔でぶつぶつと呟く。
「きっと何かあったのよ…。きっとお仕事が重なってで疲れになって情緒不安定になってたのよ…。アーサーさまがこんなことするわけないもの」
マーサたちはむしろベアトリーチェとの過去の経緯から、アーサーはまさにあんな男だと思っていたので、ベアトリーチェのつぶやきの方が疑問だった。
しかし、かつてみたことのない異様な雰囲気のベアトリーチェに、それを指摘できるものはいない。
「きっと落ち着いたら、いつものアーサーさまに戻ってくれるはずだわ…。アーサーさまは素晴らしい方なんだもん…」
普段は気を遣い周りを雰囲気を和ませようとするベアトリーチェが、むしろ今はぴりぴりとし、苛立った雰囲気を周りに発散していた。いつもらしかぬ様子で一人で椅子に座り込み、ずっとアーサーについてぶつぶつと呟いている。
普段のベアトリーチェとあまりに違うその様子に、マーセルたちは近づくことができなかった。
嵐の去った静かな場と、普段と違う様子のベアトリーチェを、マーセルたちはどうしたものかと見つめ続ける。
そんな状態のまま、しばらく時間が経ったときまたノックの音がした。
「あー、もう今度はなに!?」
マーサが叫ぶ。また何か厄介事でも飛び込んでくるのだろうか。今は嫌な予感しかしなかった。
出来れば居留守を使いたいがそういうわけにもいかない。げんなりした顔で、ベルが鍵をしめてしまった扉に手をかける。
「うわぁ…」
扉が開いて少し外の景色が見えた瞬間、マーサの口から疲れた声が漏れた。来訪してきたのは予想通り、厄介事のようだった。
銀色の髪に、翡翠の瞳をもつ見目麗しい女性。しかし、芸術をかぐわせる美しい見目とは裏腹に、マーセルたちにはアーサーと並んで厄介事の種である。
「ごきげんよう、マーセル楽団のみなさん」
どうやらお忍びでまた来たらしい。普段連れているのとは違う少数の侍女と騎士だけをつれた彼女は、さっきの騒動を体験したマーセルたちからすればありえないほど呑気な様子で家の中に入ってくる。家の中には立ちすくむマーセルたち、座り込むベアトリーチェ、そしてベアトリーチェが散らかしたバケツと水、ひっくり返ったテーブルが荒廃した空気を漂わせている。
そんな景色をレティシアはきょとんと眺め、また呑気に首をかしげる。
「何があったんですか、これは?それに陛下は?先に来ているはずなんですけど」
マーセルたちは「それが原因だよ!」と思いっきり言いたかったが、その前にレティシアが入ってきたことに気付いたベアトリーチェがようやく自分の世界から戻ってきて、レティシアへと駆け寄る。
そしてレティシアの手を握り、悲痛な形相で話しかける。
「レティ、心配しないで!きっとアーサーさまは疲れているだけだと思うの。少し休んだら、いつものアーサーさまに戻ってくれると思うの。だから大丈夫だよ!」
「大丈夫って?やっぱり陛下は来てたのですね。いったいどこに?」
まだ正気とはとても思えないベアトリーチェに代わり、マーセルが答える。
「王をやめてベルと一緒にいたいとか言ってきて、それをベルが追い出したよ」
「あらあら」
追い出したという言葉に、レティシアは少し目を丸くして口に手を当てる。
「本気なのかよ…。王をやめるって」
相変わらずの呑気な態度に、マーセルが眉をしかめて聞き返す。
「アーサーさまがそんなこと本当に言うわけない!レティも本気にしちゃだめだからね!」
「それ私が言い出したことなんですけど」
アーサーの言動を必死で否定しレティを励まそうとするベアトリーチェに、レティはあっさりと爆弾を投下した。
「え?」
わけわからないことを聞いたと言う風に首をかしげるベアトリーチェに、レティシアがいけしゃあしゃあと事の次第を述べる。
「私が陛下にビーチェさまと一緒になりたいなら、後継者を作って王をやめたらどうですか?って言ったんです」
「なんで、そんなことを!」
「だってあの方、毎日毎日溜息ばっかりついて鬱陶しかったですし。それで一生、落ち込み続けながら王位にいるよりは、ビーチェさまのところに行った方がいいでしょう?」
呆然とするベアトリーチェの形相に、空気を読まずあくまで呑気に今までの経緯を述べるレティシアに、ベアトリーチェの唇がわなわなと震えだす。
「いったい何を考えているの!あなたも、アーサーさまも!王をやめていいとかやめるとか!」
ベアトリーチェはレティを怒りの形相で怒鳴りつけた。さっきまで、呑気だったレティシアの表情が、ベアトリーチェに怒鳴りつけられさっと青くなる。
アーサーがベアトリーチェに追い出されたと聞いたときは、少しぐらい痛い目に会えばいいと思っていたが、自分まで怒られるなんてまったく予想していなかったのである。
「だ、だって、そうすればビーチェさまはアーサーさまと結ばれることができるじゃないですか…」
「誰がそんなこと頼んだの!だいたい二人にはもう子供だっているんだよ!?アーサーさまが王をやめたら、子供はどうする気なの!?」
「こ、子供は私がちゃんと育てます。ちゃんとそのための準備だって…」
ベアトリーチェの厳しい言葉に、レティシアは反論の言葉を連ねる。レティシアとしても、決心してきたつもりだった。
でも、そもそもビーチェさまが自分を怒るという可能性をまったく考えもしてなかったのだ…。だってずっと仲良くして、優しくして、自分を助けてくれて。その関係の中にこんな風に怒って責められるようなことは一度もなかった。
焦るように滑る口調は、ベアトリーチェの怒りを止めるような力はない。
「あなたはそれでもいいかもしれない!けど、子供にとっては違うでしょ!子供にとっては父親も母親もいて欲しいはずよ。これは二人だけの問題じゃないんだよ!?」
両親から見捨てられて育ったベアトリーチェの言葉は重く、そして正論だった。
「………」
レティシアはその言葉に黙りこんでしまう。もう勝負はあったかに見えた。
しかし。
「…うっ」
「う?」
俯き言葉を漏らすレティシアに、ベアトリーチェははっとなる。さっきまで激情にかられていた表情も、少し落ち着きを取り戻した。その表情にはレティシアへの心配の感情が漏れだしている。
次の瞬間、レティシアは叫びだした。
「うるさいです!」
駄々っ子のように。
「私が決めたんです!ちゃんと育てるって決めたんです!だからいいんです!」
今度はレティシアの方から怒鳴られ、ベアトリーチェの瞳が茫然と見開く。
「ビーチェさまは黙ってっ…」
そう言って上げた表情にぐすりと涙をため、捲くし立てる。
「私を応援してくれればいいんです!」
そしてばっと少ない荷物を取り、帰り支度をすると言った。
「私、帰ります!絶対に、絶対に陛下は連れて帰りませんからね!ビーチェさまが面倒をみてくださいよ!」
そう言って一国の王妃とは思えない泣き顔のまま足を踏み鳴らして扉の方に走っていく。
一方、レティシアに怒鳴りかえされ、茫然としていたベアトリーチェはその後ろ姿を黙って見送った。ベアトリーチェがレティシアを怒ったことも数少ないが、レティシアがベアトリーチェへと怒鳴りかえしたことも皆無だったのだ。
扉が閉まり、レティの姿は消える。
「な、なにあれ…」
「子供じゃないんだから…」
もはや、傍観者となってしまったマーサたちはそう呟くしかない。
そんな中、ベアトリーチェが一言だけ呟く。
「レティが、私を怒鳴った…」
ショックの混じった呆然とした声だった。
「ええっ…。そこなの!?」
「ベルもこうして見るとちょっと…、かなりおかしいのかもね…」
今までレティシアとアーサーを見てきて、どうしようもない二人だと思っていたイレナなどだが、どうやらベアトリーチェも少しそれに追う部分があったようだった。
そんな中、今度はすぐに、また扉が開いた。次はいったいなんなんだと視線を向けたマーセルたちの目に、泣いて帰ったと思ったレティシアが顔だけ出してあらわれる。
この国で一番高貴なはずの女性は、ぐすりと一回鼻をすすり、ぐしゃぐしゃの顔で捨て台詞のように言い放った。
「陛下を狙う暗殺者がいるって話がありましたから。ビーチェさまが追い出したせいで、やられちゃっても知りませんからね。絶対、私、連れて帰りませんから!」
それだけ言って、扉をばたんと閉めて走って逃げて行った。
呆然とし立ちすくんでいたベアトリーチェだが、その言葉を受け取るとはっと意識を取り戻したように外へと駆け出して行ってしまった。
「アーサーさま!」
そう叫んで走り出したベアトリーチェの背中を見送ったマーサとルミが呟く。
「どう考えても嘘だとおもうんだけど…」
「むぅ、本当でも見捨てちゃえばいいのに…」
「それは確かに少し思うわ…」
ルミの本音に少し同意しかけた、イレナやマーサだった。