0.『恋の結末 1』
エルサティーナの王宮、国王の執務室。
「はぁ…」
アーサーが大きなため息をついた。そのため息は静かな執務室に大きく響き渡ったが、まわりで働いている側近たちは何も言わない。
何故ならこのため息も、側近たちには聞き慣れ、むしろ聞き飽きたものだったからだ。アーサーの筆が書類の上で時折、うつろに動くが気にしない。そんなこと気にせずさっさと仕事、自分の仕事に専念である。
「はぁ……」
そして、また溜息。
「あーあー、情けないですね。毎日毎日、日がな一日溜息ばかり」
そんなアーサーに声をかけるものがいた。
どこか嫌味の籠った声。この国の王、しかもベアトリーチェが側妃を辞してからは溜息の製造機と成っているアーサーに、そんな言葉をかけたのは、同国の王妃レティシアである。
「そんなにため息ばっかりつくなら、かっこつけてビーチェさまを手放さなければ良かったのに」
その姿は以前までのように、まわりの人間の言う事に従い、王妃として振る舞っていた少女の面影は微塵もない。なんと言ったらいいのか、かなりふてぶてしい。
王宮に慣れてきたせいなのか、ベアトリーチェと仲直りできたせいなのか、日に日に態度がでかくなっていく。
「五月蝿い。貴様には関係ない話だ」
それに対しペンを置き、椅子にどかっと座り、紅茶を持ちながら返すアーサーの返事もかなりつっけんどんだ。かつて国中の少女たちが憧れた理想の恋人たちの姿は微塵もない。
レティシアはアーサーの冷たい返事にもまったく動揺した様子なく、嬉々とした様子で手に持った手紙をひらひらと掲げ見せアーサーに自慢する。
「私なんて毎週、ビーチェさまと文を交わしてるんですよ。今週も私宛てに、手紙が届きましたのよ。」
私宛てにを強調して言っているのは気のせいではないだろう。今にもその場で高笑いしそうな雰囲気だ。そのことに、かなり調子に乗っていることは間違いなかった。
「貴様、あまり調子にのるなよ…。いつか痛い目みるぞ。」
しかしベアトリーチェを側妃の身分から解いてから、王としての立場からほとんど交流する術を持たないアーサーは、うめくような声で負け惜しみを言うしかなかった。
そんなアーサーの負け惜しみを、レティシアは気持ちよさそうに聞き流す。
「そんなに羨ましがるなら、ビーチェさまとの伝手ぐらい残しておかれればよかったのに。ビーチェさまは、あなたにも会いたがっていましたよ。」
「ベアはもう自由の身だ。私が干渉する権利はない。」
「へぇ、そうなんですか〜。」
アーサーの答えを聞き、レティシアは目を蛇のように細めて頷くと、何気なく話題に変えるように言った。
「そういえばビーチェさま、先月、アルセーナのラトド伯爵に求婚されたそうですよ」
ガシャン
アーサーの手から紅茶のカップが滑り落ちる。
紅茶と破片が床にちらばり、側近たちが迷惑そうに眉をしかめながら、いそいそと片づけを始める。
「それは本当か…」
「はい。かなりの美形で南国の女性たちの好意を一身に集めるプレイボーイな方ですけど。それがビーチェさまと会ってからは、ビーチェさまひと筋になってしまわれたらしくて、何度も熱心に声をかけられていたそうです。さすがビーチェさまですね。」
笑顔でベアトリーチェに求婚した相手の情報をぺらぺらと述べていくレティシアに、アーサーは聞きたいのはそんなことではないというように、言葉を挟み尋ねる。
「で、どうなったのだ」
「あら、興味があるのですか?」
「別に…。参考までだ」
何の参考だ、という感じだ。
レティシアのにやにやした顔がアーサーの神経を逆なでするが、耳はどうしてもレティシアの言葉に傾けざるを得ない。
「断ったそうですわ。」
「そうか…。」
明らかにほっとした様子で、アーサーはいつの間にか半立ちになっていた態勢から、椅子に腰を下ろしなおすと、仕事に戻ろうとペンを取る。
「その後、キーディス国のカーター公爵に、後妻にならないかと言われたそうですけど。」
バキッ
アーサーの持っていたペンが折れる。力をいれすぎたらしく、そのまま折れた部分から手に軽く刺さる。側近たちは眉をしかめ、血が書類に垂れる前に机の上から避難させた。
「キーディス国の公爵といえばもう50半ばの男だろう!いったい何を考えている!」
「亡くなった前妻に似ているとかで、アプローチをかけていたらしいですわ」
「ちゃんと断ったんだろうな!」
「もちろんですけど。たとえ了承していても、干渉する権利のないアーサーさまには関係ないお話では?」
レティシアに先ほどの発言を持ち出され、アーサーが苦々しい顔をする。
「一般論を述べたまでだ。さて、私は仕事にもどるぞ。」
アーサーは怪我した右手でなく、左手を使って書類を書き始める。レティシアはそれを眺めて、無意味に器用な男だと思いながら、さらに口を開いた。
「一週間前は、この国の伯爵家の子息に告白されたそうですけどね。」
ズリッ
アーサーの左手が書類の上をすべる。黒い線が書類全体を縦に両断し、側近たち全員の眉がハの字になる。
「いったい誰だ!それは!」
「あら〜、何か問題でもあるのですか?」
食いつくアーサーに、にやりとした笑みを浮かべてレティシアがじらしを入れる。
「王妃さま、御戯れはほどほどにしてください。我々の仕事が増えます。」
見かねた宰相のカイトが、レティシアに忠言する。
「貴様は今回も嫌味を言いにきただけか。」
今回もと言うとおり、レティシアは度々アーサーの執務室を訪れては、自業自得とはいえ失恋した男の傷跡をえぐっていく。
そうしてただでさえ、あれ以来能率が落ちているアーサーの仕事にさらにブレーキをかけていくのだから側近たちも困り切っていた。一方それをやる本人は絶好調で、仕事をこなしているのだから厭らしい。
最近では、側近たちの内輪では、レティシアの方が魔女と呼ばれていた。
「あら、今回は落ち込んでるアーサーさまのために、良い提案をもってきたのですよ。」
そんな国王陣営の胡乱げな視線に、にっこりとした笑みを浮かべて可愛らしく手を合わせ、そう述べる。その姿は絶世の美女の呼び名にふさわしく可愛らしくあったが、心を動かされるものはこの部屋には誰もいない。
むしろ普段の素行から凶兆を見たかのように、表情を曇らせる。
「提案?いったい何のだ」
レティシアの言葉にアーサーは、目に見えて胡散臭そうな顔をする。
「ビーチェさまにも関係がある話です。ここではお話できないので、今度二人で話す場を作ってください。」
「妙な話ではないだろうな」
「あら、私、ビーチェさまのしんゆうっなのですよ。変な話なはずがありませんわ。とっても良い話です。アーサーさまにとっても、この国にとってもね」
そしてついに高笑いをはじめてしまうレティシア。
ベアトリーチェと完全に仲直りをし、王妃としての仕事を精力的にこなしては、ビーチェさまがエルサティーナに訪れたおりにはコンサートへとかけつける。レティシアにとって今はまさに人生の絶頂期といったところで、調子に乗りまくっている。
そして調子に乗った人間がだす提案が大抵ろくでもないものであることは、皆が知る自明の理であった。
王妃の高笑いを聞いた側近たちは、嫌な予感しかしなかった。アーサーも同様である。
しかし、片や人生の絶頂期にあり、私用、公用と何かにつけてベアトリーチェと交流をとりまくって絶好調のレティシア。片や、まったくあれ以来ベアトリーチェと会っておらず、すっぱりと身を引いたと言えば聞こえがいいが、その完全な避けっぷりに逆に未練たらたらであることが周りに浮き彫りなアーサー。
そんなアーサーが、レティシアの提案をきっぱりと除けられるか、とても怪しかった。
嫌な予感に包まれた側近たちは。
(とりあえず今日の仕事をこなそう…。)
全員、仕事に逃避した。
この国の位の高い貴族や王族の男たちは、嫌なことがあるとすぐに仕事に逃げる遺伝子でもあるのかもしれない…。