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婚約破棄されたので、お預けした全てを精算させていただきます  作者: 凪乃


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9/12

辺境伯の領地 — 荒廃の向こうに見える数字

 馬車で八日。


 最初の二日間は王都近郊の平野が続いた。石畳の街道沿いに並ぶ宿場町、麦畑の緑、教会の尖塔。三日目から景色が変わった。整備された街道が砂利道になり、やがて轍だけの獣道に変わる。五日目には山間部に入り、松の樹林が馬車の窓を覆った。朝霧の中で馬の息が白く、車輪の軋む音だけが谷間にこだまする。七日目の夕暮れ、峠を越えた瞬間に視界が開け、眼下に広大な盆地が広がった。けれどその広さに見合う活気はなかった。窓の外に広がるのは、手入れの行き届かない農地と、錆びた柵で囲まれた放牧地。


 アルヴェスト領の入口に着いた時、わたくしが最初に感じたのは——落胆ではなかった。馬車の窓に手をかけ、身を乗り出した。


 数字が見えた。


 それは、わたくしの目が帳簿に馴らされてきた証だ。


 荒れた農地の面積と、復旧にかかる費用。放置された水路の修繕コスト。あの山並みの向こうにあるはずの鉱山の潜在収益。全てが帳簿の項目に変換されて頭に浮かんだ。指先が無意識にペンを探していた。書きたい数字がある——それが、わたくしの最初の感想だった。


「——遠路お越しいただき、感謝します」


 低い、よく通る声だった。飾り気のない言葉。けれど、その一言に嘘がないことは声の質でわかった。


 領主の館の前で、一人の男が待っていた。


 アルヴェスト辺境伯、クレイグ・フォン・アルヴェスト。


 軍人だと聞いていた。その通りの体格だった。広い肩幅、日焼けした肌、手の甲に薄い傷跡。右の頬骨のあたりに、古い切り傷が一本走っている。握手のために差し出された手は、剣と手綱で作られた分厚い胼胝に覆われていた。けれど目は穏やかで、こちらを値踏みするような視線はなかった。


「ヴァルディエン公爵令嬢、リゼル・ヴァルディエンです。お招きいただきありがとうございます」


「クレイグで構いません。辺境に敬称は不要です」


 その言い方に、気取りはなかった。ただの事実として言っている。帳簿に書くなら——「対等を志向する人物」と記しただろう。


 館に通された。石造りの質素な建物。装飾は最低限。けれど清潔で、実用的に整えられている。廊下の壁には剣の代わりに古い地図が掛けられ、窓の桟に小さな鉢植えが並んでいた。この人の暮らしが、飾り気のない形で見える。


 執務室のテーブルに、領地の帳簿が積まれていた。埃を被った革表紙が、この領地の放置された年月を物語っている。クレイグ——辺境伯が、少し恥ずかしそうに言った。


「正直に言います。この帳簿を見ても、何が問題なのかすらわかりません」


 その率直さに、少しだけ笑いそうになった。王都では誰もが数字を隠し、嘘をつき、体裁を繕う。この人は、知らないことを知らないと言える。


 わたくしは帳簿を手に取った。


 ——ひどかった。


 記帳は雑で、収支の分類が曖昧で、経費の項目が混在している。三年前の記録と最新の記録が同じ台帳にまとめられていて、時系列の追跡がほぼ不可能だった。表紙の革は水を被ったのか波打っており、ところどころインクが滲んで数字が判読できない。ページの端が湿気で貼りついて、無理に剥がせば破れそうだった。帳簿としては——瀕死だ。


 けれど——数字そのものは嘘をついていなかった。


「辺境伯」


「クレイグで」


「……クレイグ様。この帳簿、記帳方法は壊滅的ですが、数字自体は正直ですわね」


 辺境伯が目を丸くした。


「それは……褒められているのでしょうか」


「はい。帳簿で嘘をつく人は多いですが、あなたの帳簿は単に整理ができていないだけです。それは直せます」


 辺境伯の肩から、目に見えて力が抜けた。


 わたくしは鞄から白紙の台帳を取り出した。旅支度の中に入れておいたもの——新しい帳簿だ。革の表紙はまだ硬く、開くと真新しい羊皮紙の匂いがした。罫線の引かれた白いページが、静かに最初の数字を待っている。王都を出る前に、わたくしはこの帳簿を荷物の一番上に入れた。誰かを追い詰めるためではなく、何かを始めるために。


「まず、収支の分類を再構築しましょう。農業収入、鉱山収入、交易収入、領民税——」


 項目を口にするたびに、辺境伯が小さく頷いた。


 ペンを取り、新しい帳簿の最初のページに項目を書き始めた。インクが真白な羊皮紙に染み込んでいく。文字の一画ごとに、この領地の輪郭が形を持ち始める。


 辺境伯がわたくしの手元を見ていた。その目に、驚きとも感嘆ともつかない光があった。


「あなたは——こういう時、迷わないのですね」


「迷う余地がないだけです。数字は嘘をつきませんから」


 ペンの先からインクが流れ、項目名が羊皮紙に刻まれていく。この感触を、わたくしは知っている。帳簿が生まれる瞬間の、静かな確信。


 新しい帳簿の一ページ目が埋まった。インクが乾く前に、辺境伯がそっとページを覗き込んだ。その目が、数字ではなく、わたくしの筆跡を見ていた。


 ここなら、わたくしの帳簿は武器ではなく、建てるための道具になれる。

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