社交界を回していたのは誰か
精算会議の第三回。今度は宰相執務室ではなく、国政会議室が使われた。
天井の高い、格式ある部屋だった。壁面には歴代宰相の肖像画が並び、長い楕円の会議卓が部屋の中央を占めている。卓上の燭台に火が灯され、羊皮紙とインクの匂いが漂う。ここで国の方針が決まる——その重みが、石の床から靴底を通じて伝わってくる。
出席者が増えていた。宰相オスヴァルト公、エーレンハルト卿に加え、外務卿と宮内卿が列席している。
わたくしの精算が「国政案件」になった以上、各省の長が関わらざるを得ない。四つの椅子に四つの立場——その全てが、わたくしの帳簿に向き合うことになる。
「第三項。社交界運営支援の明細に入ります」
帳簿を開いた。ページの端が、わたくしの指先で薄くなっている——何度も読み返した証だ。このページは——正直に言えば、最も重い。
魔力供与は数値化しやすい。政治的譲歩も、費用と成果で測れる。
しかし社交界の運営は——見えない仕事だ。見えないからこそ、誰も対価を意識しない。けれどわたくしの帳簿には、見えない仕事の一つ一つが数字として刻まれている。
「過去三年間の宮廷舞踏会の企画運営は、実質的にヴァルディエン家が担当しておりました。招待状の発送、席次の管理、料理の手配、楽団の選定、装飾の指示——全てです」
宮内卿の顔が強張った。額に薄く汗が滲み、手元の資料に目を落とした。彼の管轄だ。彼の名前で実施されていたものが、実態としてはわたくしの仕事だったと——公の場で明かされることになる。
「年間の舞踏会は六回。一回あたりの運営費用は金貨二千枚前後ですが、ヴァルディエン家はこれを人員提供の形で支援しておりました。つまり、費用は公爵家持ちです」
数字を読み上げた。六回の舞踏会、三年分。侍女の派遣人数、使用した食材の産地手配、楽団との折衝記録——全て帳簿に残っている。ペンの走った夜の数は、数えていない。けれど帳簿は覚えている。
「次に、外国貴賓の接遇」
外務卿に目を向けた。
「昨年の秋に行われた隣国パルメシア王国の使節団接待。席次の配置、通訳の手配、非公式晩餐会の企画——これらはわたくしが直接担当しました」
あの夜のことを覚えている。パルメシアの主席使節は香辛料の匂いに敏感で、料理の調味を三日前に全て変更した。通訳が急病で倒れた時、わたくしが代わりにパルメシア語で挨拶を述べた。使節の表情が驚きから笑みに変わった瞬間を、わたくしは帳簿ではなく記憶に残している。
「……それは」
外務卿が口を開いた。
「私の記憶では、宮内庁が——」
「宮内庁から依頼を受けたヴァルディエン家が実施しました。依頼書の写しがございます」
帳簿から書類を抜き出した。
外務卿が受け取り、読み、目を閉じた。宮内卿は視線を卓上に落としたまま動かない。エーレンハルト卿のペンが、紙の上で止まったまま小さく震えていた。
「……確かに、公爵令嬢のお名前があります」
「パルメシア使節団の接遇が成功した結果、翌年の通商条約が締結されました。この条約による国庫への年間増収は——」
「金貨一万枚前後だ」
宰相閣下が遮った。数字を知っていた。当然だ。この人の記憶力は、わたくしの帳簿に匹敵する。
「つまり——」
わたくしは帳簿のページをめくった。
「社交界運営と外交接遇の支援を合わせた第三項の精算額は、金貨八万枚です。これには今後停止することによる損害想定は含まれていません」
八万枚。その数字を読み上げた時、わたくしの声には感情がなかった。
会議室が沈黙した。
三項目までの合計が、金貨二十六万枚に迫っていた。そしてまだ十七項目残っている。全項目の速報値は金貨六十三万枚——会場の誰もが、残りの十七項目を想像して顔色を変えた。
その数字が空気に溶けるまで、誰も口を開かなかった。燭台の炎が揺れる音だけが聞こえた。精算の輪郭が明らかになるほどに、会議卓の上に重圧が目に見えない形で積み上がっていく。
まだ十七項目残っている。
「ヴァルディエン家の社交支援が停止した場合——」
わたくしは言葉を選んだ。脅迫ではなく、事実として。声を落とし、帳簿のページに目を落としたまま。
「来月の春の舞踏会は、誰が運営されるのでしょうか」
宮内卿が口を開いたが、言葉が出なかった。
わたくしがいなくなった宮廷で、誰が舞踏会を回すのか。誰が外国の使節を迎えるのか。誰が席次を決め、料理を手配し、楽団を選ぶのか。帳簿をつける者がいなくなれば、数字は闇に消える。
聖女には——できない。彼女の仕事は泣くことだ。
「本日はここまでにいたしましょう。残りの項目については——」
帳簿を閉じた。羊皮紙の束が、ゆっくりと重みを戻す。
「精算の全容を取りまとめた正式な請求書を、一週間以内にお届けいたします」
立ち上がり、一礼して退室した。背筋は伸ばしたまま。帳簿を胸に抱え、振り返らなかった。
廊下で、宰相閣下の声が背中に届いた。低く、独り言のようでいて、確かにわたくしに届くように発された声だった。
「——あの令嬢がいなくなると、宮廷は動かなくなるぞ」
足を止めかけた。けれど振り返らなかった。聞こえないふりをした。今のわたくしに必要なのは、同情ではない。帳簿の最後のページをめくることだ。




