証拠は全て揃っています
聖女が動いた。
精算会議の第三回を前に、聖女エリアーナが王に直訴したのだ。「リゼル・ヴァルディエンの精算要求は不当であり、王家への恫喝である」と。
報せを持ってきたのは、侍女のマリアだった。
「お嬢様、聖女様が……」
「知っていますわ」
予想通りだった。帳簿をつけ始めた三年前から、この展開は想定していた。インク壺の蓋を閉め、手元の帳簿を丁寧に鞄にしまった。
翌日、王の御前での弁明の場が設けられた。
謁見の間は広かった。高い天井から垂れるタペストリーには王家の紋章が織り込まれ、左右に近衛兵が四人ずつ立っている。玉座の前に据えられた長卓に、国王陛下が腰を下ろしていた。白髪交じりの髪、深い皺の刻まれた目元——けれどその視線は、まだ鋭さを失っていない。宰相閣下も同席している。
聖女は涙を浮かべて訴えた。白い手を胸の前で組み、声を震わせて。タペストリーの紋章を背に立つその姿は、確かに絵のように美しかった。
「リゼル様は、婚約期間中にされたことの対価を求めると仰っています。けれどそれは——愛する殿下のために尽くしたことではないのですか? 対価を求めるなんて、心がないと思います」
美しい論理だ。「愛」を持ち出せば、「対価」は下品に見える。
わたくしは帳簿ではなく、別のものを取り出した。
契約書の束だ。帳簿とは別に、もう一つの鞄に入れて持ち歩いていたもの。
「陛下、恐れながら」
わたくしの声は落ち着いていた。帳簿が教えてくれた平静さだ。
一枚目を広げた。指先が羊皮紙の端をなぞる。この書類を広げる瞬間を、わたくしは何度も練習した。
「こちらは、婚約締結時にヴァルディエン公爵家と王家の間で取り交わされた覚書です。第四条に、婚約期間中の相互支援の範囲と、婚約解消時の精算条項が明記されています」
厚手の羊皮紙に、王家の赤い封蝋が押されている。インクは十年以上の歳月で褐色に変わっていたが、文字の一画一画は今も鮮明だった。
国王の表情が動いた。覚書の存在を——覚えていなかったのだろう。十年以上前に結ばれた、形式的な文書。しかし法的拘束力は生きている。
「『婚約を解消する場合、婚約期間中に一方が他方に提供した資産・役務について、精算を求める権利を有する』」
読み上げた。一言一句、間違いなく。
「これは王家の法務官が起草し、当時の宰相が承認した正式な文書です」
わたくしの声は、謁見の間の高い天井に吸い込まれて消えた。けれど、意味は消えない。
聖女が口を開いた。
「でも——そんな条項、誰も気にしていなかったはずです。形だけのものでしょう?」
「形だけかどうかは、法の判断です」
わたくしは聖女の涙ではなく、国王の目を見て言った。
二枚目の書類を出した。
「こちらは、過去六十年間の貴族間婚約破棄における精算事例の一覧です。法務省の公開記録から抽出しました。精算条項に基づく請求が認められた判例は、十四件あります」
国王がその書類を手に取った。ゆっくりとページをめくっている。紙質が覚書とは違う——法務省の公式用紙は、薄く透ける白紙に細かい活字が詰まっている。陛下の指先が、判例番号の上で止まった。
「さらに——」
三枚目。
「ヴァルディエン家の支援内容を裏付ける証拠書類です。魔力転写の記録は魔法省に原本があります。政治的仲介は外務局の議事録に残っています。社交界の運営記録は宮内庁にあります。全て第三者が保管する公式記録です」
聖女の顔が白くなった。唇が微かに震え、握りしめた両手が膝の上で硬直している。涙はまだ流れていたが、もう誰もそれを見ていなかった。わたくしの証拠は、彼女の涙では覆せない。
エーレンハルト卿が、深いため息をついた。老練な法律家の目が、初めてわたくしに敬意を含んだ。
「……法的には、ヴァルディエン公爵令嬢の請求に瑕疵はありません」
国王が帳簿と証拠書類を見比べている。指先で羊皮紙の端をなぞり、インクの褪せた文字に目を細めた。長い沈黙の後、
「——精算交渉を、正式な国政案件として扱う」
その一言で、わたくしの精算は——個人的な恨み言ではなく、国家レベルの債権問題になった。羊皮紙の帳簿が、国を動かした。
聖女が何か言おうとした。しかし国王は既に立ち上がり、退室していた。近衛兵が扉を閉める音が、謁見の間に重く響いた。
帰り道、廊下で侍女のマリアがそっと訊いた。
「お嬢様、あの証拠は全て——三年前から準備されていたのですか」
マリアの声は小さく、廊下の石壁に吸い込まれるように消えた。わたくしの顔を見上げるその目には、驚きと、畏れと、それから——少しだけ悲しみがあった。
「ええ。帳簿をつけ始めた日から」
三年間、毎晩帳簿をつけていた。婚約者に尽くしながら、同時に全ての貢献を記録し、証拠を保全し、精算条項の判例を調べていた。蝋燭の灯りの下で、インクが乾くのを待ちながら。毎晩、ペンを置く頃には夜が白み始めていた。
愛していなかったのかと問われたら——答えに困る。
けれど、愛していても帳簿はつけた。ペンを握り、インクを蘸し、数字を刻んだ。それがわたくしの生き方だ。




