政治的譲歩の明細
精算の第二弾は、王太子殿下の居室ではなく、宰相執務室で行われた。
重い遮光幕が窓を半ば覆い、壁には国境線の入った大地図が三枚並んでいる。樫材の執務机には、古いインクの染みがいくつも残っていた。何十年もの政務が、あの木目に刻まれているのだろう。部屋全体に、羊皮紙と封蝋の匂いが沈んでいる。
宰相閣下——オスヴァルト公が自ら場を用意したのだ。「これは王家の私事ではなく、国政に関わる」と。わたくしの帳簿が、それだけの意味を持ったということだ。数字は、権力の言葉を超える。
「第二項。政治的譲歩の明細に入ります」
声を発した瞬間、オスヴァルト公の背筋が微かに伸びた。
帳簿を開いた。今日のページは、三年前の春から始まる。インクの色が微かに異なるのは、季節ごとに違う瓶を使ったからだ。春の記録は濃い藍、冬の記録は少し褪せた黒。三年の歳月が、インクの色に刻まれている。
「ヴァルディエン公爵家は、婚約成立を前提に、北部三領との国境紛争の調停を引き受けました。紛争解決にかかった費用は公爵家が負担しています」
帳簿の数字を指でなぞった。この一行の裏に、どれほどの苦労があったか。
オスヴァルト公の目が鋭くなった。一瞬だけ——指先が机の端を叩き、すぐに止まった。それから、わざと無表情を作った。けれどわたくしは見逃さなかった。北部の安定は、宰相閣下の最大の功績と言われている。その裏側を、わたくしは知っている。
「調停費用は金貨一万二千枚。人員派遣の延べ日数は——」
帳簿のページを指先でめくった。ここからは、数字だけでは語れない重みがある。
数字を並べた。わたくしの父が、何度も北部へ出向いた。冬の峠を越えて、凍った川を渡って。真冬の調停のときは、外套に霜が張りついたまま先方の館に入ったと聞いた。指先の感覚がなくなるほどの寒さの中、父は交渉の席で一度も声を荒らげなかった。全て、「将来の王妃の実家として」信用を提供するためだ。
「次に、東部国境の関税交渉」
ページをめくった。次のインクは、少し薄い。母の筆跡を参考にして書いた部分だ。
これは母の仕事だった。母はヴァルディエン家に嫁ぐ前、商家の出だ。帳簿の読み方をわたくしに教えてくれたのも母だった。「数字は感情を持たないけれど、数字を読む人間は感情を持っている。だから帳簿は正確に、けれど相手の顔を見て読みなさい」——母の口癖だった。数字に明るく、交渉の場で相場を読む力がある。
「ヴァルディエン公爵夫人が顧問として参加した交渉は七件。関税の改定により、国庫収入は年間金貨八千枚増加しました。三年間で二万四千枚の増収です」
オスヴァルト公の顔から表情が消えた。椅子の背もたれに体を預け、ゆっくりと立ち上がった。窓辺まで歩き、大地図の北部国境線を指でなぞるように見つめている。宰相という立場の人間が表情を消す時、それは数字が想像以上だったということだ。
「これらの政治的資産は、婚約破棄により根拠を失います。ヴァルディエン家には、今後これらの支援を続ける義務がありません」
ペンを置いた。帳簿の数字を、もう一度見つめた。
わたくしは帳簿から顔を上げた。
「つまり——北部の安定と東部の関税収入は、来期から不安定になる可能性があります」
言い終えた後、わたくしは帳簿の上に手を置いたまま動かなかった。
会議室が静まった。窓の外で、風が樹木を鳴らす音だけが届く。
エーレンハルト卿が咳払いをした。
「それは……脅迫と受け取られかねない発言ですが」
「事実の説明です」
わたくしは答えた。嘘は言っていない。ヴァルディエン家が婚約を前提に行った支援を、婚約がなくなった後も続ける理由がない。それだけのことだ。帳簿が示すのは、常に事実だけだ。
「第二項の精算総額は、直接費用と機会損失を合わせて、金貨十五万枚です」
十五万。その数字がインクのように空気に染み込んでいく。
オスヴァルト公が立ち上がった。窓際まで歩き、外を見ている。遮光幕の隙間から覗く空は、曇り始めていた。背中が、何かを考えていることを示していた。
「第三項は——社交界運営の支援になりますが、こちらは宰相閣下にとっても直接関係のある内容です。改めて日を設けましょうか」
「……三日後に、同じ場所で」
宰相閣下の声は低かった。執務机のインク壺に、閉じ忘れた蓋が光っていた。この部屋の主が動揺している——それだけで十分だった。
宮廷の均衡が揺らぎ始めている。わたくしが帳簿をめくるたびに。ペンを執務机に置いたまま、わたくしは一人、宰相閣下の部屋を後にした。樫材の扉が閉まる音が、羊皮紙の匂いを断ち切った。




