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婚約破棄されたので、お預けした全てを精算させていただきます  作者: 凪乃


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精算の第一弾 — 魔力供与の対価

 断罪の翌日。


 王宮の一室に、精算会議の場が設けられた。予想より早い。昨夜のうちに宰相閣下が動いたのだろう。あの方は数字の意味がわかる人だ。


 石壁に囲まれた狭い部屋だった。細い窓が二つ、天井近くに穿たれているだけで、陽の光はほとんど届かない。長テーブルと椅子が数脚——それ以外には何もない。暖炉に火は入っておらず、石の冷気がインクと羊皮紙の乾いた匂いに混じっている。精算にはふさわしい場所だ。感情の入る余地がない。


 長テーブルの向こう側に、王太子殿下の顧問官——エーレンハルト卿が座っている。銀縁の眼鏡の奥で、細い目がわたくしを値踏みするように見ていた。


 聖女は同席していない。精算交渉は法務事案だ。涙は通用しない。この部屋にあるのは、数字と法と、それだけだ。


「では、第一項から詳細に入らせていただきます」


 声を発した。石壁に反射した自分の声は、想像よりも落ち着いていた。


 帳簿を開いた。昨日読み上げた速報値の裏側——三年分の明細が、ここにある。羊皮紙の束が、手の中でずしりと重い。


「魔力供与。婚約初年度、わたくしが殿下に最初の魔力転写を行ったのは、春の大演習の三日前でした」


 帳簿のインクが、蝋燭の灯りで微かに光る。三年前の文字は、今よりも少しだけ筆圧が強かった。


 あの日のことは覚えている。殿下が騎士団長の前で魔力を披露しなければならないのに、実力が足りなかった。「頼む」と言った殿下の顔を、わたくしはまだ覚えている。あの夜、自室に戻った時、指先が冷たく痺れていた。転写の反動で三日間、ペンを持つ手が震えた。それでも翌朝、帳簿には「第一回魔力転写完了」とだけ記した。感情は書かない。数字だけを残す。


「ヴァルディエン家の血統は、他者への魔力転写の適性が高い。これは公的に知られた事実です。ただし——」


 エーレンハルト卿に目を向けた。


「転写した魔力の所有権は、元の保有者に帰属します。これは魔法省の定める基準です。つまり殿下の体内にある魔力のうち、わたくしが転写した分は、法的にはわたくしの資産です」


 エーレンハルト卿の眉が動いた。


「それは——解釈の問題では」


「解釈ではありません」


 帳簿の間から、一枚の書類を抜き出した。


「魔法省告示第七十二号。『魔力転写における所有権の帰属』。施行は十四年前です。判例もございます」


 エーレンハルト卿が書類を受け取り、目を通す。銀縁の眼鏡を押し上げ、告示の文面を二度読み返した。その指先が、かすかに震えているのがわかった。


「三年間で三十六回の転写。一回あたりの魔力量は——」


 数字を読み上げた。一回ごとに、日付と、転写量と、当時の市場換算率を添えて。


 指先でインクの文字を追いながら、一行一行、声に出す。三行目で、エーレンハルト卿のペンが止まった。十行目で、額に薄く汗が浮いた。二十行を過ぎたあたりで、卿はクラバットを緩め、喉元に指を入れた。わたくしは構わず読み続けた。一行ごとに思い出す——あの日の転写の重さ、指先から魔力が抜けていく感覚、終わった後に膝が震えたこと。


 三十六行。三年分の献身が、帳簿の上では三十六行の数字の列になる。


「合計金貨二万八千八百枚。ただし——」


 ここが重要だ。指先で帳簿の行を押さえた。


「魔力は消費財ではなく蓄積資産です。転写後に殿下の体内で増幅された分は、原資に対する利息とみなされます。魔法省の標準算定基準に従えば、年利は五分」


「五分の複利で三年——」


 エーレンハルト卿が計算を始めた。彼の顔色が変わるのを、わたくしは黙って見ていた。


「金貨三万三千三百四十枚。利息だけで四千五百枚以上——」


「ご理解いただけましたでしょうか」


 わたくしの声だけが、石壁に反響して消えた。わたくしは帳簿に目を戻した。


「これは第一項だけの金額です。第二項以降は、金額の桁がさらに上がります」


 沈黙が落ちた。石壁が、その沈黙を逃がさない。エーレンハルト卿の呼吸だけが、かすかに聞こえていた。


 エーレンハルト卿が椅子の背にもたれた。眼鏡を外し、こめかみを押さえている。頬の筋肉が引き攣り、唇が乾いていた。


「……少し、時間をいただきたい」


「どうぞ。第二項の明細は、三日後にお届けいたしますわ」


 穏やかに言った。ペンをテーブルに戻し、帳簿を閉じた。革の表紙が、静かな音を立てた。今日はここまでで十分だ。


 一つ精算するたびに、殿下側が何を失うかを思い知る。わたくしが三年間、何をしていたか——帳簿が、全てを語っていく。数字は感情を持たない。だからこそ、嘘のない証人になる。


 部屋を出ると、廊下の窓から午後の陽射しが差し込んでいた。


 柱の陰に、マリアが立っていた。わたくしの侍女は、長い時間ここで待っていたのだろう。手に温かい飲み物を載せた盆を持ち、わたくしの顔を見た瞬間、何かを言いかけて——やめた。代わりに、黙って盆を差し出した。その目が少し赤い。


 泣きたいと思ったのは——嘘ではない。

 でも今は、帳簿の次のページを開くほうが先だ。

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