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婚約破棄されたので、お預けした全てを精算させていただきます  作者: 凪乃


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商人ギルドとの大型提携

 制裁の緩和交渉が始まる前に、わたくしは先手を打つことにした。


「商人ギルド連合との直接提携です」


 辺境伯の執務室で、計画書を広げた。朝の光がテーブルに差し込み、羊皮紙の上のインクが鈍く光っている。


「これまでは個別の商人との取引でしたが、ギルド連合と包括提携を結べば、取引の安定性と規模が一段上がります。帳簿上の試算では、年間の交易高が三倍になる見込みです」


「ギルド連合が辺境と組むメリットは?」


「王都の制裁で、ギルド連合も困っているのです。辺境の鉱石と薬草が入らないと、製品が作れない。わたくしたちの方が交渉力を持っています」


 帳簿を開き、ギルド連合の需要量と辺境の供給量を並べた数字を見せた。差分が明確に出ている。この差分こそが、わたくしたちの武器だ。


 翌週、ギルド連合の代表がアルヴェスト領を訪れた。館の前には辺境伯の兵士が整列し、正式な歓迎の体裁を整えてある。わたくしは帳簿を胸に抱え、玄関先で待った。


 商人ギルド連合長、トマス・ロイエンタール。脂ぎった顔に鋭い目。太い指には金の指輪が三つ——取引の成功を記念して増やすのだと聞いたことがある。話す時に両手を広げる癖があり、指輪が燭台の光を弾くたびに、目が眩む。それすらも計算のうちだろう。商人の中の商人と呼ばれる男だ。


「遠路お越しいただきありがとうございます、ロイエンタール殿」


 わたくしは深く一礼した。背筋を伸ばし、帳簿を左手に抱えたまま。


「こちらこそ。——驚きましたよ、辺境伯領の変わりようには」


 ロイエンタールが窓の外を見た。交易所の活況、整備された道路、荷馬車の列。半年前には荒れ地だった場所だ。彼の商人の目が、一つ一つの光景を金貨に換算しているのがわかった。


「これを、半年で?」


「帳簿を正しくつけて、数字に従って投資しただけですわ」


 わたくしは帳簿を胸に当てた。この言葉は嘘ではない。だが、その「だけ」に込められた夜の数は、誰にも見せない。


「……それを『だけ』と言える人間は稀だ」


 ロイエンタールの鋭い目がわたくしを値踏みしていた。商人が相手の価値を測る視線だ。わたくしは微動だにせず、その視線を受け止めた。帳簿をつける者は、数字と同じように——揺らがない。


 交渉はわたくしが主導し、辺境伯が保証人として同席した。


 最大の争点は、鉱石の最低供給量だった。ロイエンタールは年間三千トンを要求した。わたくしの帳簿では、安定供給できるのは二千二百トンが上限だ。


「二千二百トンでは足りません、リゼル殿。王都の鍛冶ギルドだけで二千トンは使う」


「ならば、残りの八百トンは来年度の鉱山拡張で補います。拡張計画の帳簿はこちらです」


 わたくしは準備していた拡張計画書を出した。ロイエンタールの目が数字を追う。商人の目——帳簿を読む速度は、わたくしに匹敵する。


「……なるほど。拡張の投資は?」


「ギルド連合と折半で。利益配分は六対四。わたくしたちが六です」


「五対五だ」


「五・五対四・五で手を打ちますわ」


 辺境伯がここで口を開いた。


「鉱山の安全と品質は私が保証する。アルヴェスト辺境伯の名において」


 軍事力を持つ領主の保証。それは商人にとって、金貨よりも確実な担保だ。ロイエンタールの表情が変わった。


 四時間の交渉で、合意に達した。


 辺境経済圏の鉱石・薬草・農産物を、ギルド連合が優先的に買い付ける。代わりに、ギルド連合の流通網を辺境経済圏にも開放する。取引量は年間金貨二十万枚規模。辺境の帳簿に記される数字が、一気に桁を変えた。


「この規模の提携は、地方領地としては前例がない」


 ロイエンタールが契約書に署名しながら言った。金の指輪が羊皮紙に触れ、小さな音を立てた。インクが染みていく様を、わたくしは黙って見つめた。


「帳簿の女——いや失礼、リゼル殿。あなたは王都にいた方が良かったのではないか?」


「いいえ」


 わたくしも署名した。ペン先が羊皮紙の上を滑る。インクの匂いが鼻をくすぐる。この一筆が、数千人の暮らしを変える。指先にその重みを感じた。


「わたくしは、自分で選んだ場所にいます」


 ロイエンタールが一瞬、言葉を失った。そして、商人にしては珍しく、敬意のこもった目でわたくしを見た。


 契約書を辺境伯に渡した。辺境伯が最後の署名をする。彼の手は大きくて、ペンが少し小さく見える。だがその筆跡は意外なほど丁寧だった。


「完了だ」


 辺境伯がわたくしを見た。二人で同時に頷いた。言葉はなかった。言葉がなくても通じ合えるようになったのは、いつからだろう。帳簿の行間を読むように、わたくしたちは互いの沈黙を読めるようになっていた。


 ロイエンタールが帰った後、執務室にわたくしたち二人だけが残った。テーブルの上には空になったインク瓶と、交渉中に使い潰したペンが三本。四時間の戦いの痕跡だ。


「リゼル殿」


「はい」


「今日の交渉——完璧だった」


「クレイグ様の保証がなければ成立しませんでしたわ。ギルド連合は信用を重視します。軍事力を持つ辺境伯の保証は、金貨よりも重い」


 わたくしはテーブルの上の契約書に目を落とした。三つの署名が並んでいる。ロイエンタールの太い筆跡、わたくしの細い文字、そしてクレイグの力強い署名。三者三様の筆致が、一枚の羊皮紙の上で交わっている。


「つまり——」


 辺境伯が微笑んだ。


「私たちの連携が、上手くいっている」


「ええ」


 わたくしも微笑んだ。帳簿と剣。数字と信頼。二つが揃って初めて、この提携は成立した。


「上手くいっていますわね」


 窓の外で、夕日が沈んでいく。茜色の光が二人の輪郭を切り取り、執務室の白い壁に影を落としていた。大きな影と、少し小さな影。二つの影が、壁の上で並んで揺れている。


 わたくしはペンを置き、インクの蓋を閉じた。今日もまた、帳簿に新しい成果が刻まれた。

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