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婚約破棄されたので、お預けした全てを精算させていただきます  作者: 凪乃


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経済ブロック — 王都依存からの脱却

 制裁から二か月。


 辺境経済圏は、王都の思惑に反して——成長していた。


 わたくしの帳簿が毎日更新される。毎朝、ペンを取り、数字を記す。パルメシア自由都市との交易量は制裁前の一・五倍。海港経由の南方交易も軌道に乗り始めた。四領の合同倉庫から出荷される鉱石と薬草は、もはや王都の仲介がなくても買い手がつく。


「月次報告です」


 辺境伯の執務室に、四領の代表が集まっていた。大きな樫のテーブルに地図と帳簿が広げられ、燭台の灯りが羊皮紙の表面を温かく照らしている。壁には辺境伯領の全域図が掛けられ、新しい交易路が赤いインクで書き足されていた。フォルスト男爵、エーデルシュタイン子爵、リンデンベルク伯爵。そしてわたくしと辺境伯。


「辺境経済圏の月間交易高は、金貨四万二千枚です。三か月前の二・一倍になりました」


 わたくしの声が、静かな室内に響いた。手元の帳簿の数字と、テーブルの上の報告書。同じ数字が二つの場所に記されている。


 テーブルに報告書を配った。数字入りのグラフを添付してある。帳簿だけでは伝わらないことも、図にすれば一目でわかる。グラフの線が右肩上がりに伸びている様は、帳簿をつける者にとって最も美しい光景だ。


「このうち、王都経由の取引は全体の一二パーセント。残りの八八パーセントは、辺境経済圏の独自ルートで処理しています」


 報告書を手に取る各代表の表情が変わった。フォルスト男爵が身を乗り出した。


「制裁前は王都経由が六割だった。それが一二パーセントに?」


「はい。制裁が辺境経済圏の自立を加速させました。皮肉なことですわね」


 リンデンベルク伯爵が声を上げて笑った。「我が領の木材収入だけで、昨年の総収入を超えているぞ」。エーデルシュタイン子爵は静かに頷きながら、報告書の数字を指でなぞっている。数字を読める貴族は多くない。だがこの席では、全員が帳簿を読むことを覚えた。


「次に、各領への利益配分の報告です」


 数字を読み上げた。四領それぞれの収益改善額。どの領地も、制裁前より利益が増えている。


「——素晴らしい。これで制裁が延長されても、問題なく持ちこたえられる」


 辺境伯が言った。四領の代表が頷く。テーブルの上の帳簿が、静かにその合意を見届けていた。インクの匂いが、室内に満ちている。


 会議が終わった後、辺境伯がわたくしを呼び止めた。


「リゼル殿」


「はい」


 振り返ると、辺境伯の視線がわたくしの顔をじっと見ていた。


「——少し、休んだ方がいい」


 不意の言葉だった。


「目の下に隈ができている。肩にも力が入りすぎだ」


 わたくしは反射的に目元に手をやった。確かに、ここ数日は夜遅くまで報告書を仕上げていた。鏡を見る余裕もなかったことを、彼に指摘されるとは。


「お気遣いありがとうございます。でも、まだ宰相への返答書の草案が——」


「茶を持ってこさせる。少し座っていけ」


 辺境伯がそう言って、侍従に指示を出した。その声は命令ではなく、静かな申し出だった。


 わたくしは椅子に腰を下ろした。——仕事上の同僚が、相手の隈に気づくだろうか。肩の力の入り方を見ているだろうか。この気遣いは、帳簿上の関係を少しだけ超えている。


 そのことを、わたくしは数字のように正確に認識していた。けれど今は、黙って紅茶を待つことにした。


「王都から、もう一つ情報が来ている」


 辺境伯の表情が少し曇った。


「鍛冶ギルドと薬師ギルドが、制裁に公式に抗議した。辺境からの鉱石と薬草が減って、王都の製品価格が上がっている。ギルドの親方連中が宰相に直訴したらしい」


「予想通りです。制裁は王都にも痛い」


「それで——宰相が非公式に打診してきた。制裁の緩和を検討するから、精算交渉のテーブルに戻ってくれないか、と」


 わたくしは手元の帳簿を閉じた。パタン、と小さな音がした。その音が、決断の合図になった。


 わたくしは窓の外を見た。鉱山の煙突から白い煙が昇っている。交易所に荷馬車が並んでいる。畑は青々としている。遠くの峠道には、パルメシアから来る商隊の影がちらりと見えた。半年前、この窓から見えたのは荒れた土地だけだった。


「テーブルには戻ります。ただし——」


 辺境伯に向き直った。


「条件はこちらが決めます。もう、あちらの土俵で交渉する必要はありませんわ」


 辺境伯の目が少し見開かれ、それからゆっくりと笑みが浮かんだ。剣で戦う男が、帳簿で戦う女の言葉に頷く——その光景が、わたくしには少し誇らしかった。


 帳簿を抱えた。この帳簿の数字が、わたくしの交渉力そのものだ。


 紅茶の湯気がまだ微かに立ち昇っている。辺境伯がさきほど淹れさせてくれたものだ。冷める前に一口だけ飲んだ。温かかった。

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