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婚約破棄されたので、お預けした全てを精算させていただきます  作者: 凪乃


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新しい交易路 — 帳簿の女から領地の救世主へ

 協力契約から半年。交易所の建設が完了した。帳簿に記した予算と工期は、ほぼ正確に実現された。


 北の国境、アルヴェスト領とパルメシア自由都市を結ぶ峠道の中腹。石造りの小さな建物と、荷馬車が二台入れる広場。周囲には兵士の詰め所と、簡素な宿泊施設。建物の壁には真新しい漆喰が塗られ、屋根の銅板が朝日を弾いている。入口脇の看板にはアルヴェスト領の紋章と、わたくしが設計した取引規定の要約が刻まれていた。インクではなく石に刻んだのは、風雨に耐える恒久の意思表示だ。


「——小さいですわね」


 わたくしの声に、交易所の壁が小さく反響した。石の匂いと、まだ乾き切らない漆喰の匂いが混じっている。


「最初は小さくていい。実績を作ってから拡張する。あなたが言った通りだ」


 辺境伯が隣で腕を組んでいた。交易所の開所式に、領主として立ち会っている。峠を渡る朝の風が、わたくしの髪を揺らし、羊皮紙の端をめくった。空気には早朝の山の清冽さと、どこかから漂う煙の匂いが混じっている。


 最初の交易隊が峠を下りてきた。パルメシアの商人たち。パルメシア自由都市——海岸沿いに聳える城壁都市で、大陸有数の港を擁する商業の要衝だ。潮風と香辛料の匂いが染みついた彼らの外套が、この山間の空気にひときわ異質に映る。彼らが運んでいるのは、辺境伯領では手に入らない香辛料と南方の織物。具体的には、サフランに黒胡椒、紅花染めの絹織物に、ガラス細工の小瓶。代わりにこちらからは、高品質の鉱石と北部特産の薬草を出す。銀を含むアルヴェスト鉱石は純度が高く、パルメシアの鍛冶職人に評判がいい。


「取引条件は先方と合意済みです。関税は通常の半額。最初の一年間は特別優遇で」


「関税を下げて利益は出るのか?」


「出ます。通行量が増えれば、宿泊施設と倉庫の利用料で回収できますわ。帳簿の試算では、六か月で投資回収、一年後には黒字転換です」


 わたくしは懐から帳簿を取り出し、該当のページを辺境伯に示した。細かな数字の列が、朝日に照らされて浮かび上がる。彼は数字を追い、静かに頷いた。


 開所式の後、領民たちが交易所に集まってきた。パルメシアの商品を珍しそうに眺める子供たち。ひとりの少年がガラス小瓶を光に透かし、虹色に揺れる影に歓声をあげた。香辛料の匂いを嗅いで目を丸くする農婦。「こんな匂い、初めてですよ」と隣の女性に囁いている。その素朴な驚きに、わたくしの指先が帳簿の角を撫でた。数字の向こうにある、こうした表情のために——わたくしは計算をしている。


「リゼル様!」


 声をかけてきたのは、鉱山地区の長老だった。


「交易所のおかげで、うちの鉱石が直接売れるようになりました。仲買を通さなくていいのが、こんなに違うとは」


「鉱石の品質表示も始めましたからね。等級が明確になれば、買い手も安心して高値をつけます」


 長老が深々と頭を下げた。


「あなたが来てから、この領地は変わりました」


 帳簿の女——宮廷ではそう呼ばれた。嘲笑を込めて。


 ここでは、同じ言葉が違う意味を持つ。帳簿で領地を変えた女、と。


 わたくしは長老の背を見送りながら、帳簿を胸に抱え直した。革の表紙がほんのり温かい。数字の積み重ねが、人の暮らしに届いている。その実感が、インクよりも濃くわたくしの指先に残った。


 夕方、執務室に戻ると、蝋燭の灯が揺れる室内に辺境伯が待っていた。窓から差し込む夕暮れの光が、机上に積まれた羊皮紙の束を琥珀色に染めている。インクの匂いと、紅茶の湯気がかすかに混じっていた。


「隣接するフォルスト男爵領から、書状が来ました」


「内容は?」


「うちの交易路を使わせてほしい、と。見返りに、男爵領内の道路整備を負担するそうだ」


 わたくしは椅子に座り、帳簿を開いた。ペンを手に取ると、指先に馴染んだ重みが落ち着きをくれる。フォルスト男爵領の位置を地図で確認する。


「受けましょう。道路が整備されれば、物流コストが下がります。男爵領を経由して南部への交易も視野に入ります」


 ペンで地図に線を引きながら、頭の中で数字を組み立てる。道路整備の費用、物流の短縮距離、想定される通行量。全てが帳簿の項目として整理されていく。


 辺境伯が頷いた。


「リゼル殿の経済圏が、領地の外に広がり始めている」


「わたくしの経済圏ではありませんわ。アルヴェスト領の経済圏です」


「——同じことだ」


 辺境伯が小さく笑った。その笑みは、以前の武人の硬い表情からは想像できないほど穏やかだった。


 ペンを置き、インクの蓋を閉じた。窓の外では、交易所の灯りが峠道をほのかに照らしている。


 帳簿の数字が、この土地の未来を書き換えていく。一行ずつ、確実に。

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