悪役令嬢が次の獲物を — 噂と擁護
協力契約を結んで一か月。帳簿の再構築は順調に進んでいた。
鉱山の選別工程も導入が始まり、最初の高品質鉱石が王都の鍛冶ギルドに出荷された。買い値は従来の二・三倍。帳簿に新しいインクで書き込んだ数字が、確かな手応えとして指先に残っている。数字は嘘をつかない。
問題は——王都から届く噂だった。噂にはインクの匂いがしない。帳簿の正確さがない。だからこそ、厄介なのだ。
「お嬢様」
マリアが手紙の束を持ってきた。辺境伯の館に設けられた、わたくし専用の執務室。窓からは鉱山の煙突が見える。机の上には新しい帳簿が開いたまま置いてあり、インクが乾きかけていた。
「王都の社交界で、お嬢様の噂が広まっているそうです」
マリアの声が、小さく震えた。
「どんな噂?」
「……『悪役令嬢が婚約破棄の精算に飽き足らず、今度は辺境伯を獲物にしている』と」
それだけではなかった。別の便りによれば、「辺境の鉱山利権を狙っている」「辺境伯の弱みを握って搾取している」「王太子殿下を振って次の標的に移っただけ」——噂のたびに尾鰭がつき、もはや原型がない。
予想通りだ。聖女派の工作だろう。精算交渉で法的に勝てないとなれば、社会的な信用を潰しにくる。帳簿では負けたから、今度は噂で戦うつもりだ。
「それから、聖女エリアーナ様が王妃様の茶会で『辺境の領主が悪役令嬢に騙されている。かわいそうに』とおっしゃったそうです」
わたくしはペンを置いた。帳簿の作業を中断する気はなかったが、マリアの声が震えているのがわかった。手紙の束を持つ指先が白くなっている。目元が赤い——読みながら泣いたのだろう。
「マリア。心配しなくていいですよ」
「でも、お嬢様の名誉が——」
マリアの声が詰まった。この侍女は、いつもわたくしより先に泣く。
「名誉は数字で証明します。噂は数字で消えますわ」
マリアが小さく頷いた。けれどその目はまだ赤かった。わたくしはペンを取り直し、帳簿の続きに戻った。
その日の夕刻、辺境伯が執務室に来た。
「リゼル殿。王都の噂について、報告がありました」
「ええ、わたくしも聞きました」
「それで——」
辺境伯が、一枚の書状を見せた。王都の貴族院に宛てた公式文書だった。封蝋にはアルヴェスト家の紋章が押されている。
「これを送りました。今朝」
辺境伯の机の上に、書き損じの紙が数枚見えた。一枚目には「噂の出所を突き止め」と書きかけて消した跡があり、二枚目には「リゼル殿の人格を——」と始めて線で消してある。感情で書いた文を何度も捨てて、最後に事実だけを残したのだ。完成した文面は、軍人らしく簡潔で、けれど一行一行に抑えた怒りが滲んでいた。
読んだ。
『アルヴェスト辺境伯領は、ヴァルディエン公爵令嬢リゼル殿と正式な経営協力契約を締結しております。本契約は対等な協力関係に基づくものであり、いかなる意味でも婚姻や縁談を前提としておりません。
リゼル殿の領地改革によって、当領の鉱山収益は既に二倍以上に改善しております。この事実をもって、噂の虚偽を証明いたします。
なお、本契約の内容に関する虚偽の風説の流布については、法的措置を検討する用意があることを申し添えます。
アルヴェスト辺境伯 クレイグ・フォン・アルヴェスト』
わたくしは書状を辺境伯に返した。
「……これは、わたくしに相談なく送られたのですか」
声が、自分でも驚くほど柔らかかった。
「はい。すみません、事後報告で」
「いいえ」
——驚いたのだ。帳簿を握る指先が、一瞬だけ震えた。
三年間、王太子殿下はわたくしの名誉を一度も守らなかった。聖女が嘘をつくたびに、殿下は聖女の側に立った。わたくしが弁明する機会すら与えなかった。殿下は詩を詠み、舞踏会で聖女の手を取り、わたくしの名前を呼ぶことすら億劫そうにした。
この人は——事実と数字で、わたくしを守った。書き損じの紙を何枚も重ねて、正確な言葉を選んで。
「ありがとうございます、クレイグ様」
「礼には及びません。事実を述べただけです」
それは——わたくしがいつも帳簿で使う言葉と、同じ意味だった。
辺境伯が少し照れたように目を逸らした。軍人の無骨な横顔が、夕日に照らされている。
「……あなたの帳簿が、この領地を変えている。それは噂で消える類のものではない」
軍人の言葉は短い。けれどその一言一言に、書き損じの紙の数だけの重さがあった。
わたくしは自分の帳簿に視線を戻した。数字の列が、いつもより少しだけ温かく見えた。インクの黒が、冷たい刃ではなく、種を蒔くための土の色に見えた。




