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婚約破棄されたので、お預けした全てを精算させていただきます  作者: 凪乃


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1/10

断罪と帳簿 — 悪役令嬢は泣かない

 王太子殿下の声が、大広間に響いた。


「——リゼル・ヴァルディエン。余はこの場で、お前との婚約を破棄する」


 シャンデリアの灯が、磨き上げた大理石の床に揺れている。蝋燭の炎が何百と連なり、天井画の金箔を柔らかく照り返していた。大広間には甘い花の香りと、貴族たちの纏う香水が入り混じった夜会特有の匂いが漂っている。夜会用の楽団は既に演奏を止めている。ヴァイオリンの最後の一音が消えた直後に、殿下はその言葉を放ったのだ。壁際に並んだ給仕たちの手も止まり、銀の盆の上でグラスが微かに震えていた。百人を超える貴族たちが息を飲み、視線が一斉にわたくしへ集まった。絹のドレスが擦れる音、扇を落とす音、誰かが小さく息を漏らす音——大広間が異様な静寂と微かな衣擦れだけの空間になった。大理石の床に映る自分の姿が、やけに鮮明に見えた。


 横に立つのは、白い法衣をまとった聖女——エリアーナ・フォーシス。涙ぐんだ瞳で王太子殿下の腕にしがみつき、こちらを上目遣いに見ている。その頬を伝う涙は、シャンデリアの光を受けて宝石のように輝いていた。計算され尽くした涙だ。周囲の貴族たちが同情の視線を聖女に向けている。この構図こそが、彼女の望んだ舞台なのだろう。


「リゼル様にいじめられました……わたし、もう耐えられません……」


 嘘だ、と思った。

 けれどもう、それを訂正する気はない。わたくしの言葉が聖女の涙に勝てないことは、三年間の経験が証明している。何を言っても、この宮廷では「悪役令嬢の言い訳」としか受け取られない。


 三年間の婚約期間で、わたくしが学んだことがある。この宮廷で感情は通貨にならない。泣いても怒っても弁解しても、聖女の涙のほうが相場は高い。


 だから今日、わたくしは別のものを持ってきた。


「殿下」


 わたくしは一歩前に出た。靴底が大理石を踏む音が小さく響いた。ドレスの裾がかすかに床を掃いた。背筋を伸ばし、呼吸を整えた。薔薇と蝋の匂いが混じった大広間の空気を、静かに吸い込む。


「婚約破棄、承知いたしました」


 大広間に、ざわめきが走った。抵抗も、懇願もなく、あまりにあっさりと。前列の貴婦人が小さく悲鳴を上げた。王太子殿下が目を瞬かせるのが見えた。聖女エリアーナが、わずかに眉をひそめた——予想していた展開と違ったのだろう。泣き崩れるわたくしを、殿下に慰めてもらうつもりだったのかもしれない。


 次の瞬間、わたくしは革装の帳簿を取り出した。


 使い込まれた表紙。角が少し丸くなっている。濃い茶色の革は三年間の手脂で滑らかな光沢を帯び、背表紙の金文字はかすかに褪せている。ずしりとした重みが、両手に伝わった。羊皮紙と革と、微かなインクの匂い。三年間、毎晩つけていた台帳——婚約期間中にわたくしがヴァルディエン公爵家から王太子殿下へ提供したもの全ての記録。


「婚約を解消されるのであれば、お預けしたものの精算を行わせていただきます」


 帳簿を開く。革の表紙が軋む小さな音がした。指先がページをめくる——羊皮紙の端がかすかに指を撫で、乾いた紙の匂いが鼻先をかすめた。三年分の記録が、ページの間で密やかに息をしている。その微かな音が、不思議なほど大広間に響いた。


 誰も、何も言わなかった。


「——第一項。魔力供与」


 わたくしは読み上げた。淡々と。感情を込めず、数字だけを。


「婚約初年度より、月に一度の魔力転写を実施。三年間、計三十六回。一回あたりの市場換算価値は金貨八百枚。合計金貨二万八千八百枚」


 会場の空気が変わったのがわかった。後方で、年配の侯爵夫人が扇で口元を隠した。隣の伯爵が小声で何かを囁き、その隣がまた別の誰かに耳打ちする——波紋のように、数字の衝撃が広間を走っていく。


 金貨二万八千八百枚。中規模の騎士団を二年間維持できる金額だ。それを——わたくしは、婚約者としての義務だと思い、三年間、一度の不足も遅延もなく提供し続けた。そしてその対価は、感謝の言葉一つすらなかった。


「第二項。政治的仲介」


 ページをめくる。指先に、羊皮紙のかすかなざらつきが伝わった。一枚一枚に、わたくしの夜更かしの記録が詰まっている。


「ヴァルディエン公爵家による北部三領との調停。東部国境の関税交渉への助力。宮廷内の派閥調整における人員提供。これらは全て、婚約を前提に行われた政務支援です」


 読み上げるたびに、会場の温度が下がっていくのがわかった。隣国との貿易交渉の下準備。反乱懸念のあった地方貴族への根回し。社交シーズンの外交接待の一切——全て、わたくしと、わたくしの家が引き受けていた。


 聖女が殿下の腕を強く握った。その顔から、先ほどまでの余裕が消えている。涙はもう流れていない。数字の前では、涙は武器にならないと気づいたのだろうか。


「これらの政治的資産の市場価値について、第三者鑑定を三件取得しております」


 帳簿から、折りたたまれた鑑定書を取り出す。三通。それぞれ異なる鑑定士の署名と印章がある。蝋印の赤が、シャンデリアの灯に鈍く光った。一通ずつ、テーブルの上に並べた。


「最低見積もりで、金貨十二万枚です」


 大広間の誰かが、喉を鳴らした。壁際に控えていた侍従の一人が、思わず一歩後ずさるのが見えた。


 王太子殿下の顔色が、明らかに変わっていた。先ほどまでの裁定者の余裕は消え、唇が僅かに引き結ばれている。


「第三項——」


「待て」


 王太子殿下が声を上げた。けれどわたくしは止まらない。


「第三項。社交界の運営支援」


 ページをめくった。止まる理由がない。これは感情の問題ではなく、対価の問題だ。数字は、命じられて黙るようなものではない。感情で相場が動く宮廷で、唯一揺るがないのが帳簿の数字だ。


「宮廷舞踏会の企画運営、夜会の席次管理、外国貴賓の接遇——これらの実務は、過去三年間、実質的にヴァルディエン公爵家が担当しておりました」


 宰相が席から身を乗り出すのが、視界の端に見えた。その老練な目が鋭く細められている。


 もちろんだ。宰相閣下は知っている。誰がこの宮廷の社交を実際に回していたか。


「これらが停止した場合の損害想定は——」


「——リゼル」


 王太子殿下が、初めてわたくしの名前を呼んだ。三年間の婚約で「リゼル」と名を呼ばれたことが何度あっただろう。数えるほどしかない。いつも「ヴァルディエン嬢」か、あるいは名前すら呼ばれないか。


「それは——脅しのつもりか」


「いいえ」


 わたくしは帳簿から目を上げた。殿下の顔を、まっすぐに見た。


「事実の整理です。お預けしたものが何であったかをご確認いただいているだけですわ」


 大広間に、沈黙が降りた。シャンデリアの蝋燭が一本、ぱちりと音を立てて弾けた。それだけが、この空間に許された音のようだった。


 聖女が何か言おうとして、口を開いた。けれど言葉が出てこないようだった。唇が震え、視線が帳簿とわたくしの間を行き来している。この場の空気を、彼女の涙では動かせない。帳簿の数字は、涙で消えない。


「——本日の精算案件は、まだ十七項目ございます」


 わたくしはそう告げた。帳簿は分厚い。まだ最初の三項目しか読み上げていない。残りのページが、わたくしの指の下でずしりとした重みを主張していた。


「全項目の精算総額は、速報値で——」


 一呼吸だけ、間を置いた。大広間の全ての視線が、わたくしの唇に集中しているのがわかった。


「——金貨六十三万枚。利息を含めますと、さらに」


 王太子殿下の顔から、完全に血の気が引いた。


 金貨六十三万枚。王国の年間予算の約八分の一に相当する。大広間のあちこちから、抑えきれない呻きのような声が漏れた。壁際の老貴族が杖に縋り、前列の夫人たちが扇の陰で顔を見合わせている。


 わたくしが三年間、婚約者として当然のように差し出していたものの——対価だ。


「本日中の全項目読み上げは難しいかと存じますので、正式な精算会議の場を設けていただけますでしょうか」


 帳簿を閉じた。革表紙がぱたりと鳴った。その音が、判決を下す小槌のように大広間に響いた。


 わたくしは帳簿を脇に抱え直し、背筋を伸ばした。ドレスの裾が床を掃く音だけが、静寂の中に響く。聖女の顔は蒼白で、王太子殿下の傍らに立ちながらも、その手はもう殿下の腕に触れていなかった。


 大広間は凍りついたまま、誰も動かなかった。

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