02. 製図班特製、重ね掛け魔術陣はいかが?
魔術陣製図班の一日はいつだって変わらない。
異動して暫く、そこでノアが理解したことがある。
彼のように早く出勤してくる者は一切おらず、大半がギリギリの出勤なこと。
そして、誰もが適度な距離を置いて、自分の仕事をすることだ。
異動した当初は、ノアの異動理由について何か言ってくる者がいるかもしれないと身構えていたが、それは杞憂に終わっている。
誰もが出勤すると適当に話しながら、コルクボードに貼り出された魔術陣製作の依頼書を適当に取り、実に面倒な方法で魔術陣を描き続ける。
昼の休憩の鐘が鳴れば早々に出ていく者もいれば、混雑する時間を避けるようにして後から出る者もいた。
製図班としての方針なのか、それで注意をされることはない。
休憩だって適当で、ノアが慣れるまではフレックに声をかけてくれ、食堂にお茶を取りに行ったりしていた。
始業と終業の時間、それとノルマが守られていたら、特に注意はされないのだと気づいてからは、気を遣わずに部屋を出て行くようになったが。
今日も就業の鐘の音に押されながら入ってきた面々が、今日のノルマを終わらせようと、他部署から届けられた依頼書へと手を伸ばす。
ここに来て一ヶ月経ったノアも、慣れた手つきでコルクボードに貼り出された依頼書から、得意な風属性の魔術陣の依頼を選ぶ。
依頼は王宮庭園課からで、広い芝生に水を散布するために使う迷い風の魔術陣を依頼したものであって、既に数度こなしているから楽な作業だ。
そして最近まで世話役をしてくれていたからか、今ではフレックが隣に座るのも当たり前になっている。
「今日の依頼は随分と少ないよね。
これなら定時よりも前に終わりそうだよ」
貼り出された依頼書の枚数に、ご機嫌な様子を見せるフレックの手には毎日やってくる厨房の火起こしの魔術陣依頼。
あれ以来、フレックがノアに触らせなくなった依頼だ。
どうやら一度失われた信用は、まだ回復していないらしい。
と、ノアの隣にドカリと騒々しく座る男。
年の頃は三十を過ぎて少しといったところだが、剃る暇も無かったらしい不精髭が、本来の年齢よりも若々しさを奪っている。
スタン・ハーダー。
どこからどう見ても、ノアからすればおっさんである。
この部屋では古参であるらしい彼は、「おはようさん」と言いながら、文字数の少ない依頼書をヒラヒラとさせて、青のインク瓶に手を伸ばしている。
青のインクということは水属性の魔法だろう。
清掃用の浄化水だろうかと考えながら、自分の仕事を進めようと、ノアも緑のインク瓶を手にする。
今日は依頼書がいつもの半分程度なので、大っぴらに休憩ができそうだった。
今朝貼り出されていたメニュー表には、ナッツとデーツのパイが隅の方に小さく書かれていた。
パイは具材を問わず、ノアの大好物だ。
果物を詰めたパイが一番だが、どれも違って、どれもいい。
昼休憩は早めに行こうかと呑気に考えていると、不意に荒々しい足音が部屋の外から聞こえ、そして製図班室の部屋の前でピタリと止まった。
すごく嫌な予感がする。
走ってきたということは急ぎの用事で、当然、納期だって短いに違いない。
この一ヶ月で既に一度、うっかり全ての魔術陣を水浸しにして台無しにしたと、洗濯室の使用人達が泣きついたときの地獄を体験済みだ。
何かがぶつかる音と乱暴に開かれる扉。
普段よりも分厚い依頼書を持った騎士が、焦りを隠すことなく部屋に駆け込んできた。
「本日、急な中規模討伐が決定したため、短納期の魔術陣を依頼する! 期限は明日の早朝まで!」
魔術陣製図班室の面々の手が止まること数秒。
その後に起きた非難とも嘆きともとれる叫びを一身に受けながら、騎士は手近な台に依頼書を置くと、来た時と同じように走り去っていった。
その顔が少しだけ罪悪感を覗かせていたことなど、製図班の人々にとってはどうでもよいことだ。
目の前に積まれた悪夢をどう捌くかを考えるので、手一杯だったのだから。
「あれ、今日はさすがに徹夜を覚悟した方がいいだろうなあ」
いつまでも終わらぬ作業の節目すら見えないままに食堂に来たのは、ノアとフレック、それからスタンだ。
残りの面子は、更に遅れて休憩を取ることにしたらしい。
「早めに取ると後が辛い」というのが言い分だったから、おそらくは仮眠すらできないと判断したのだろう。
「普通なら三日かけて用意するものだっていうのに、お偉いさん達はそういったことを欠片も考えないからなあ」
ミートローフを豪快な一口サイズに切り分けているスタンが言えば、横で玉子サンドを食べ始めていたフレックが溜息をつく。
「それだって結構ギリギリですよ。一体どうして急な討伐なんて……」
何か事情はあるのだろうが、討伐に参加しない身の上では、そういったことは一切伝わってこない。
「部屋に戻る前になんか軽く摘まめるものを用意してもらおうぜ。どうせ今日は帰れっこないからな、小腹を満たせるものが必要だろう?」
サラミにチーズ、フリッターだと指を折り始めるスタンを尻目に、ノアは肉と野菜を詰めた揚げパンにかぶりつく。
火傷しそうな熱さに、慌てて水を飲んで流し込んだ。
スパイスが効いた中の具材は少し味が濃かったが、家では食べられないこの味が好きなのだ。
ちなみにパイは無かった。
既に時計は正午を大きく回っている。
普段ならこの時間に食堂を利用する者は少ないのだが、今日は討伐を任命されたところも準備に追われていたのか、食堂の席が半分も埋まっている状況だ。
騎士の姿もチラホラ見える。
今回の討伐は騎士団がメインとなるのだろう。
獣の集団による小規模な街の襲撃か、それとも魔獣の巣の発見か。
どちらにせよ火急の件なのだから大事だろう。
緊張した面持ちで交わされる密やかな会話の内容は聞こえないが、今のノアが気にすることではない。
大量の魔術陣をいかに効率よく製図できるかだけ。
今回の討伐には魔術士も何人か参加するらしいので、わざわざ手で描く必要はなく、ノア自身の魔術を注いで魔術陣を作成しても構わない。
ただし、そこまで魔力が足りるかの問題もあるので、結局のところ、ある程度は自らの手で描く必要がある。
考えるだけで途方もない作業にウンザリする。
まだ冷め切らない揚げパンを再び齧ろうとしたノアだったが、不意に思わぬ声がかかり、開いた口のままで視線をそちらに向けた。
「よお、久しぶりな。噂の天才様はどうしているだろうなあって噂をしていたら、本当に見かけるなんてな」
そこに立っていたのは三人の青年だ。
誰もが小馬鹿にしたような笑みを浮かべてノアを見ている。
魔術士等の四等魔術士であることを知っているのは、最近まで魔術塔にいたからだ。
そして顔も合わせたくない相手でもある。
「ほらやっぱり、天才様はどこでだって面の皮厚く生きていけるんだよ」
「違うだろ。天才じゃなくて、天災だってば」
思わず椅子を蹴る勢いで立ち上がったが、口を開けども返せる言葉が思いつかない。
ノアが最後に参加した集団討伐戦で、死者は出さなかったとはいえ、味方に甚大な被害を及ぼしたのは事実だ。
ただ睨むだけのノアに気を良くしたのか、青年たちのかしましさは止まらない。
「はた迷惑な損害を出したお前と違って、俺達は魔術士としての訓練の一環で、これから騎士団と一緒に討伐に行くんだぜ?」
「そうそう。俺達含めて数人だけ選ばれたんだ」
そう自慢する彼らの顔は、誰もが誇らしげで。
同時に酷く傲慢で醜いと思ったのは自分だけあろうかとノアは考え、そしてかつて自分もこんな顔をしていたのだろうかと疑問を抱く。
「まあ、天災様は役立たずなんだから、せめて火起こしの魔術陣でも書いて貢献していろよ? 俺達が使ってやるからさ」
青年達は言うだけ言ったら気が済んだのか、討伐の話を士ながら立ち去っていった。
ただ睨むだけのノアは、周囲から冷静に見えただろうか。
それとも何も言い返せない負け犬だと、馬鹿にされているのだろうか。
わからないが、何もかもが刺さる言葉に立っているのが精一杯だった。
と、彼らの背を見送るノアの肩に、重みがかけられる。
重みのある場所を視線でたどれば、スタンの横顔があった。
「魔術塔の奴らときたら、相変わらず気に食わねえな」
視線がノアへと向けられるも、同意を求められたのかわからず瞬きを返すばかりだったが、スタンは気にした様子もない。
「あいつらは焚火なんかの火を起こすときに、お前の作った魔術陣を使って笑うだろうな。何でと言ったら簡単で、そんなもんお前が描いたものを馬鹿にしたいからだ」
スタンの言葉に、無意識に唇を噛む。
そんなノアを見て、スタンがニッと笑った。
「それを逆手に取って、仕返ししてやろうじゃないか」
さっさと部屋に帰るぞと言われ、急いで揚げパンを胃に収めている間に、フレックが食堂でパンやチーズ、ドライフルーツを詰め込んだ籠を用意してくれていた。
それから瓶に詰めた果実水と、持ち手の無い木製のカップ。
スタンの機嫌が大変に良いように見える。
これからする仕返しとやらが楽しみなのだろうかと思うノアは、半ば引き摺られるようにして製図班室へと連れ戻されることになった。
お陰で残りの揚げパンの味をほとんど楽しむことなく、水で流し込むことになったが。
部屋に戻ってすぐにスタンが手にしたのは、黒と白のインク瓶だ。
支給される籠の中のインク瓶は彩り豊かだが、それには相応の理由がある。
魔術はルールと論理を構築する必要なのが大前提だが、それでも人々に必要なのはイメージと誘導だ。
特に魔術を使わない人から見た魔術陣は、それがどんな意味を持つのかなど理解できない。
だからこそ、インクの色で印象付けるようにとされている。
火を扱う魔術陣には赤、水を扱う魔術陣には青といった具合で、魔術を使わない者には読み解けない魔術陣も色で判別つける。
勿論それだけではなく、魔術陣を使用した際の対象を決める役割だって持っている。
数あるインクの中で、黒と白の色は一線を引いたものとなる。
なにせ黒は人、白は元素を問わない自然を対象にするための色なのだから。
籠から火起こしの魔術陣によく使う小さなサイズの紙を引き抜いて、すぐに黒のインクに染まるペン先を紙の上へと移動させる。
ノアが何をするのかと問おうとしたが、すぐにスタンの魔力が注がれたインクが紙へと滑り落ちて、縦横無尽に紙を駆け巡りながら小さな幾何学模様と古代文字を生み出していく。
ノアとフレックが見ている短い時間の間に、つむじ風の魔術陣が完成した。
これを発動させれば、使用した人を狙う魔術になるだろう。
そんなもの、魔術士であれば誰だってわかることだ。
仕返しなんて言ったから何をするかと思えば、と呆れた気持ちでしたが、そんなノアを気にせずに、スタンは次に白のインクをペン先に掬い上げて、先程の魔術陣へと移動させる。
訳が分からなくて言葉も挟めずに見ていれば、白の軌跡が黒の魔術陣を覆っていく。
そうして出来上がったものは、よくよく見れば黒のインクが僅かに白を透かして見えるかもしれないといった具合の魔術陣だった。
それをスタンはノアの前に寄越して、火起こしの魔術陣を重ねて描くように言ってくる。
本当にスタンの行動の意味がわからないと思ったが、フレックの苦笑いに何かあるのだろうと検討はつけて、魔力を注いだ赤のインクを落とした。
出来上がったのは余程注意深く見ない限りは、単なる火起こしの魔術陣だ。
「よし、出来上がったな」
ノアが描き上げた瞬間に横から引き抜き、透かすように照明へと掲げながら、スタンが満足そうに顎をさする。
「へえ、いい出来じゃないか。これならノアが描いただけだと思うだろう」
下に描かれた魔術陣に気づかせない為、敢えてノアの魔力を多めに流した魔術陣。
小さな紙の端を摘まんでヒラヒラとさせたスタンが、完成した他の魔術陣に紛れ込ませる。
「おっさん。いい加減、どういうことなのか説明しろ」
とうとう我慢できなくなったノアが詰め寄れば、降参と言わんばかりに両手を上げたスタンが含みのある笑みを浮かべる。
「今は他の奴らが出払っているから教えてやるよ」
そう言ったかと思えば、今度は我慢できない様子で声に出して笑い始めてしまう。
説明できなくなったスタンを置いて、代わりに口を開いたフレックだ。
「ハーダーさんが作ったのは、殺傷能力のない炎が風に飛ばされる魔法です」
フレックが持っているペンで赤のインクを指す。
「あの魔法陣は先ず、一番上にある火起こしの魔術陣で火を発生させます。そして次に白で描いたつむじ風の魔術陣が起こした火の大半を周辺の大気へと散らして、火の勢いを弱めます」
理論上はそうなるだろう。
学校でも魔術陣を重ねて描く場合の効果やリスクを学んでいる。
「そして、最後に黒で描いたつむじ風の魔術が、魔術陣の使用者を狙うわけですが」
そこで言いにくそうに口を閉じる。
「想像するだけで笑い死にそうだったが、はは、黒の魔術陣は殆ど塗りつぶされて殺傷能力なんてほとんどない。そこらへん、白の魔術陣の調整次第だけどな」
ようやく笑いの収まってきたスタンが説明をしてくれるようだった。
「まあ、つまりはなんだ。あの魔術陣は俺の超技術によって、服だけ燃える」
服だけ、という声が漏れたのは仕方ないだろう。
ノアが凝視する先、スタンがしていること自体が下らないのも一つだが、単純な魔術陣に対して細やかな調整ができるのも異常だからだ。
そろりとフレックに視線を移せば、「怪我とかはしないので大丈夫ですよ」と言われる。
「本当に、服だけを?」
たかだか服を燃やすだけと思うが、それがどれだけ難しいことか。
フレックの言葉から実践した過去が窺え、同時に成功した結果があるのだと知る。
そんな繊細な調整をした魔術陣を描ける人間なんか知らない。
天才と言われ、魔術陣構築の授業でも高得点を取っていたノアでさえ、魔術陣の威力を匙加減でも扱うように調整して、望むだけの魔術効果に絞るなんてできやしない。
というか、したこともないのが普通だ。
「あたま、おかしいだろ」
変人と何かは紙一重。
一切他で活かされることのない才能だが、誰もが真似しえない才能でもある。
それも、平たくいえば天才に近い部類の。
才能の無駄遣いをして、やることが服を燃やすこと。
スタンは「もっと作ろうぜ」と新しい紙を手にしている。
自身の技術の異質さに気づいているのか、それとも気づいていないのか。
ただ、悪戯の内容のくだらなさが、後で怒られても厳しい処罰になることはないと想像できるギリギリのあたりであって。
これも狙ってなのかと考えたが、最終的に服が燃えるというくだらなさにノアは考えることを止め、スタンが黒と白を重ねた魔術陣の紙に、赤い火起こしの魔術陣を描き始めた。
後日、魔術塔から下着まで燃えて真っ裸になったと、魔術士達の抗議書が届いた。
だが、製図班班長であるヴァージニアは、練習用の紙が混じっていたことの謝罪の言葉を書きつつも、続く返事が魔術塔の魔術士が複数の魔術陣が描かれたことに気づかないなんて大丈夫かという、しっかり煽り返す内容だったのは誰も知らない。




