【IOF_82.log】5日間戦争
お疲れさまです。
警視庁異世界警察署刑事組織犯罪対策生活安全課少年二係巡査長正村素乃子です。
勤務中異常なし。
さあ、やるか。
女の子がこんな環境で働いているのは我慢できない。
誰かのせいにして糾弾する時間がもったいない。そんな時間があるなら手を動かす。
5日で勝負すると言った。
まあ見てろ。
衛生改善の5日間戦争だ。
【1日目】
ひたすら桶を抱えて娼館の中を往復する。
水を床に撒き、膝をついて擦る。
雑巾が黒く染まっても替えて続ける。
背後から女の笑い声が聞こえる。
「……汚い」
そんなもの耳に入れる必要はない。
短く呟き、また布を絞った。
【2日目】
水桶に酢を垂らす。酸の匂いが立ちのぼる。
布を浸し、床を拭く。
木目が明るく浮かび上がる。
娘たちの視線を感じる。
黒髪の娘が近寄ってきた。
「……それは?」
と小声で問う。
「……清める」
言葉はそれだけ。
彼女たちは沈黙し、わたしは布を動かし続けた。
【3日目】
手が荒れ、皮膚が裂ける。
血が滲んでも、水に手を沈める。
桶を並べる。水に酢を数滴ずつ垂らす。
「……ほんの少し、これで足りる」
言葉はそれだけ。
疑わしげに覗き込む娘に私は自ら布を浸し、寝台を拭いて見せた。
「臭いが……少し楽」
誰かが呟く。
私は頷く。
「……拭く……あそこを。仕事の前と、後。必ず」
娘たちは黙って布を取り、動き始めた。
その手は、昨日より確かだった。
寝具を外へ運び、日差しに晒す。
布団を叩く音が響く。
若い娘がそっと近づき、雑巾を手にする。
「……ここも、ですか」
私は拭いていた寝台を指さす。
「……そう」
それ以上は言わない。
言われなきゃやらない奴は相手にしない。
娘は俯きながらも手を動かし始めた。
【4日目】
数人が並んで布を浸している。
酢の匂いが広がり、空気が澄む。
笑い声が混じる。
私は窓を大きく開け放ち、振り返る。
「……よくなったね」
その一言に、娘たちは顔を見合わせ、さらに動きを早めた。
【5日目】
館中が動いている。
桶を運ぶ者、布を干す者、灰を撒く者。
埃が舞い、光が差し、館は息を吹き返す。
娘たちの頬は紅潮し、笑みが零れる。
私はただ、黙って肩で息をしながら立ち尽くす。
誰かが「綺麗になったね」と言う。
私は頷いた。
「……これでいい」
短く答え、額の汗を拭った。
「あとは、石鹸で手を洗う。ことの前、後、食事前、お花摘みの後、とにかくこまめに石鹸で手を洗う」
「せっけん?」
娘が首を傾げる。
そうか、石鹸がないのか。
なら作ろう。
掃除はこんなものか。
「お待たせしまし……わっ、正村さん、この手、どうしたんですか?!」
戻ってきた署長が会うなり絶句する。
「ただのあかぎれです」
「あかぎれは只事じゃないです! あー、こんなに……血も出てるじゃないですか」
署長は人のために泣けるのか。やっぱ惚れる。
「約束は守りました」
「無理はしないでくださいと言ったのに……でも、ありがとうございます。すごくきれいになりましたね。なにより明るくなりましたし、風通しがいいです」
抗生物質は手に入ったのだろうか。
「日本政府から抗生物質5万錠を入手しました。幽霊さんが往復してくれて助かりました。政府からは男性用避妊具の提供も打診されました。予防や感染拡大防止には有効だと思ったのですが、こちらの産業レベルでは作ることができないと思い保留にしてきました。大量に消費するものなので、日本から継続的に持ち込むのは現実的でないと判断しました」
コンドームは強力だけど、支援に依存させるのはよくない。同意だ。
「マザー、現場でできる衛生管理はこれまで正村がご覧に入れた対策でかなりの効果が期待できます。手洗い用の石鹸は、近いうちにお届けします。あとは、国の仕事になるので私たちはこれで失礼します」
「たった5日間でこんなにきれいにしていただいて……なんとお礼を言えばいいのか分かりませんわ。本当にありがとうございます」
涙ぐみながら感謝するマザーの手もあかぎれだらけだ。
マザーは私の戦友だからね。
この後、私は娼館の娘たちから「清めの神」として崇められることになる。
なんでよ?
私たちはトラックで王城に押し掛けた。
署長の顔パスで難なく門を潜ることに成功。
今日は、王様ではなくクロダさんに会う。
ここからのことは役人がやるべき仕事だからだ。
「クロダさん、ご紹介いただいた娼館で衛生改善の実地指導をしてきました。酢を希釈して消毒に使うことや換気、そして手洗いを重点的に指導しました」
署長が指導内容の概要を伝える。
「急な依頼にもかかわらず、ご対応いただきありがとうございました。酢を希釈すると消毒液として使えるのですか?」
「はい。それは正村からご説明差し上げます。正村さん、いいですか?」
もちろんです。
「食用の酢1に対して沸騰後冷ました水を20から30の割合で希釈します。その水を使って拭き掃除すると建物が消毒できます。行為前後に水を浸した布で会陰部を拭くと性病予防にも効果があります。会陰部への刺激が強いと感じたら酢の割合を少なくしても問題ないです」
「それは貴重な知識ですな。あと、手洗いということですが……」
「手洗いは衛生の基本です。何かをしたから、これから何かをするからということに限らず、とにかくまめに石鹸を使って手を洗います。これだけで性病に限らず、いろいろな疫病予防にかなり強力な効果を発揮します」
「事実として、わたくしたちの国でもつい最近、疫病が大流行しました。その予防策として手洗いが推奨されたのですが、その結果、流行していた疫病以外の患者数まで激減したというおまけが付いたくらいです」
署長、ナイスフォローです。惚れ惚れします。
「それほどまでに手洗いは効果があるのですか。子供でも簡単にできる。これは広めるべきですな。手洗いの際に『セッケン』なるものを使うとおっしゃいました。セッケンとは、どのようなものでございましょうか」
やっぱり石鹸がなかった。
「具体的な作り方を今ここでご説明することはできません。ですが、特別な材料を使わずに作れます。一度、署に戻って試作してみます。製造に成功したらわたくしどもで販売するお許しをいただけますか?」
これは大商いの臭い!
「それはもちろん。なんなら製造方法の権利を国に登録して権利使用料を徴収することもできます。直接販売するか、権利使用料を得るか、お好きな方をお選びください」
「そのような制度があったのですね。確かに権利使用料は魅力的です。不労所得ですから。でも、今考えているのは、わたくしどもで工場を建て、そこで生産する方法です。工場を建てれば、そこに雇用が生まれます。そこにこの国の方、特に娼館を退いたあとの娘さんたちを雇うことができれば、今の状況を少しでも改善できるのではと考えた次第です。娘さんたちも、自分たちがいた娼館のためになる仕事ができるのはモチベーションにつながると思うのです」
「そこまでお考えとは……クロダ、感服いたしました」
署長ですから。当然です。
「署長、このあと役人にやって欲しいことをお願いしてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。クロダさんもよろしいですか?」
「もちろんですとも」
許しを得た私は、今後、国として取り組んで欲しいことを説明した。
具体的には公娼制度を設けて、国としてきっちり管理するというものだ。
やることを挙げていくときりがない。とりあえずすぐにできそうなところから。
1 娼館を届出又は許可制にして経営主体を明らかにする。
2 娼婦名簿を備え付ける。
3 年少者を客と接する業務に従事させることの禁止
4 役人の立入及び指示命令権を制度化
5 強制労働や監禁的管理の禁止と監督の強化
6 これらの制度又は指示命令に従わない場合の罰則の制定
「すぐにできそうなこととおっしゃいますが、これだけのことをすぐに実行するのは少々骨が折れましょうな」
「折れた骨は接げばいいんです」
「これは手厳しい」
クロダさんが額に手を当てて天を仰ぐ。
「わたくしからは、最後の6番目、罰則の制定はぜひお願いしたいです」
「と申しますと?」
「いま、オヤシーマ王国での犯罪者の処罰はどのように行われていますか? 具体的には、犯人と犯罪を吟味する人と、罰を科す人が分かれているか、ということです」
「分かれてはおりませんな。国であれば国王が尋問して罪の存在と量刑を決します」
「なるほど。つまり、捜査する人と罪を裁く人が同じということですね」
「その通りです」
「それだと、有罪を前提とした取調べが行われます。裁く人が取調べも行っているので、自分の判断を自分で覆すことはしません。つまり、ひとたび捜査の対象になってしまうと、ほぼ間違いなく有罪が確定してしまうのです」
「なるほど。犯罪の嫌疑がかけられた時点でその嫌疑が間違い、つまり濡れ衣であっても途中で是正されることがなく有罪、そして処罰まで進んでしまう……これはうまくありませんな」
「はい。つい最近、オーメ領でも無実の人が嘘の証言で罪を負わされそうになった事件がありました。これは、たまたまわたくしどもが関与することで事なきを得ましたが、そうでなかったら間違いなく有罪にされていたことでしょう」
「無辜の民が罪を着せられるようなことがあってはなりませんな」
「あと、何をしたらどのような罪になってどれくらいの罰を受けるのか、これも事前に決めておくといいです。そして、全国民が知ることのできる方法で公布するのです。それによって、罪を犯そうとする人への抑止力になりますし、裁く人による無茶な裁量を防ぐこともできます。そうですね、そこまで考えたのならもう少し先に進めたいところです」
「と申しますと?」
「捜査機関と裁く人を分けます。今は、国王がどちらも行っていると聞いています。これを、たとえば国王は捜査はやるが、裁きは別の人又は機関が行うようにします。先ほどお話をしたように事前に罪と罰が決められていれば、捜査と裁きを分けても不都合はありません。ちなみに、わたくしの国では、裁きを『裁判所』という機関の裁判官が行っています。裁判官は、国王から任意に罷免されない制度にする必要もあります。勝手にクビにされる制度では権力を分けた意味がありません」
「ほほー、ニッポンコクというのは、素晴らしい思想をお持ちなのですね。ふと考えたのですが、裁判所という制度はそれぞれの領地でも導入できるような気がいたします。フクハラ様はいかがお考えになりますか?」
「まったく同感です。オヤシーマ王国でそれを実施するのであれば、領地での裁判を第一審とします。その裁判で罪を追及する側と裁かれる側の両方が納得すれば結審です。片方若しくは双方が納得しなかった場合は国の裁判所に上告するという制度はいかがでしょうか。国王の直轄地だと一度の裁判で決まってしまうという難はありますが、そこはまあ目をつぶってもよいかと」
「おお! 実に合理的! これは、さっそく国王に進言して制度化いたしましょう!」
署長、ちょっと急ぎすぎです。
でも、クロダさんが乗り気なので、ひょっとしたら実現するかも。
それにしても、娼館の改革から三権分立と三審制の種まで蒔いてしまうとは。舌を巻いてしまいます。惚れた。
このことをきっかけに、オヤシーマ王国では明文の法律が作られるようになった。
私のあかぎれが報われたかな。




