創作するということはどういうことか?
私の名前は還木ダン(かえるきだん)。 私は長い物語を書くのが苦手だと感じている。本を読むたびに、「こんなに長い話を自分で書くなんて無理だ」と思ってしまう。しかし、長ければ良いというわけではない。冗長で退屈な作品もあるし、有名な本であっても、その魅力を理解できないことがある。それは、私の理解力が足りないせいなのかもしれない。
それならば、短くても分かりやすく、面白い物語のほうが良いのではないか——そう思うようになった。そこで、私は短くて魅力的な物語を書こうと決意した。しかし、いざ書こうとすると、何も思い浮かばない。ChatGPTにお題を考えてもらっても、そこからうまく展開を広げられない。自分で少し話を書いて行き詰まると、続きをChatGPTに頼ってしまい、結果として後半はすべてAIが書いたものになってしまう。そのせいで、「何のために小説を書いているのか?」と考え込んでしまう。しかも、ChatGPTはなかなか良い作品を作るので、ぐうの音も出ない。
私はいつも電車の中で小説を書いている。スマホを使って執筆しているが、スマホでの執筆は苦手なため、思うようにスラスラ書けない。休みの日にはパソコンで書くが、電車の中では、立っていても座っていても、隣の人がのぞいているのではないかと不安になってしまう。そのため、隣に人がいるときは小説を書くのをやめ、本を読むことにしている。本当は誰も私のことなど気にしていないのだろう。それでも、「見られているかもしれない」と考えるだけで、思ったことをスラスラ書けなくなり、結局、小説を書くのをあきらめてしまう。
仕事終わりは疲れていて、頭がぼーっとしてしまう。そのため、電車の中で小説を書くのは難しい。結局、小説を書けるのは行きの電車の中だけだ。
私はChatGPTに文章を添削してもらっている。自分の文は、添削してもらわなければ読者に伝わりにくいと思うからだ。しかし、時にはChatGPTの添削したものを、自分でさらに修正することもある。私の伝えたいことが、AIによって削ぎ落とされてしまうことがあるからだ。私にとっては大事な部分も、AIには不要と判断されることがある。だからこそ、自分の手で修正する。ChatGPTは、私にとって編集者のようなものだ。
思ってもいないことを書くということは、なかなか難しい。私は、人の考えていることを想像するのが苦手だ。
休日はパソコンで小説を書いている。やはり、パソコンのほうが書きやすい。それにしても、物語の終わりをどうするかもなかなか難しい。終わりはどうすれば良いのだろう?無理やり話を終わらせることもできる。そもそも、その物語の主人公の問題を解決させることが出来れば物語は終わるだろう。しかし、問題全てが解決することはあるのだろうか?
結局、物語を書いたところでその主人公の問題が全て解決してしまうということはないと思う。
自分のために小説を書くのか、それとも読者のために小説を書いているのかという問いすらよく分からない。
創作するということはどういうことだろう?