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「悪魔祓いの樹についてご存知ですか?」
レジカウンターにマルマンスケッチブックB5を置くと若者は言った。制服姿、通学用と思われるリュックを背負っている。高校生だろう。
「時間がないんです。このお店、謎を解いてくれるんですよね? HPで見ました――」
「おかけください」
すかさず我が相棒、来海サンがレジ脇に置かれた青と黄色の椅子を指し示す。「どちらになさいます?」
「じゃ、青を」
若者はゴーギャンの椅子を選んだ。浅く腰掛け、堰を切ったように話し始める。
「僕の名は日浦青といいます。僕が迷い込んでいる迷路から僕を救い出してください。そもそもの始まりは僕が小2だった頃……当時の僕はチビでやせっぽっちで泣き虫、いじめられっ子でした」
とてもそうは見えない。目の前の日浦君は身長188はある。細身ながら筋肉質で何処から見てもアスリートタイプ。率直に言葉にしてそれを伝えると日浦君はうつむいてフッと笑った。
「それは多分、僕がかけてもらった魔法がまだ解けていないせいです」
顔を上げ、話を再開する。
「当時僕は売り出し中の新興住宅地の一画に住んでいました。まだ家もまばらで周囲には小さな公園がいくつか、それらを繋ぐ遊歩道――緑道とかいう名がついてたっけ。この道が僕にとってとてつもなく恐ろしい道でした」
ぐっと身を乗り出す。
「いつも数人のいじめっ子グループに追いかけられて帰る道だったからです。毎日僕は言い返すこともできず、ただただ涙をこらえて全力疾走で駆け抜けました」
暫しの間。
「いや違う、結局、途中で転んで追いつかれ、大声で泣き出す。そこまでが様式美。いじめっ子どもはそれで満足して僕を置いて意気揚々と去って行くのです。その日も、そこまでは同じ。どんよりした冬空の下、道に突っ伏して号泣している僕に突然、声が降って来ました。
『オイ!』
『?』
吃驚して顔を上げると真横の植え込み――高さは1メートルほど、ささくれ立って細い茂みの陰から男の子が飛び出してきました。髪はボサボサ、僕よりもさらにガリガリのやせっぽっち、目だけがキラキラ輝いています。ちょうど毎晩母が読んでくれる北欧の童話に出て来る小鬼みたいな感じ」
「どうぞ、先を続けてください」
思わず聞き入っていた僕と相棒、慌てて先を促した。
「『いい走りだ! 気に入った! 俺と一緒に特訓しようぜ!』 忘れもしません。それがその子が僕に言った最初の言葉でした。よく見ると、その子はサッカーボールを抱えています。『あ、俺の名はリオ。サッカー大国の都市の名さ。いい名だろ? 父ちゃんがつけてくれたんだ』……
苗字は知らない、学校で会ったこともない、歳は同じだと言ってた。でもそんなことはどうでもよかった。重要なのは、その日から僕の帰り道が一変したこと。いじめっ子どもに追いつかれないよう全速力で駆け抜けるのは同じ。茂みの後ろにリオが待っていて僕もそこに潜り込む。連中をやり過ごしてから、二人でまずはダッシュを何本もやって、次はリフティングの練習。ちょうど季節は冬枯れ、色のない灰色の世界でしたが、僕にとっては薔薇色になった! 毎日が凄く楽しくて――言ったでしょう? 僕は魔法にかけてもらったと。でも」
日浦君は眉間に皺を寄せる。
「魔法は永遠じゃない。僕がリオとの特訓のおかげでリフティングが上達した頃、まぁ、まだ顔を上げてのリフは出来なかったけど、とにかく、冬が終わり春の兆しが見え始めた頃、魔法が解ける時が来ました。僕が引っ越すことになったから。不仲だった両親の離婚が成立したんです。幸い、大好きな母が親権を取り、これからも一緒に住めるのは嬉しかったけど、呉の方の母方の実家に住むというのでリオとはお別れです。最後の日に僕は大泣きしましたよ。するとリオはニコニコ笑って言うんです。
『おー、おー、その声、久しぶりに聞いたな!』
そう言えば僕は最近、泣いてなかった。更に続けて、涙の止まらない僕にリオは言いました。『俺たち、これが最後じゃない。約束しようぜ! 大人になったら、またここで会おう。モチロン、その日までサッカーを続けるんだぞ。俺は絶対サッカー選手になるからな! おまえも頑張れよ!』
痩せっぽっち同志、細い指で指切りしました。
『いいか? 大人になった年の6月27日、ここで会おう。その日は俺の誕生日だから忘れっこない。時間は――放課後のいつもの時間』
『ここ?』
『うん、ここ。目印にはサイコーだろ。知ってるか? この樹は〈悪魔祓いの樹〉だってさ。植物好きで花屋でバイトしてる母ちゃんが言ってた。なんか、外国では悪魔を祓ってくれるらしいぞ』
『当たってる! この樹から飛び出したリオに、僕、悪魔から助けてもらったもん』
『? 意味わかんねー。ま、いいや、とにかく、この樹だからな? 忘れんなよ!』
以上です」
聞き終えて僕は言った。
「うーん、ザックリした約束だが、小学生らしくてよろしい」
来海サンは、
「でも、『大人になった年』って――その大人っていつのこと? 18歳?」
ザックリしていない繊細な相棒の質問に日浦君、首を振って、
「違います。高校生になった年ですよ。リオが言うには『俺の兄ちゃんがいつも自慢してる。高校生は大人だ。電車に乗って自由に何処へでも行けるからな!』」
「――」
「この春、僕は念願の高校に入学しました。そして、約束の日、6月27日は明日です。それで、僕、電車に乗って下見に行ったんです。ぶっつけ本番だと間違いがあってはいけないと思って。それをやってホントに良かった! というのは――見つからないんです、悪魔祓いの樹が」
熱い目で日浦青君は訴える。
「当時まばらだった新興住宅地はびっしりと家が立ち並んで装いが一変している! 公園と住宅地を縫う遊歩道は残っているけど、当時あった、僕の憶えているあの茂みが何処にもない……! ああ、僕はどうしたらいいんですか? 目印がなくなっているんですから」
優しく来海サンが訊いた。
「他に何か、憶えているモノはないの? 大きな木とか」
「当時大きな木はなかった。道も出来たばかりで、ヒョロッとした木が何本かあったけど、今日見たら、それらの細い木はけっこう立派な木に成長してて……だけど、僕とリオが隠れた悪魔祓いの茂みは何処にもないんです!」
両手の拳を握り、青い椅子から立ち上がる。
「画材屋探偵さんなら、明日までに見つけてくれますよね?〈謎〉を解くってHPに書いてあるじゃないですかっ」
待て、謎の種類が違う――とは言えない。日浦君の、縋りつくようなこの切羽詰まった目。流石に小2の頃のように号泣はしていない、持ちこたえているが。
「わかりました」
店内に響く頼もしい我が相棒の声。
「おっしゃる通り――時間がない。まずは現地へ行ってみましょう、ねぇ、新さん?」
僕は小さくうなずいた。
「わかった、店を閉めて車を出すよ」