0 約束 -プロローグ-
…
………
「はぁ…!はぁ…っ!」
黒い雨が、降っている。
鉛色の雲から滴り落ちる雨粒は、蛇のように全身へまとわりつき、視界を邪魔する。
私はぬかるみに足を取られながらも、ただひたすらに走っている。
走り始めてから、どれほどの時間が経過したのか分からない。
いつからこうなっているのかも、私は知らない。
かつて湖が存在した谷を越え、緑豊かだったはずの山々を越え、荒涼とした空と大地の狭間で私は息を切らして走っている。
ここはかつて、タイヘイヨウと呼ばれた海の底だ。
…遠くからまた、天と地を揺らすような轟音が聞こえた。
かつてここには何があったのだろう。
生命の気配一つ見当たらない荒野には、希望も、絶望すらもなかった。
「(お願い…!)」
あるのはただ、一つの願い。
「…っ!」
長いこと探し求めていた地下シェルターが、地表に無惨な姿を晒していた。
分厚い天井は部分的に破壊され、もはやシェルターとしての機能を喪失していることは明らかだった。
私は最後の力を振り絞って駆け寄り、大きく空いた穴から中を覗く。
すると薄暗いシェルターの底に、一つの人影があった。
「…あ…あぁ…」
黒い水たまりに横たわる影は、まるでこの時を待ち望んでいたかのように小さく声を漏らした。
私はシェルターの中へ滑り降りると彼の側へと近づき、その冷たい身体を抱き起こした。
「来てくれたのか…」
彼の声は、外の雨音にも搔き消されそうなほど弱い。
口元に残る黒い水の跡は、長い間彼がここで待ち続けていた証だった。
「遅くなり…申し訳、ございません…。」
私は呼吸を整えながら掠れた声を出した。
「いや…いいんだ…。私の方こそ、すまなかった…。」
彼は悲痛な表情で私の顔を見つめた。
私は何も言えず、ただ首を振って彼の胸にそっと手を置いた。
濡れた髪から、黒い水が涙のように彼の体へ滴り落ちる。
いや、本当に泣いていたかも知れない。
「…」
彼は無言で私の手を握った。
とても冷たい手だった。
「…これを、君に…。」
彼は胸のポケットから小さな記憶装置を取り出すと、震える手で差し出した。
私がそれを受け取ったのを見ると、力の抜けた手はずるっと水溜りへ落ちた。
「…これは…?」
「私の…全てだ。君なら…きっと…」
そこまで言うと彼は言葉を詰まらせ、私から視線を外した。
その目は、シェルターの穴から黒い空を見つめていた。
「…最後に、太陽を見たかった…。」
彼の目から、一筋の涙が溢れた。
私は何も言えず、彼の肩を支える手にぎゅっと力を込めた。
「…あぁ…!」
突然、無表情に空を眺めていた彼の顔が強張った。
怒りとも、諦観ともとれるその目は、空の一点に向いていた。
私も反射的に空を見上げる。
すべての原因となった存在が、そこにあった。
「アンドロイド…!」
黒い雲を背景に、人型の機械兵器がじっと私たちを見つめながら空へ浮かんでいた。
まるでこの時を待っていたかのように、それはゆっくりと武器の先端をこちらへ向ける。
「…そんな…!」
私は助かる方法を求めて周囲を見渡したが、どこにも希望は見出せなかった。
「(守れなかった…!)」
穏やかな日々、些細な幸せ、彼との約束。
私は何もかも、このまま失ってしまうのだ。
「…いや、いいんだ…」
すると、私の気持ちを察した穏やかな声が私を宥めた。
腕の中で、彼は安らかな表情で私を見つめていた。
「…ごめんなさい…」
素直な気持ちが、言葉となってあふれた。
後悔。
どうしてこうなってしまったのか。
何故私は彼を守れなかったのだろうか。
「…今までありがとう、……」
沸々と湧き出る色々な感情を他所に、彼は小さく微笑んだ。
その口が私の名前を呼び掛けたとき、視界は真っ白に塗りつぶされた。