5、王宮舞踏会でまさかの展開
ついに王宮舞踏会の日がやってきた。
事前に知らされ、覚悟していたはずだが、王宮舞踏会の準備はまるで戦争だった。
舞踏会は夜のはずなのに、フィーネは朝日が上らない間から侍女に起こされた。
入浴と洗髪から始まったが、普段の3倍は湯に浸かった。
メイド達から身体中を擦られて揉まれた。痛かった。
フィーネが初めて屋敷に来た時も同じことをされたが、そのうち毎日同じことをされることで、徐々に慣れ、心地よさを感じることも多かったのだが。メイド達がいつになく力が入っているのだと思う。
化粧も髪を結うのも普段の数倍かかった。
※
ついに身支度が完成し、お兄様の所に赴く。
「姉上。」
シレノスが何かを呟いていたが、フィーネには聞こえなかった。シレノスは驚いたように目を見開いていた。シレノスは一瞬表情を無くして、ゆっくりと穏やかに微笑んだ。
「やあ、美しいね。フィーネ。見違えたよ。侍女たちは素晴らしい仕事をした。」
フィーネはシレノスに褒められて嬉しかった。
シレノスの装いもいつもにも増して煌びやかだった。
シレノスのエスコートで、多くの使用人に傅かれながら、馬車に乗り込むと、馬車が屋敷から出発した。
フィーネは村から都にやってきた後、初めて屋敷から出た。
馬車が屋敷から出ると、高級住宅街を通り抜け、王宮に到着した。
フィーネは常に屋敷から王宮を見ていたが、想像したよりずっと絢爛で美しかった。
※
馬車が止まると、従僕が馬車の扉を開ける。多くの使用人に傅かれ、シレノスのエスコートでフィーネは馬車から降りる。
シレノスにエスコートされるまま、フィーネは馬車から降り立った。
フィーネが馬車から降りた瞬間、ざわめいていた周囲が一瞬止まって、フィーネに注目が集まった気がして、フィーネは居心地が悪くなる。
シレノスは身を少し屈めてフィーネに囁いた。
「大丈夫だよ。私がいるだろう?みんな我が家にフィーネのような美しい公爵令嬢がいてびっくりしているだけだよ。それに君は何も心配いらないよ。君より身分が高いものは王族を除いてはいない。堂々としていることだけを考えなさい。」
シレノスの腕にエスコートされると、フィーネは守られている気がして安心する。
「グレーデル公爵閣下。および公爵令嬢フィーネ様」
王宮の執事がシレノスとフィーネの到着を高らかに告げる。
王宮の広間いる貴族達が一斉にフィーネの方を見て、会釈する。フィーネは生まれてから初めてこんなに大勢の人を見た。しかも全員煌びやかで美しく着飾っていて、しかもフィーネに会釈している。
シレノスは優雅に頷くと、悠然と広間を横切る。
フィーネはシレノスの腕に捕まりながら、必死に淑やかに振る舞っていた。
周囲の注目に気後れしそうだったし、初めての夜会の物珍しさに当たりをきょろきょろ見回したい衝動に耐えていた。
※
「国王陛下のおなりです。」
侍従が高らかに告げ、周囲が一斉に頭を下げる。シレノスとフィーネも続いた。
アランだ。アランにようやく会える。フィーネは目元が熱くなった。
合図があり、フィーネはようやく礼を解いてアランの姿を見た。
そして、フィーネは思わず顔を引き攣らせた。
確かにアランだ。背が伸びた。体格も良くなったみたいだ。美しい顔も相変わらずだ。そして、傍に美少女をエスコートしていた。
都に来てからシレノスを初め、美形に見慣れたフィーネであるが、それでもなおアラン以上の美形は見たことがない。それでもなお、アランの傍の美少女は、アランに勝るとも劣らない美貌の持ち主だった。
鮮やかな赤毛にくっきりとした大きな瞳。唇はふっくらしている。身長はすんなりと高く、腰は折れそうに細いのに胸は豊かだ。そして、何より自信に満ち溢れていた。
フィーネの村に来たアラン即位の号外。それに載っていた美少女だった。絵よりもずっと美しいなんてどういうことだろう。絵だから実物より美化して描かれていて欲しかった。
フィーネはずっとアランに会いたかったのに、アランは美少女ちゃんとずっと一緒だったのだ。それだけならともかく、アランは今日がフィーネの社交界デビューだということも拝謁の機会だということも知っていて美少女と一緒に来たのだ。アランがフィーネのことなんてすっかり忘れて、美少女と婚約間近だからって、今日くらいは一緒にいなくてもいいではないか。
アランは酷い。都に来てすっかり変わってしまったのだろうか。
シレノスに導かれてアランの下に向かい、アランに跪く。促されて、顔を上げ、アランとようやく目が合った。
アランは無表情だった。アランは村にいた時からどちらかといえば無表情だったが、それでもアランは嬉しい時やお祝い事の時には顔を綻ばせたし、フィーネが困っていたら笑いかけてくれた。アランが悲しい時は滅多に表情を変えることはなかったが、フィーネは何故かアランの表情を読み取ることができたのに。今はフィーネはアランの表情を読み取ることができなかった。
フィーネもアランも随分遠くに来てしまったようだ。拝謁はアランが型通りの言葉を述べて終わった。
※
こんなはずじゃなかった。フィーネはアランと会うことを目標に慣れない作法の勉強をしてきたのに。村からも出たのに。毎日侍女達の指示通りの美容術もしたし、毎日どんどん苦しくなるコルセットだって耐えたのに。
フィーネは期待していたのだ。アランが美少女と婚約間近だということも、フィーネに手切れ金のように家を建ててそれ以降音沙汰がないことも何かの間違いだったと。
アランはフィーネのことを覚えていて、事情があって会いに来れないけれど、フィーネから会いに行けば感激してくれると思っていたのに。
いつかアランと一緒によんだ物語のように、アランは美しく着飾ったフィーネを見て、微笑んでくれると思ったのだ。本当はフィーネのことを忘れてなどいないと言ってくれると思った。フィーネの手を取ってダンスをしてくれると思ったのに。
実際にアランと踊っているのは、号外に乗っていた美少女だ。セレネという侯爵令嬢らしい。身分までお似合いなのか。フィーネは落ち込んだ。
アランはセレネとダンスを終えると、早々に宴から退出した。
セレネは広間に留まっているが、セレネの所にはあっという間に多くの人が集まった。セレネは周りにゆったりと微笑むと、順番に話しかける。話しかけれれた貴族達は、遠目にも明らかに喜色を浮かべていた。
※
セレネのような少女と一緒にいれば、アランはセレネのことが好きになるのも当然な気がした。フィーネだって、自分自身とセレネ。どちらにもなれるならセレネになりたい。
フィーネは王宮に来た時の高揚した気持ちが嘘のように落ち込んでいた。
「大丈夫。全部うまく行くよ。」
シレノスはゆったりと微笑んだ。
フィーネはぐっとシレノスの腕を掴んだ。シレノスは少し驚いた顔をした後、ゆっくりとフィーネの手に手を重ねた。
「フィーネ、実はお願いがあるんだ。さっき、ポケットチーフを落としてしまってね。ほら。」
シレノスは広間の上の天使の彫刻を指差した。
拝謁の時は広間より一段高い階段の上に行き、フィーネと離れたところでフィーネの拝謁を見ていた所で落としたらしい。
「あれはとても気に入っていてね。無くしたらとても悲しい。取ってくれないか?フィーネならできるだろう?」
フィーネは頷いた。村ではこの手の頼まれごとは日常茶飯事だった。
フィーネが胸に力を込めると淡く輝く。その輝きを腕に移して、力を込めた。
チーフを浮き上がらせる。チーフはどんな素材で作ったのだろうか。フィーネの魔法の光と広間のシャンデリアの光を反射して、眩しい位に輝いた。チーフをフィーネの手元に戻す。そういえば、魔法を使うのは、村から出て以来だ。屋敷では使用人達がフィーネの要望を常に先回りして叶えてくれていたから、フィーネが魔法を使う機会なんてほとんどなかったのだ。
フィーネがシレノスにチーフを差し出すと、シレノスは今までになく満面の笑みを浮かべていた。シレノスはいつも柔らかく微笑んでいるが、ここまで満面の笑みを見たのは初めてであった。
ふと、フィーネは広間が鎮まりかえっているのに気がついた。広間の人々は全員フィーネを凝視している。セレネは特に目と口を見開き、驚きを全身で示していた。
しまった。とフィーネは思った。ついいつもの癖で魔法を使ってしまったが、都で魔法は珍しいのだった。
悪目立ちしているようだ。フィーネはいたたまれなくなる。
シレノスは全く気にした様子がない。それどころか、声を張り上げた。
「ありがとう。フィーネ、君は優しいね。さすがは我がグレーデル家が誇る聖女だ。」
何人もの人が息をのむような音がした。広間中に緊張感が広がる。聖女?シレノスは何を言っているのだろう。
広間中の人が一斉にフィーネとシレノスの近くに集まる。シレノスはゆったりと、その中の一人の貴族の名を呼ぶと、呼ばれた貴族は満面の笑みでシレノスとフィーネに応えた。跪かんばかりの勢いであった。
その後も次々と貴族達がシレノスとフィーネに近づき、口々にシレノスと、そしてフィーネのことを褒める。
シレノスはともかく、フィーネのことを絶世の美少女だとか溢れんばかりの気品であるとか、知性が滲み出ていると言われて戸惑った。フィーネは自分自身が見るに耐えない容貌だと思ったことはないが、どう見ても絶世の美少女ではない。母は目立つ美人だったが、フィーネは父に似てしまったのだ。何より、セレネの方が遥かに美しい少女だ。フィーネは貴族達が自分のことを見ていないことに気がついた。フィーネではなく、フィーネの向こう側にいるシレノスの歓心が買いたいのだろう。
フィーネは自分が自分ではないような気がして、気もそぞろだった。
ふと視線を遠くにやると、件の美少女、セレネと目があう。セレネは憎しみがこもった目でフィーネを睨みつけている。
フィーネは戸惑った。何が起こっているんだろう。
シレノスに助けを求めようと見上げても、シレノスは満面の笑みで微笑み返すだけだった。
※
それから先は毎日目が回るように忙しかった。
フィーネは毎日のようにシレノスに連れられて夜会に出る。
フィーネは侍女に着付けられて、シレノスに連れられているだけである。夜会に行けば、みなフィーネのことを必死に褒める。
フィーネは全て人任せであるのに、自分が自分でないような気がしてただひたすら疲労していた。
ある夜会のことだった。
フィーネは全ての夜会にシレノスのエスコートで参加している。シレノスは基本的に常にフィーネから離れない。離れたとしても、侍女が常にフィーネのそばに寄り添う。
しかし、その夜会の時だけは例外だった。シレノスが貴族に呼ばれてフィーネのそばを離れ、後を任された侍女たちともはぐれた。
フィーネは一人となったが、見知らぬ貴族達が近寄ってくるのに気後れして、人気の少ないバルコニーへ出る。
バルコニーは静かで星あかりが美しかった。
が、フィーネはバルコニーでは一人ではなかった。先客がいた。セレネだ。
フィーネは気まずかった。フィーネはセレネにアランを取られた形になったのだ。それにセレネは美少女すぎるので、気後れしてしまう。だとしても、狭いバルコニーで2人きり。会話もないのはもっと気まずい。何か話すべきだろう。
作法の先生が言っていた。身分が低いものは高いものに話しかけてはいけないと。フィーネは公爵令嬢であり、セレネは侯爵令嬢である。ここはフィーネが話しかけるべきだろうと思ったその時、セレネが口を開いた。
「ご機嫌よう。妃殿下。」
フィーネはセレネから話しかけられたことに驚いた。いかにも令嬢然としたセレネがマナーを破るとは思わなかったのだ。それにしても今、セレネは妙なことを言わなかったか。
「わたくしグレーデル公爵家のフィーネと申します。」
「知っています。もうすぐ王妃となられる方。」
セレネは艶然と微笑んだ。
フィーネは訳が分からなかった。アランはセレネと婚約間近だったのではなかったか。だからこそアランはフィーネの拝謁にまでセレネを伴ったのではなかったのか。
戸惑うばかりのフィーネだった。セレネはそんなフィーネを見てくすくすと笑う。
「噂通りのお方。本当に何も知らないグレーデル公爵のお人形お姫様。グレーデル公爵は何がなんでもあなた様を次の王妃にするつもりですわ。いえ、違いますわね、グレーデル家が何が何でも次の王妃の座を取るために、わざわざあなたを探し出したんですのよ。本当にご存じなかったのね。」
セレネは歌うように楽しげに話した。
グレーデル家は何度も王妃を出したことのある名門だ。建国神話の津波を命をかけて止めた王妃もグレーデル家の出だった。グレーデル家には魔法が使える娘が生まれる。その娘は建国神話で命を賭けて国を救ったことにかけて聖女と呼ばれてきて、聖女は年頃さえ合えば王妃の第一候補となる。逆に言えば、グレーデル家の権威は聖女によってもたらされるところが大きいのだ。
グレーデル家は栄華を極めた。他の貴族に類を見ないほどの栄華である。それどころか、王家ですらグレーデル家の意向を無視することはできなかった。
王家は建国神話からも、科学技術や学問を保護している。我が国に定期的にもたらされる津波や地震も建物や堤防技術等科学技術の発達で克服していきたいというのが代々の王家の考えだ。それにはグレーデル家の聖女という神秘主義は相性が悪かった。
しかし、いかに王家が学問を推奨しようと、歴代の国王が天才揃いだろうと、津波を完全に防げたことはほとんどない。1000年前に伝説上の王妃が出たくらいだ。魔法で津波が防げる訳ではないが、臣民達の心の安寧のためにはグレーデル家出身の聖女と呼ばれる王妃が必要であることは確かであった。
しかし、そんなグレーデル家の栄華にも翳りが出始める。
グレーデル家に聖女が生まれた。年は国王より大分年下であったが、貴種の婚姻ではなんの瑕疵にもならなかった。当時のグレーデル家の当主は喜んで王妃に推挙したが、当の娘は嫌がった。娘には恋人がいたこと。そして、500年周期でやってくる次の津波が近いことだ。
津波が来れば建国神話の通りに王妃は津波で最も影響を受ける低地の祭壇に立つ。そして、どんな下層の民より先に津波に飲まれることで、神の怒りを鎮め、民衆の混乱を鎮めるのだ。
娘は恋人と結婚したいと当主に訴えた。当主が聞き入れることはなかった。他の家族も聞き入れることはなかった。それも当然だ。娘は正妻の娘ではなかった。当主が愛人に手をつけて産ませた子で、屋敷では使用人同然に虐げられていたのだ。むしろ厄介払いができるとすら言われたらしい。
娘は結婚の前に恋人と逃げ出す。
王妃候補を失ったグレーデル家は、津波の際に聖女を王妃として立てられなかった。他家の娘が立ち、グレーデル家はその権威が翳った。それだけではない。本来なら500年周期であるはずの大震災と津波が、13年後にまた発生したのだ。それは、確かに500年周期の地震と津波よりはやや規模は小さかったが、国中に多大な影響があり、人心は大きく揺れた。
その中で貴族達の不安が集中したのは、グレーデル家だった。これまで散々建国神話を使って栄耀栄華を極めてきたのに、肝心な時に娘を差し出さなかった。なんたる臆病者だ。そして、この13年前の震災は聖女を捧げなかった神の怒りに違いない。近々また大きな地震と津波がくるのではないか。グレーデル家は聖女を差し出せ。
「もうお分かりでしょう?その逃げたグレーデル家の娘があなた様の母上という訳ですわ。そして、グレーデル家の権威のためには早急に聖女を用意して王妃に立てなけれなならなかった。また震災と津波が来て、聖女として身を捧げて貰えばグレーデル家の権威はまた復活するという訳ですわ。」
フィーネは崩れ落ちそうになった。
母はグレーデル家に虐げられていた?それで世界から隔絶したような村でずっと暮らしていた?母はグレーデル家から虐げられていただけじゃなく、家の権威のために死んで欲しいとまで思われていた?いや、母のことだけじゃない。シレノスはフィーネのことを王妃に立てたいと思っていた?そしてもし震災と津波が来たとき、フィーネに犠牲になって欲しいと思っていた?フィーネのことも死んでも構わないと思っていた?
「嘘よ。あなた初めて会った人だもの。信頼なんてできない。私に意地悪しようとしているだけだわ。」
フィーネは精一杯虚勢をはった。セレネはおかしくて仕方がないという風に笑い出す。
「まあ。だって、おかしいとは思わなかったんですの?あなた様のお屋敷でお母様のものはあって?衣装は?宝石は?お部屋は?家族の肖像画にお母様はいて?使用人はお母様のことを知っていて?教師からお母様のことを聞いたことがあって?どうして今頃になって、あなた様を探しに来たの?本当におかしいとは思わなかったんですの?」
どうして思いつかなかったのだろう。上位貴族の高級使用人は代々仕えているものばかりだ。母にも仕えていてもおかしくはないのに、母の話を聞いたことがない。ドレスや装飾品も、貴族はどんどん買い換えるものがある反面、代々使い続けるようなものもある。母が使ったものなど聞いたことがなかった。それに、フィーネが母の部屋のことを聞いた時にはぐらかされた。教師からも母のことを聞いたことがない。母は駆け落ちしたのであまり母のことを聞かれたくないのかもしれないとも思い、今まであまり気にしてこなかった。しかし、言われてみれば、確かに不自然なことばかりだ。
フィーネは母のことを何も知らなかったのだ。そして、シレノスのことも。
「おめでとうございます。と申し上げるべきですわね。未来の王妃殿下。あなた様はグレーデル家の道具としてもうすぐ王妃になるという訳ですわ。この私を差し置いて。陛下の意思に反してね。」
そうだ。セレネはアランと婚約間近だったのだ。それを、フィーネが引き裂いた?
フィーネは何も考えられなかった。
※
フィーネが呆然としていると、すぐに侍女たちが慌てた様子でフィーネを探しにきた。
帰りの馬車で、フィーネは心ここにあらず。という状態だった。
「フィーネ、どうしたんだい?誰かに嫌なことを言われたのかい?」
シレノスは相変わらず優しげな口調だ。シレノスはフィーネに対して常に優しい。でも、人間常に優しくいられるものなのだろうか?フィーネに対して偽りの自分を見せているだけなのではないだろうか?フィーネはありとあらゆるものが疑わしく思えてきていた。
シレノスに聞くべきなのだ。でも、聞いたところでどうなる?その通りだと言われたら?フィーネはシレノスの意向に逆らうことなどできなかった。母が家族から疎まれていたように、心の中ではシレノスがフィーネを疎んでいたら?シレノスの意向に逆らうことは許さないと言われたら?逆らうくらいなら出ていけと言われたら?
フィーネは屋敷から出てどうすればいいかなんて分からない。シレノスはフィーネに物は惜しみなく与えたが、現金は持たせなかった。フィーネも侍女達が先回りして動いてくれていたので、その必要性を感じなかった。でも、現金がなければフィーネはシレノスから見捨てられたら、その日の食事にも困るのだ。フィーネは何も言えなくなった。フィーネはシレノスのことはよく知らなくても、シレノスがフィーネと相対している時にフィーネに向ける優しさは信じようと思っていた。でも、その裏にあるものをフィーネは受け入れられるだろうか。
「そうだ、フィーネ、いい知らせがある。明日、国王陛下に会えるよ。フィーネと2人で茶会だ。もちろん侍女は同行するが。気兼ねなく話せるんじゃないかな?」
アランに会える?フィーネは懲りずに心を浮き立たせたが、アランはセレネを伴っていた。それが答えなのではないか?フィーネにはもう心は残っていないのではないか?
でも、フィーネはシレノスのこともセレネのことも会ったばかりでよく知らない。でも、アランのことは知っている。いや、知っていたのだ。
セレネの言うことが本当でも、関係ないのではないか。堤防を超えるような津波を伴う地震なんて、今まで500年に一度しか来ない。フィーネの生まれる直前に津波は来たのだ。13年前に起きたからなんだというのだ。あと500年近く来ないではないか。そして、フィーネは今ならいつか夢見たようにアランと結婚できる身分なのだ。シレノスがフィーネと結婚することで立場が強くなったからなんだというのだ。
そうだ。アランと結婚すれば全て上手くいくではないか。フィーネはアランとの結婚に全てをかけよう。そう心に誓った。
※
茶会の日も、フィーネは王宮舞踏会の日並みに着飾った。茶会は昼なので、昼用の装いにかける時間はいつもよりは短いものなのだが、今日ばかりはそうはいかないらしい。
フィーネはいつもならうんざりしながら身を任せて耐えるばかりだったのだが、今日ばかりは侍女の腕だけが頼りだ。セレネのような美少女に見慣れたアランに少しでも美しいと思ってもらわなければならない。いつになく協力的なフィーネに侍女達は闘志を燃やしたようだ。
フィーネの仕上がりはいつにも増して美しかった。
フィーネが通されたのは、国王の私的な空間だという庭に面した部屋だった。
フィーネが部屋に通されてまもなくアランが到着した。
フィーネは思わず緊張する。アランはまたフィーネにそっけない態度を取るのではないだろうか。フィーネが礼をとると、すぐに座るように促された。
「久しぶりだね。フィーネ。」
アランは気安い口調だ。そして、柔らかく微笑みかけてくれた。アランだ。いつものアランの優しい顔だ。フィーネが大好きなアランだ。フィーネは泣きそうになり堪えようとしたが無理だった。涙が溢れてくる。フィーネの顔はぐちゃぐちゃになった。
「久しぶり・・・でございます。陛下。」
「いいよ。フィーネ。ここには俺達しかいない。昔のように楽に話そう。」
アランに会ったら言いたいことがたくさんあったのだ。兄が見つかったこと。家を建てるより会いに来て欲しかったこと。ラーンと出会ったこと。ババ様に酷いことを言ってしまったこと。作法の練習を頑張っていること。美容は好きにはなれないこと。たくさん話そうと思っていたのに、言葉が浮かばない。ただ涙だけが出てきた。
「フィーネ、大丈夫?グレーデル公爵家では意地悪をされた?」
フィーネは首を振った。シレノスはいつも親切だし、訓練された侍女たちはフィーネの要望を常に先回りしてくれている。
「他のものには?王宮では意地悪された?」
フィーネは再び首を振った。王宮では皆不自然なほどフィーネをほめてくる。ふとセレネのことが思い浮かんだ。あれは意地悪だったのだろうか。それとも、他の人たちが全員フィーネに偽りを言っていて、セレネが言ったことが事実だったのだろうか。
「アラン、私アランと会いたかった。アランとこれからもずっと一緒にいたい。」
アランは困ったように微笑んだ。
「フィーネ。俺はフィーネに幸せでいてほしいと思っているよ。でも、それは村で平和に暮らしていて欲しいっていう意味だ。フィーネ、僕は君には村で平和に過ごして欲しいと思っている。村に帰って欲しい。村で幸せに暮らすんだ。」
「私はアランといたい。お願い。アランは私のこと嫌いなの?アラン、私は新しい家が欲しかった訳じゃない。アランとずっと一緒にいたかったの。アランは一緒にいてくれると思ったの。」
「家は気に入らなかった?」
「家は素敵だった。でも、あそこにいると寂しくて仕方がなかった。ママもパパもアランももういないんだって思い知らされた。だから都に来たの。村にいると寂しくて仕方がなくなるから。」
「フィーネ。よく聞いて。君は俺と一緒にいることはできない。俺は結婚相手をもう決めたんだ。君は村で平和に幸せに過ごして欲しい。」
アランは酷い。相手はセレネだろうか。いや、誰が相手かは問題ではない。
「私はアランのこと待ってたのに。私はアランがいれば、幸せだったのに。家がなくても、パパもママがいなくなっても、そりゃあ悲しかったけど、アランがいれば寂しくなかった。アランがいれば何もない村での生活も毎日楽しかったのに。都に来ても、アランがいないとずっと寂しかったのに。アランはそうじゃないの?私と離れて、すぐに他の子を好きになったの?」
アランは無表情になった。アランと王宮舞踏会で再会した時のあの表情だ。内心を全く読み取ることができない表情。フィーネが嫌いな表情だ。
「ああ。そうだ。いいね。フィーネ。君は村に帰るんだ。村で幸せになれ。」
「村に一人でいて、私がどうして幸せになれると思うのよ。もう村にはパパもママもいない。アランもいないじゃない。ババ様や爺様達はいるけど、年寄りだしいつまで生きているか分からない。ちっとも幸せじゃないわ。お願い。アラン。考え直せない?私直せるとことがあるなら一生懸命頑張るから。」
アランは何も言わなかった。
「それに、私ババ様に酷いこと言っちゃった。だからもう村になんて帰れないの。」
「一体何を言ったんだ?」
「ずっと村にいて、どこにも行けずに年を取りたくないって。」
酷いセリフだ。ババ様は若い頃からずっと村にいることを知っていたのに。世話になったババ様みたいになりたくないと言ったも同然ではないか。
「大丈夫だよ。ババ様はフィーネのことを自分の孫のように思っている。だから、許してくれる。」
アランはもう一度フィーネの目をしっかり見ながらゆっくり話した。
「フィーネ、君は村に帰るんだ。俺はすでに結婚相手を決めた。君にはもう何もしてやれない。」
アランは無表情のままだったが、アランは本心から言っている。フィーネにははっきりわかった。
アランはフィーネと結婚する気はないのだ。
アランはセレネと結婚するつもりなのだ。セレネの言うことが本当なら、アランはフィーネと結婚する方が都合がいいはずだ。それにも関わらず、セレネと結婚したいのか。セレネを愛しているのだ。フィーネのことは愛していないのだ。
アランは頼れない。シレノスを頼っていいのか不安になってきている。ババ様とも気まずいし、何よりババ様のいる村までなんて帰ることはできない。フィーネはまた一人だった。
「フィーネ、今すぐ村に帰れ。馬車は用意してある。」
酷い話だ。そんなにフィーネが見たくないのか。
「何を言っているの?今すぐ帰れなんて酷い。そんなに私に近くにいて欲しくないの?そんなことしなくても、あなたとは滅多に会えないわ。」
「お願いだ。必要なものも欲しいものも全部俺が用意するから。」
「アラン、あなた、私が物が欲しくて都に来たと思っているの?酷いわ。」
今すぐ村に帰る?シレノスが心配するだろう。それに侍女達を困らせることになる。アランは突然何を言っているのだろうか。
「陛下。グレーデル公爵です。」
「今日は席を外させたはずだ。」
「しかし・・・未婚の令嬢を保護者を差し置いて留め置くことは無用な噂を呼びます。」
アランはゆっくりと息をつくと頷いた。
「これはこれは陛下。我が妹はお気に召しましたかな?」
シレノスは穏やかに微笑んでいる。シレノスのいつもの笑顔だ。
「特にこれといって興味はない。昔馴染みとして一応の挨拶をしたかっただけだ。」
アランは無表情だった。
「そうですか。我が妹はずいぶん陛下を慕っていたというのに。フィーネ。では一度我が家に帰ろう。」
フィーネはシレノスの言葉に頷いた。
アランは何かを言いかけたが、そのまま口をつぐんだ。
フィーネはこれからどうなるんだろう。アランはフィーネと結婚する気なんてない。セレネのいうことは本当だろうか?シレノスがフィーネと暮らしているのは、フィーネを王妃にするためだけなのだろうか。
フィーネは思った。自分は誰を信じればいいのだろう。自分はどうしたらいいのだろう。そもそもママがいけないのだ。ママが屋敷から逃げるから。ママが王妃にならずに逃げるから。ママがフィーネを産んだから。そして
「ママ。どうして死んじゃったの?」
ママが死ぬから。フィーネはこのとき全てのものが嫌いだった。何を考えているのか分からないシレノスは嫌い。フィーネに嫌なことを言うセレネも嫌い。フィーネと結婚してくれないアランも嫌いだった。
フィーネの感情が溢れて涙が溢れた。