04
「侍医の診断では、肉体的な異常は見られないという話だった。宮廷魔法使いの見立てでは、魔法による異常は感知できなかったということだよ」
意見を求めると、プリシラは同意した。
ヴィンセントの周囲に、魔力の残滓は確認できなかった。
通常、魔素は視認できない。自身の魔力を介して己のものでない魔力を感知する、という方法で知るのが一般的だ。しかしプリシラは魔素を視認できる。大陸全土を探しても、そんな芸当ができる人間は稀である。それほどまでに洗練された魔法技術を有するプリシラが、魔法の気配はないと言った。
「……なぜヴィンセントは記憶喪失になったと思う?」
「皆目、見当もつきません」
頭を打ったといった外傷でなく、魔法による影響でもない。
考え込むライトニングに、プリシラが控えめに声をかけた。
「魔術か、あるいは呪術という可能性を考慮すべきかもしれません」
「人間の記憶をどうこうできる類の術があるのかい?」
「あくまでも可能性の話だとお考え下さい。わたくしも専門ではありませんので、断言はできかねます」
王国では魔法が一般的な技術として浸透している。魔術は魔法の素養を持たない者が行使する、魔法に似た奇跡を引き起こす科学だ。自らの力で、ときに精霊の力を借りて、奇跡そのものを行使する魔法使いには、理解の及ばない領域である。
呪術などはより顕著で、魔法とも魔術とも異なる領域に位置する技術である。操れる者は少なく、記録として残されたものも多くない。得体が知れない、というのが素直な感想である。
「困ったな。原因がわからないのでは、ヴィンセントの記憶を取り戻す手がかりも得られない」
嘆息するライトニングの言葉を受けて、プリシラがわずかに目を伏せた。その反応が、気になった。
「ヴィンセントとの婚約を継続することに、君は同意してくれるだろうか」
記憶が戻らなければいいと、君は考えるだろうか。問えず、別のことを言った。
「ぼくらは愚弟の惚れっぽさを矯正できず、君に多くの心労を負わせてしまった。結婚だって先延ばしになっている。そのうえ今回の騒動だ。嫌になっていないだろうか。記憶が戻る保証もなく、君をあとどれだけ待たせるかもわからない。嫌気がさしていないだろうか」
それでも君は、弟のそばにいてくれるだろうか。
「もちろんですわ、ライトニング殿下」
間を空けず頷いたプリシラに面食らう。彼女はにっこりと、愛らしく笑った。
「いまさら放り出されたら、わたくしきっと王家を恨みます」
プリシラは、嫌になったとも、嫌気がさしたとも言わなかった。代わりに、それらを否定もしなかった。
「……そうか。君に恨まれるのは嫌だね。今後とも、よろしく頼むよ」
「はい、殿下」
不意に、外の廊下が騒がしくなる。荒々しい足音が迫り、止まることなくサロンの扉が開け放たれた。
ノックはなかった。
「あ、兄上!?」
鬼気迫る表情で踏み込んできたのは第一王子ウィリアムである。彼は肩で風を切りながら、まっすぐプリシラのそばへ寄った。
立ち上がりカーテシーをとる彼女が姿勢を戻すのを待って、ウィリアムが口を開く。
「ヴィンセントの件は聞いたか?」
「はい。今、ライトニング殿下と原因を探っておりました」
「ふむ……」
ギロリ、と刺々しい視線が投げられた。
「率直に問う。犯人は君か?」
がたん、と大きな音がして、それが椅子の倒れた音であると遅れて気づいた。ライトニングは、己が立ち上がった際に倒したのだと、さらに遅れて気づいた。しかし今は、それどこではない。
「兄上、何をおっしゃるのですか!」
自然と声が尖る。なぜプリシラを責めているのか、ライトニングには理解ができない。
「控えろ、ライトニング。昨夜、彼女がヴィンセントの呼び出しに応じ登城したことはみなが知っている。ヴィンセントが記憶を失う前、最後に会った可能性が最も高いのは彼女だ。疑うべきはまず、彼女だろう」
なぜ疑わないのか。ウィリアムの言いようは、ライトニングのことも責めていた。
「彼女はヴィンセントの婚約者ですよ!」
「なればこそ、彼女が怪しい。不実な婚約者に恨みの一つも抱いていたとして、なんの不思議がある」
プリシラをそばに置きながら、いつまでも恋に現を抜かすヴィンセント。
歪な関係がそれでも成り立っていたのは、プリシラの辛抱を前提としていた。不満の一つもこぼさずに、不平の一つも漏らさずに。いつだって淑女として凛としていたプリシラの我慢が遂に、限界を超えたのだとしたら。
「プリシラ嬢、どうなのだ」
ウィリアムの厳しい問いを受け、彼女は。
「あははっ」
プリシラは笑った。