03
部屋に入ってきたプリシラの姿を見て、ライトニングは寄ろうとする眉根を引き剥がすのに苦労した。いつもの顔をしている。彼女は浮かぶ感情のすべてに蓋をして、平常を装う淑女の仮面を被ってしまっていた。
「お待たせして申し訳ございません、ライトニング殿下」
「……構わないよ。気分は、落ち着いたかい?」
「はい、おかげさまで」
嘘だ、と胸中で舌打ちする。
「今朝は、急に呼び出してすまなかったね」
「事情が事情ですもの。お気になさらないでください」
表情が、崩れない。
サロンの中央のテーブル、向かいの席に腰を下ろしたプリシラは無感情なほど淡々と返事をする。
「ヴィンセントとは、どんな話をしたのか聞いても構わないかな?」
プリシラの双眸が硝子玉のように透き通った。
「殿下は記憶を失くされて不安もありますでしょうに、見ず知らずの婚約者に優しい言葉をかけてくださいました」
「見ず知らず……」
卑屈な言い方だと、もどかしくなる。
「もう一度わたくしに恋をしたいので機会をくれ、と言われてしまいましたわ」
「……」
「あんまりまっすぐおっしゃるものですから、時間をくださいとお願いして、逃げ出してしまいました」
照れるでもなくプリシラは言う。
引き剥がそうとした眉根は間に合わず深い皺を刻み、口からは重い溜め息が落ちた。
すまない。今日だけでも既に百回は言っただろう謝罪を、また繰り返す。
足りない。どれだけ謝っても、言い足りない。王家は彼女に、とてつもない業を背負わせてしまっている。謝って済む話ではない。
四歳の頃から一緒にいて、ヴィンセントが語るのはいつだって他の女のことであった。逢瀬のたびに、やれ伯爵家の娘が愛らしい、やれ子爵家の娘が可愛らしい、やれ侯爵家の娘が愛おしい。彼は婚約者であるプリシラを差し置いて、放り出して、違う女ばかりを褒めた。
プリシラがそれを咎めたことはない。
お茶を飲む姿が美しかったと言われれば、お茶の作法を徹底的に見直して。ダンスが素晴らしかったと聞かされれば、講師を招きレッスンを重ねて。
ヴィンセントがそれを認めたことはない。
プリシラの努力には目も向けず、気づかず、いつだってどこかの誰かに心を奪われてきた。不出来な弟だと思う。愚かな弟だと悲しくなる。
『もっと婚約者を見てあげなさい』
『プリシラはいいのです』
よくない。いいわけがない。
もっと強く、もっとしっかり言い聞かせるべきだった。
『ヴィンセント殿下は今、どなたに恋をなさっていますの?』
あるとき、プリシラが自らそんな問いを投げかける場面を目撃したとき、ライトニングは愕然としたのだ。
婚約者の心が自分のほうを向いていない。それは貴族の令嬢にとってこれ以上ないほどの屈辱であるはずなのに。彼女はまるで、受け入れているように振る舞っている。そしてそれを、ヴィンセントもよしとしている。
どうしてこんなことになったのだろう。
ザンダー王家の王子は四人。それだけいて、しかし兄弟仲は良好である。王位を争うこともなく、立太子した第一王子を支えようと早々に結託した。
ヴィンセントは末っ子ということもあって、兄たちの愛情を目一杯に受けて育った。王家の四男として厳しい教育を受けてはいたが、年の離れた兄たちを必死になって追うには、彼の立場は弱過ぎたのだろう。
プリシラを婚約者に迎える頃には、彼の王位継承権はほとんど形骸化していた。第一王子は優秀だった。ライトニングが早々に追い越すことを諦めたように、ヴィンセントは兄に追い迫る必要はないと言われてきた。
互いにできないことを補い合う。それがザンダー王家の四兄弟の取り決めだった。
会話を弾ませ、共に悪戯をして叱られ、時には喧嘩もして。平穏な生活の中でたくさんの愛情を受けたヴィンセントは、他者に愛をわけることを躊躇わない。
ほんの一欠片でも、その愛を婚約者へ向けてやれ。
第一王子も、ライトニングも、第三王子も、幾度となくそう言って、『プリシラはいいのです』の一言にあしらわれた。
そんなことばかりしているから、罰が当たったのだろうか。
ヴィンセントはプリシラのことを忘れてしまった。彼女に関する一切の記憶を失った。