02
少し、時間をください。
無難な返事をして、部屋を出た。移動の時間を使って、考える。
もう一度、とヴィンセントは言った。もう一度、恋をする機会がほしい、と。
「一度だって、ないくせに……」
自嘲が漏れる。
ヴィンセントは恋多き男であった。とにかく惚れっぽい彼は、次から次へと女に惚れては、惚れたまま次の恋に落っこちる。
逢瀬のたびにどこかのお嬢さんを好きになったと報告され、彼女がいかに素晴らしいか語り聞かされた。会うたびに彼の想い人は増えていく。そして彼は恋した相手を決して忘れない。一度どこかで見かけ、ちょっとしたきっかけで好きになっただけの乙女でも、どこで見かけてどこを好きになったどこの誰なのか、いつまでも憶えていた。
優秀な頭の使い方を間違えている。
弟の惚れっぽさを案じたライトニングは、常々こめかみを揉み解して嘆いていた。
紅玉と称されるプリシラに恋をして、量産される恋を一つに絞ってほしい。
婚約に込められたもう一つの目的を教えられたのは、四度目の逢瀬のときだった。様子を見にきたライトニングは、嬉々としてどこかの令嬢を褒めちぎるヴィンセントに絶句した。
『申し訳ない、プリシラ嬢』
思えば、初めて謝罪されたのはあのときだった。
十六年かけて、結局プリシラはヴィンセントに一度も好いてもらえなかった。彼の恋は量産され続け、そのせいで結婚はズルズルと先延ばしにされた。
移ろう恋心は、婚前であれば火遊びで方をつけられる。幸いにもヴィンセントが恋心を語る相手はプリシラだけであった。恋をしたという相手にも伝えない片想い。プリシラが口を閉ざせば、それは存在しなかったものとして葬ることができる。たとえ控える使用人の誰かの耳が拾い、口さがない噂を流しても、王子も人の子であると、プリシラが笑い飛ばしてしまえばいい。
しかし結婚してしまえばそうはいかない。浮いては沈む恋心は、そのままヴィンセントを刺す刃となる。白い結婚であると噂が流れれば、王家だけでなくエーゼライト侯爵家の威信までも揺るがすだろう。
いつまでもフラフラと浮ついた王子。夫の浮気を諫められない妃。
プリシラ自身、恋に現を抜かすばかりのヴィンセントと結婚しても、子を授かることはないだろうと思っていた。結婚はできても、初夜を過ごす二人の姿が想像できない。ベッドの中でも、式に参列していたどこかの令嬢が愛らしかったと語られる気がしてならなかったのである。
それではあまりに、惨めではないか。
妻という肩書きばかり与えられても、当の夫はプリシラではないどこかの誰かを想っている。笑えない。泣いてしまう。
「はぁ……」
ただの一度だって恋をしてくれなかったというのに、いまさらどうやって恋をするというのだろう。そもそもどうして、もう一度、という感覚になったのだろう。
考える。
婚約を破棄するという話がヴィンセントの独断であったことに気づいて、とっさに笑みを保てなくなった己の未熟さが痛い。あのときうつむいてしまったことで、ヴィンセントはプリシラの態度を不審に思ったはずだ。
ヴィンセントを案じるふりをして、彼に会わずに済むよう働きかけようと企んだ。見ず知らずの女が婚約者だと言われても信じられまい。であれば一先ず、距離を置こう。そうして時間を稼いでいる間に、彼との婚約を白紙に戻す手続きをしてしまえばいい。
記憶喪失などという予想外の出来事に動揺して、自分の思考が矛盾していることに気づかなかった。
どうせ破棄する婚約だ。ヴィンセントが婚約者のことを忘れたというのなら、そのままなかったことにしてしまえばいい。手続きだけ済ませて、あとはお互いに知らん顔してしまえばいいのだ。ヴィンセントの有責だというのなら、彼にはできなくとも、王家がプリシアの次の婚約者を見つけてくれるだろう。
思い至らず、都合のいい言葉を吐く最中に気づいてハッとした。その違和感を、ヴィンセントに感じ取らせるなど、愚の骨頂。
ヴィンセントは気づいたはずだ。だってあんなにも優しい声をしていた。彼は誰かに優しくすることを迷わない。好き不好きにかかわらず、誰にでも優しい心をわけてくれる男だった。
――ああ、そうか。
ヴィンセントは勘違いをしたのだ。自分とプリシラの関係は良好で、好き合っていて。だから見ず知らずの女と自分を卑下するプリシラに情をかけたのだろう。会うのは避けよう、と言い切れなかったプリシラは傷ついていたとでも錯覚したのだろう。傷が痛んで、最後まで言えなかったのだと、勘違いした。
「は、はは……」
いつだって優しくて、どこまでも親切で、なんて残酷な男だろう。
もう一度、……もう一度プリシラに恋をする。できるものなら、やってみろ。
この婚約は解消しない。都合よく、レイナードはまだこのことを知らない。王も、王妃も、ライトニングも知らない。誰も知らない婚約破棄。知っているのは言い出しっぺのヴィンセントと、告げられたプリシラの二人だけ。
ヴィンセントが記憶を失っている今、プリシラが口を閉ざせば、なかったことにできる。なかったものとして、葬ることができる。
どうせヴィンセントは恋などしない。十六年できなかったのだ。記憶を失くしたとて、この先、少なくとも十六年はできないだろう。
付き合ってやる。
優しい王子さまが、親切な婚約者が、残酷なヴィンセントが、記憶を取り戻した彼がどんな顔をするのか見てやろうではないか。
恋をしてもらえないことに傷つくことには慣れている。十六年も耐えたのだ。少しの間、期間が延びたとて気にしない。心はとっくに潰れてしまった。
崩れた顔に喝を入れ、淑女の笑みを貼りつける。ズキズキと痛むのはきっと、心が潰れたときの痛覚が残っているせいだろう。それ以外には考えたくない。