01
どうして好きになってしまったのだろう。
どこを好きになったというのだろう。
婚約者との二度目の逢瀬で、別の女に恋をしたと、語るような男であったのに。
『恋をしたんだ!』
ヴィンセントは、天からの祝福を一身に浴びているような、愛らしい男の子だった。
顔合わせのときはほとんど会話のなかった彼であったけれど、二度目で早々に慣れたのか、あるいは恋の熱が緊張を焼いたのか、話しかけてきたのはあちらだった。
彼は言う。とても愛らしい子に会ったのだ、と。
婚約者の前で何という話をするのだろう。プリシラは当然ムッとした。しかし彼女の不機嫌など気にもせず、ヴィンセントはふくふくとした頬を林檎色に染め語った。
とある伯爵家の令嬢だという。茶会で見かけ、挨拶こそしなかったものの、お茶を飲む仕草が美しかったそうだ。一目惚れ、というやつで、すっかり惚れ込んでしまったのだと彼は言う。
何を聞かされているのだろう、とプリシラはすぐに腹を立てることを止め、聞き流すことにした。さすがは王家、用意されたお菓子がとっても美味しいわ。そんなことを考えるように注力していたように思う。
一度目はあれで、二度目がそれ。三度目以降もずっとそうで、プリシラがヴィンセントに恋をする隙などなかった。なかったはずなのに。
「プリシラ嬢?」
――ハッとする。
眉を下げ、首を傾げたヴィンセントと目が合った。
寝室には現在、プリシラとヴィンセントの二人だけが残っている。ざっくりと概要だけを聞かされ、詳細は別室で、と言われてしまった。先に行くから二人で少し話して、落ち着いたらおいで。そう言われ、返事をする余裕のなかったプリシラを待たずライトニングたちは退室した。
何を語ると言うのか。八つ当たりのような気持ちが浮かんで、散らすつもりが思考が飛んだ。
「も、申し訳ございません……」
ライトニングの説明によると、ヴィンセントはプリシラに関する記憶だけがすっぽり抜け落ちてしまったらしい。
今朝のことである。昨夜プリシラを呼び出した件について問われたヴィンセントが、彼女を認識できなかったことをきっかけに発覚した。
すまない、と。ライトニングから追加の謝罪を受け、王と王妃からも新規に謝罪を受けたが、プリシラはそれどころではなくなった。
昨夜の衝撃が再燃し、身を焼く。
「すまない、君には迷惑をかける」
他に好きな女がいるから身を引け。そんな言葉で婚約を破棄すると告げられた。傷はまだ生々しくプリシラの心に残っている。だというのに、翌日にまた呼び出され、今度は君のことを忘れた、と知らされる。
神よ、一体どんな恨みがあってこんな目に遭わせるのか。
天からの祝福を一身に浴びているような男の子だと思った。しかしまさか本当に祝福されていたとは、思いもしない。
都合のいい話もあったものだ。婚約者という枠を外した途端、彼はプリシラのことを忘れてしまった。これまでの十六年は何だったのか。すべてを否定された気分である。
「謝罪には及びません。殿下にとって、わたくしの存在は快くないことと存じます。まずは御身のために、心を割いてさしあげてくださいませ」
笑顔の仮面を貼りつける。
「婚約者と紹介されても、殿下にとってわたくしは見ず知らずの女です。記憶が戻るまで、お会いするのは避けたほうが……――っ」
気づく。気づいた。
プリシラは先程、ヴィンセントの婚約者として紹介された。王も王妃もそれを否定しなかった。では、昨夜の婚約破棄の話は一体、何であったのだろう。
仮面が剥がれ、とっさに顔を伏せた。
ヴィンセントは昨夜、責任を持って新しい婚約者を見つける、とまで断言したのだ。手を尽くす、と。自身に瑕疵があるのだと、プリシラは悪くないのだと、納得させ双方が合意した上で手続きをするのだと思っていた。そこまでするのだから当然、王の許可は得ているのだと勝手に思っていた。
ヴィンセントの有責で婚約を破棄する。そうすることでプリシラの負う傷を浅くする。レイナードの怒りを小さくする準備を整えてから、説得の用意をしてから報告する腹積もりであったのだ、と。
勘違いだった。あれは、昨夜の一幕は、ヴィンセントの独断だった。
「プリシラ嬢、どうか顔を上げてくれ」
優しい、優しい声が降る。
「見ず知らずの女などと、そんな寂しいことを言わないでくれ」
「殿下……?」
「すまない。君のことを忘れておいて、都合のいいことを言っている自覚はある。でもどうか、俺に機会をくれないか?」
ヴィンセントが笑う。眉を下げた、ちょっと困ったような顔で、彼は笑う。
「俺にもう一度、君に恋をする機会をください」
ぐしゃり、と。
潰れてもうないはずの心が、再び潰れる音がした。