03
大騒ぎになった。
馬車で出かけた娘が徒歩で帰宅したことで、出迎えた両親は顔色を悪くした。特に父親のレイナード・エーゼライトは大変に荒れ、プリシラが持ち帰った馬車の扉を見るなり顔を真っ赤に染め上げた。口から文字通り火を吐いて怒る。
「何があった」
「襲撃に遭いました」
簡潔に告げ、眦を決したレイナードが声を荒げる前に、仔細を語る。
プリシラは襲撃と断定した。事故ではないだろう。帳が下りていた。
外からの侵入を拒み、内に閉じ込める。帳を下ろすことができるのは、魔法への高い適性を持つ者だけだ。一度、帳が下りてしまえば、光は翳り、音は霧散する。
街灯を消し、帳を下ろして。何者かが、準備をしていた。
一通り説明を聞き終えたレイナードの視線が鋭くなる。
「犯人はどうした」
抱えていた扉を渡す。
馬車を転倒させ、扉を開け放ったのは魔法だ。魔法とは、体内の魔力器官で生成された魔素を魔力へと変換し、放出する。主に火や水といった自然現象を具現化することを指す。その際、よほど魔力操作に長けた者でない限り、余剰魔力が残存する。過剰に放出した魔力が魔素へと分解され、残ってしまう。
今回は扉にべったりと貼りついていた。
「……素人だな」
「誰かに脅されたのでしょう。金で雇うのならもっと質のいいプロを選びます」
逃げ足だけは随分と早い。馬の姿がなかった。おそらくは連れて逃げたのだろう。馬車には王家の紋が入っているので目立つが、馬であれば誤魔化せる。あるいは馬が報酬であったのかもしれない。
「なぜ捕縛しなかった」
「面倒で、つい」
プリシラは、四男とはいえ王子の婚約者だ。対立候補もなく、名指しでの婚約だったこともあり、席を狙っていた同年代の娘の家からはかなりの恨みを買った。襲撃も暗殺も幼い頃からつき纏っている。
僻みや嫉妬の炎が鎮火しても、貴族のプライドは天井知らず。誇りを喰らい、面子で生きる。プリシラを消し、エーゼライト侯爵家を潰したい理由など、いくらでもどこからでも発生するのだろう。そういった連中の企みを踏みしめて、今のプリシラがいる。彼女が若くしてその名を大陸全土に轟かせていることには、貴族の腹のどす黒さが一役買っている。
飽きないのだろうか。殺意を向けられることに飽きたプリシラは、そう思う。
毒を盛られた。突き落とされた。刺された。殴られた。叩かれた。投げられた。折られた。轢かれた。絞められた。吊るされた。埋められた。沈められた。閉じ込められた。
人を殺すのって多種多様なのね。殺意を向け続ける彼らに呆れたプリシラは、そう嗤う。
「その慢心で食われるなよ」
「もちろんです」
犯人は顔も声も知れている。おまけに魔法操作技術は最低限の質しか保てていない。べったりと残った魔素を辿れば、捕まえることは難しくないだろう。
「お父さま、御者の顔を覚えていらっしゃいますか」
「……あいつか」
粗末な兇手もいたものだ。
どういう経緯で選ばれたのか知らないが、プリシラ相手に事故死の偽装は通じない。それこそ最も経験値が高いのが、事故を装った暗殺である。プリシラを乗せた馬車がこれまで一体、どれだけ破損してきたと思っているのか。
車輪は外れ、馬は逃げ、御者は消え、クッションからは毒針が飛び出す。……ステップが割れたときには思わず笑ってしまったが、キャビンの底が抜けたときにはさすがに笑えなかった。とっさに体を伏せ、土砂降りの雨に打たれながら自分の上を通り過ぎていく馬車を見送ったのだ。
それらすべてで、下手人を捕まえたのはプリシラである。自分を殺そうとした人間を自らの手で捕縛し、殺せと指示を出した人間の前まで引きずっていった。
「今回は王家の馬車を破損させたのですから、賠償金の額が楽しみですわね」
「そういえば、馬車はどうした」
「置いてきました。邪魔ですもの。帳を破る際に盛大な音を出しておきましたから、今頃は誰かが知らせているでしょう」
「帳を破る……相変わらず無茶をするな、お前は」
帳は本来、下ろした人間でなければ上げられない。破るとなれば余計に、その難易度は跳ね上がる。
「術者が劣るのです。あの程度、お父さまだって破れましたわ」
「どうだか……。まあ、いい。今日のところは休め。魔素の残滓は私が洗い出しておく」
「よろしくお願いします」
そこまで話して、プリシラは思い出した。
現場から姿を消した御者を捜しもせず、投げつけられたと思われる何かを探しもせずに、帰宅することを優先したのには理由があった。誰かが差し向けた粗末な兇手を面倒に思って、雑にあしらったわけではなかった。
プリシラはつい先刻、婚約者から婚約の破棄を言い渡されたのである。
急ぎ戻って、レイナードへ伝えなければ。……腹の底で拒む気持ちがあったのか、都合よく襲撃があったものだから、頭の隅に追いやっていた。
「お父さま、あの……――」
「プリシラ、今回の襲撃は大事になるかもしれん。休めるうちに休んでおけ」
「……はい、お父さま」
登城したその帰りに狙われた。乗っていた馬車は王家のもので、王家が雇っていた御者が兇手だった。登城した理由が王子の呼び出しであったのだから、よからぬ因縁を結びつける者も出るだろう。大事になる。レイナードの心配も当然だった。
エーゼライトの紅玉。
高位の魔法使いとして名を馳せるプリシラの強靭さは有名だ。しかしやはり、敵は多い。退けてきた兇手の数だけ、恥を食わされた貴族たちの恨みは増す。
守りは強固で、攻めは鋭利で、誰の悪意も容易く弾く。それでも親にとっては、ただの娘であった。願わくは身の危険とは皆無であってほしい。不安や恐怖を知らぬまま、毎日を笑顔で過ごしてほしい。
長く魔法使いとして生きてきたレイナードはまだ覚悟の一つも抱ける。しかし母親であるティナベルはそうではない。彼女は魔法適性こそ高いが、魔法使いではなかった。娘に降り注ぐ悪意を見るたびに、彼女は泣いている。
王子の婚約者だから。魔法使いだから。
理由をつけて、口実を見つけて、すっかり覚悟を決めてしまった娘の代わりに、母は泣く。青褪めへたり込み顔を覆ってしまったティナベルの姿を視界の端に捉えては、プリシラはそれ以上、レイナードへ言葉を重ねることはできなかった。
言われるまま、自室へ引っ込む。
「どうしましょう……」
気持ちが休まらない。体が休みたがらない。
ベッドで横になってしまうと、目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのはヴィンセントのことばかりである。
『心に決めた相手がいるんだ』
怒るには、ヴィンセントの恋に慣れ過ぎた。哀しむには、まだ現実を受け止め切れていない。喜ばしい気持ちでヴィンセントの恋を応援するようなことなどできるわけもなく。これから楽しいことをしようと思うには、気持ちの整理がまだできない。
行き詰っている。感情の置き場がない。
襲撃を受けたことで、気持ちが散ってしまった。余計なことをしてくれる。
「せめて、……」
ヴィンセントは本気の恋をしてしまった。
プリシラが今後、愛されることは決してない。恋の芽は完全に摘まれてしまった。
「わたくしの恋心だけでも、捨てなくてはいけないわね……」
諦めよう。捨てよう。この恋はもう、終わりにしよう。
十六年。深く握りしめ続けて、この恋もすっかりヨレてしまったことだろう。遂に手を離すときである。手放すときがきたのだ。
「さようなら、ヴィンセント殿下」
目を閉じる。頬を滑り落ちていった雫の意味を、プリシラは考えない。