02
プリシラとヴィンセントの婚約が決まったのは、風の精霊が春を知らせる一番風を吹かせた翌日のことだった。前日に雨を降らせた雲を根こそぎ追い出して、空は真っ青に澄んでいた。
地面は完全に乾き切ってはいないものの、草木に残る雨粒が陽光を弾く様は美しい。プリシラは雨上がりの景色が好きだ。
初めて顔を合わせるということで多少の緊張はあったが、会ってみれば何ということはない。ヴィンセントのほうがよほど緊張していたくらいで、自己紹介が済んでしまえば、彼はほとんど口を開かなかった。
寡黙な方だな。お腹でも痛いのかしら。そんな風に思っていた。
そうではなかったのだと、今ならわかる。
行きと同じ御者の操る馬車に揺られながら、プリシラは深々と溜め息を吐き出した。小窓の外の景色を見るともなしに見ながら、今後のことを考える。
すぐに伝えると約束してしまった。しかし父へ告げる言葉が一つも浮かばない。
婚約を白紙に戻す。ヴィンセントの有責で、他に好きな女ができたという理由で。……言えない。
プリシラは他に妃候補を挙げることもなく、名指しでヴィンセントの婚約者に据えられた。エーゼライト侯爵家は有能な魔法使いの家系であり、優れた魔法使いを多く輩出している。プリシラはそこで、稀代の魔法の才を持って生まれた。
魔法の才に乏しいヴィンセントを補い、支えるため。彼女が選ばれた理由である。
「はぁ……」
ヴィンセントの想い人が誰であるのか聞けなかったことが悔やまれる。
婚約は好き不好きではない。きちんと理由があって、利益に基づいて結ばれる。今回は魔法の才が理由で、プリシラの才能が王家の利益になるのだ。
エーゼライトの紅玉と称されるプリシラを補って余りある才を持った乙女など、今のウルザール王国には存在しない。少なくとも、エーゼライト侯爵家は把握していない。
しかし婚約を破棄するとヴィンセントは告げた。王家は見つけたのだろう。プリシラを補って余りある、才能豊かな高貴な乙女を。
「他国の姫君だったり、するのかしら……」
魔法に関することであればいかなることにも目を光らせているエーゼライト侯爵家であるが、さすがに他国のこととなるとその眼光はやや鈍る。だからこそ応じた縁談であったのだが、その鈍さで足をすくわれたのだとすれば笑えない。
どうしたものか。こぼれる溜め息が重みを増す。
――不意に、馬車が激しく揺れた。扉が開く。
「なっ……!」
何かに引っ張られるような感覚がしたかと思えば、プリシラの体は馬車の外に放り出された。とっさに魔力を練って、上空へと浮遊する。逆巻く風が何かを弾いたが、目視で確認することはできなかった。
随分と暗い。天を仰げば、そこには大きな金の三日月と、小さな銀の満月が寄り添っていた。月は二つとも顔を出している。にもかかわらず、不自然に暗い。
「帳が下りている……?」
遠い地面を見下ろすと、横倒しになった馬車の輪郭が朧げに確認できる。馬の姿はない。周囲に視線を走らせる。エーゼライト侯爵家のタウンハウスからほど近い、町のど真ん中である。付近の邸の窓はどこもカーテンを閉ざしており、住人が起き出してくる気配はない。そういえば、激しい揺れを感じてから今まで、音を聞いていないと気づいた。
高度を下げ、すぐに着地する。
街灯が消えていた。馬車がぶら下げていたはずのランプも見当たらない。
魔力を練る。
火の粉が舞う。火花が散る。
一閃。
ドォオンッ――……、と。
すさまじい轟音が空気を揺さぶった。
プリシラを中心に弾けた火花が尾を引いて天へ舞い上がる。月を焼くべく伸びた炎の粒はしかし、見えない壁に遮られ、上空で花々しく爆散した。
割れたガラスが破片を落とすように、砕けた黒い影が降る。それらは地面に触れるより先に、夜の闇へと溶けて消えた。月明りが降り注ぐ。
ヒールを打ち合わせてみれば、カツン、と音がした。
「ふぅ……」
帰ろう。
プリシラは馬車の周囲にさっと視線を走らせ、蝶番が破損し中途半端にぶらさがった扉を引き剥がした。
タウンハウスまではそう遠くない。重い扉を抱え、プリシラはえっちらおっちらどうにか帰宅した。