01
急な呼び出しだった。
約束もない。事前の連絡もない。突然で、唐突で、……しかし突拍子もないという程ではない。彼はそういう男であった。つまりは相手の――プリシラの都合を思いやってくれるような男ではないという意味である。ともかく彼はいつものように、いつも通りに、前触れなくプリシラを呼び出した。
プリシラ・エーゼライトは婚約者である彼の呼び出しに応じ、ぎっちぎちに詰まっている予定をすべて放り出して駆けつける。冷や汗をかきながら申し訳なさそうに、ともすると卒倒してしまいかねない蒼白な顔で、彼の伝言と共にプリシラを運搬する馬車を運んできた御者に、「あら、それは大変」と素っ気なく返事をして、大急ぎで準備を済ませる。
父親の「またか!?」という咆哮を振り切って、母親の「今から!?」という驚愕を無視して、プリシラはさっさと馬車に乗り込んで出発した。
またか、と言われれば、またである。
またも彼は、プリシラを呼び出した。応じてもらうことを前提として、当たり前のように呼び出した。
社交シーズンの真っ只中、婚約者が相手だからといってそう易々と呼び出せるものではない。予約もしていないのだからなおのこと、不可能といっていい。不可能を可能にしているのはひとえに、不可能を強行できるのはひとえに、プリシラが従順であるが故のことである。
彼女は逆らわない。彼女は断らない。プリシラ・エーゼライトは、彼――ヴィンセント・ザンダーからの要求を拒まない。
今から、という母の心配はもっともである。
太陽はとっくに沈み、空を彩る球体は月へと姿を変えている。そう遠くない距離であっても、夜間の移動はやはり危険だ。それでも馬車が迎えに来れば、プリシラは乗って行ってしまう。
自衛の術なら心得ている。
そう言って時間を問わず、プリシラは出かけていく。
親の心配は理解できるが、それでも婚約者の呼び出しを蹴るには至らない。
そうして駆けつけた王城で、通された応接間で、彼は静かにプリシラを待っていた
「プリシラ・エーゼライト、君との婚約を白紙に戻す」
改まって、改まった口調で、彼は言う。
いつになく真剣な声音だった。
ヴィンセント・ザンダー。金髪金眼、凛々しい顔立ちをした、ウルザール王国の第四王子である。
「心に決めた相手がいるんだ。身を引いてくれ」
謝罪も願いもなかった。
身を引いてくれ。ヴィンセントはプリシラの存在が邪魔だと、はっきりそう突き放した。
遂に、とプリシラは落胆する。遂にそんなことを言い出すまで思い詰めてしまったのか、と。
ヴィンセントは恋多き男であった。幼少の頃から変わらない、彼の悪癖。
彼はとにかく惚れっぽい。とにもかくにも惚れっぽい。
風になびく髪が好きで、前髪に隠れる額が好きで、陽光に照らされる頬が好きで、月光に照らされる唇が好きで、ティースプーンを操る手指が好きで、大きな胸が好きで、控えめな胸が好きで、引き締まった腰が好きで、ドレスの裾から覗く足が好きで。彼は女という生き物の、ほとんどすべての要素を余すことなく隅々までとことん愛することのできる男であった。
事あるごとに女に惚れて、その恋も冷めやらぬうちに他の女を好きになる。
これまでは、それだけで済んでいた。
好きになるだけで、それ以上には発展しない。好きになって、恋をして、想いを馳せる。ただ、それだけ。好意を伝えることも、恋心を示すこともせず、想いを積み重ねるだけで済んでいた。
新たな恋の到来が頻繁であったことも理由の一つだろう。恋が愛まで発展しない。恋心が愛情にまで進展しない。
「わたくしとの婚約を継続することが困難なほど、本気になってしまわれたのですね」
「すまない……」
静かな声が、彼の本気を訴える。
覆せない。プリシラはすぐに諦めた。
婚約が結ばれたのは四歳の頃、期間は十六年に及ぶ。それだけ付き合っていれば、ヴィンセントが本気であるかどうかくらいは判別できる。これはちょっと、どうしようもない。恋多き婚約者にただの一度も恋してもらえなかったプリシラでは、彼の心を引き留める術がない。
「……わかりました。すぐに解消の手続きをいたしましょう」
「破棄だ」
「ぇ、……?」
「この婚約は解消ではなく、破棄する」
どうして……。
口端から言葉がこぼれ落ちた。わざわざプリシラを呼び出して、双方の合意を得たうえで白紙に戻そうとしたにもかかわらず、なぜ傷を負わせようとするのか。婚約の破棄は不名誉なことだ。名誉の傷は貴族を容易く殺す。
プリシラは現在、二十歳、次の誕生日で二十一歳になる。新たな婚約者を見つけ縁談を申し込み、婚約を結ぶには、厳しい年齢であった。この国の成人は十六歳、二十歳であればとっくに結婚が済んでいる年齢である。
待たせていたのはヴィンセントであったのに。
「君に瑕疵はないが、俺にはある。けじめだ」
そんなところばかりに真摯で、潔くて。
嫌になる。
「新しい婚約者は責任をもって見つける。いい縁談になるよう、手を尽くす」
すまない。
ヴィンセントは深々と頭を下げた。頭を上げてと頼む言葉は、口から出てきてくれなかった。代わりに別のことを言う。
「殿下は今、どなたに恋をなさっているのですか……?」
それくらい知る権利はあるだろうと、そう思った。
どこの誰が、ヴィンセントの心を射止めたのか。プリシラは誰に負けたのか。
「っ、い、言えない……!」
心臓が一度、大きく跳ねた。
「知る必要はないと、そういうことでしょうか」
「これはただの恋ではない。本気なんだ」
「でしたら余計に、気になりますわ。わたくしには終ぞできなかったことを、見事に果たしたご令嬢がどなたなのか」
「言えない」
頑なな態度だった。こんな姿は、これまで一度として見たことがない。
「捨てられた君が、彼女を害するかもしれないだろう……」
言えない、とヴィンセントは繰り返す。
胸を裂かれたのかと思った。心外だ。心が外にこぼれてしまうところだった。
その程度の女だと思われていた。ヴィンセントが心を寄せる女を、妬心で害するような、そんな浅ましい女だと。十六年もそばにいて、プリシラに対する評価はそんなものであったのだ。
興味がなかった。関心を向ける気もなかった。
捨てる間際に、突きつけなくてもいいだろう。
唇を噛みしめそうになる己を律して、短い呼吸で気持ちを無理やり整える。
「委細承知いたしました。戻り次第、すぐに父へ伝えます」
悪足掻き。にっこりと、渾身の笑みを彩る。
「さようなら、ヴィンセント殿下」
笑顔の奥でぐしゃりと、おそらくは心と呼ばれる臓器が、潰れる音が聞こえた気がした。




