出会い
サワサワと木々の隙間から風が通り抜けていく音がする。耳を澄ませば鳥の鳴き声に混じって微かに聞こえる自動車や電車が走る音。ゆっくり空気を吸えば、昨晩雨が降ったせいか湿った土の香りがする。
ああ今日もいい天気だなあ。と山のてっぺんで独り言ちた。
朝食を食べた後、近所の山に登るのが僕の日課だ。片道30分程度で登れる低い山だが、頂上にはベンチも置かれており眺めも良いので気に入っている。天気の良い日は必ずと言って良いほどこの山に登っていた。
そうしていつものように暫く風景と空気を堪能した後、僕は山を降りる為にゆっくりと立ち上がった。
違和感に気づいたのは家に戻り少し経った頃だった。一息つき庭の草木に水をあげていた時にふと部屋の時計を見ると14時になっていたのだ。
「あれ…?いつも山から戻る時間って大体9時半くらいのはずなのに」
部屋の時計が狂ったのかと腕時計を見るがこちらも14時だった。気づかない間に山で4時間以上も過ごしていたのだろうか。そんなはずはない、山を降りる前に時計を見たのだ。確か9時前だったはずである。一度感じた違和感はどんどん大きくなっていく。そういえば、辺りがいやに静かだ。
御近所さんの畑作業の音が聞こえない。
車の音が聞こえない。
人の歩く音が聞こえない。
人の声が、無い。
「…………ッ!?」
弾かれたように門扉を出て周辺を見渡す。住宅地の間にぽつぽつ田畑が広がるいつもの風景だが、人が一切見当たらないどころか声すら聞こえない。ここは郊外ではあるが、ど田舎でもなく人口はまあまあいる方だ。だのになぜ、視界に人が入らず話し声や生活音が聞こえてこないのか。何かがおかしい、そう思った僕は交通量の多い大通りへ走った。
向かっている間にも誰かとすれ違うこともなく目的地へ近づいていく。道中の家に、前を通る度吠えてくる犬がいるのだが今日は静かだ。
そっとその家の庭を覗いてみたが、犬小屋があるだけで犬は居らず家も無人のようだった。
「…きっと散歩に出てるんだ。こんな時間にあまり大通りに向かわないから、僕が知らないだけなんだ」
そう言い聞かせ、足を進める。
大通りは静かで、とても賑やかだった。
信号は狂うことなく正確に色を変え続けていたし、歩行者信号はカッコーと鳴いている。カフェからは明るい音楽が聞こえてくるし、スーパーではいらっしゃいませー!本日の大特価!と録音された音声が外まで響いている。何も変わらない普段の風景が、そこにはあった。
人が全くいないことを除いて。
車なんか1台も走っていなかった。スーパーや飲食店にも人の姿は一切無い。誰もいないのに商品はきれいに陳列されているし、レジも起動していて、商品を持っていけば裏からすぐ店員さんが出てきてくれるんじゃないかと思ったほどだ。まるで普段の日常から人間の存在だけをきれいさっぱり消してしまったかのように。
「……何なんだよ。一体、何が」
もしかしてこの世界に僕一人?そんなよくあるファンタジーみたいなことが起こるわけ…と思った時にざあと背後から風が通り抜けていく。途端に背筋が一気に寒くなった。
「だ…誰か!!すみません誰か!誰かいませんか!!」
声を張り上げた。返ってくる声は、ない。
「困っているんです!誰でもいいんでし!っど、どなたか!いいいいませんか!」
声は裏返るし噛むし吃るしで散々だ。だがそんなことはどうでもよかった。誰でもいいから今すぐ人に会いたかったのだ。
大通りを抜け住宅地に向かい1軒1軒周ってみるが、答えてくれる家は一軒もない。男の声と共に、チャイムとドアを叩く音が辺りにけたたましく響き続ける。家の者でなくても異変を感じた近所の住人が窓から覗いたり、ここへ駆けつけたりしてくれるかもと淡い期待をしていたが、虚しく時間だけが過ぎていった。
「……だ…れか…、い…ませんか……」
町中を走り回り、声は擦れ、気付いたら日は沈みかけていた。駅や公園、人が集まる場所は全て行ってみたが誰一人としていなかった。
どうしてこんなことに……朝は普通に車は走ってたし畑作業をしている人もいたはずだ。ご近所さんに挨拶だってした。山に行っている間になにが起こったんだ。僕はこれからずっと一人なのか?そもそも町の皆は無事なのか……?人がいないのはこの町だけ?それとも……
ネガティブな感情が胸の中をぐるぐる回る。不安と疲労で吐きそうになりながらも、近所まで帰ってきた所で18時を告げる町内放送が流れた。黒に染まりかけた赤い景色の中に独りぼっち。
音楽だけが不気味にどこまでも響き渡る。
「…こんな時に夕焼け小焼けは凄い精神にくるなあ」
はははと自傷気味に笑いながら顔を上げた瞬間、スウと路地に消えていく黒い人影が見えたのだ。
「!!!……待ってください!」
疲れた体に活を入れて追いかける。
「すみません!あの少し話を……僕は……ッあ!?」
見えた路地を曲がろうとした途端足がもつれ盛大に転んでしまった。受け身が取れず右膝右肩を思い切り打ちつけ、鈍い痛みがじいんと走る。
「っつ……あぁもう……くそ、本当になんなんだよ。なんで僕だけこんな目に…」
じわじわと目に熱が浮かんできた時、ふと顔に影がかかった。
ゆっくりと目線を空へ上げると一人の少女が僕を覗き込んでいた。