04.どうやら異世界転移モノ
腐った肉を爪で引っ掻き抉り取ったあの感覚。鼻が潰れるような腐臭。降りかかった血の生々しさ。
本当はわかっていた。多分、これは夢じゃない。だってあまりにリアルだ。化け物に追いかけられたのも本当、死にものぐるいで走ったのも本当、殺されかかったのも、本当。
認めたくなんかなかった。否定したかった。
なのに、あの瞬間、思い知ってしまった。
これは夢じゃない。──紛れもなく、現実なのだと。
「……いか、絶対に、ぜっ、たい、に、余計なことは喋るな。口から出すのは空気だけにしろ」
「わーってるよ。ほんと信用ないのな俺」
「黙るついでに今までの素行を振り返ってるんだな」
──声が、聞こえる。
私はゆっくりと瞼を持ち上げた。途端に、目と鼻の先に白い毛玉があって声を上げそうになる。
何とか押し留めたが、身体が不自然に動くことまでは防げなかったようだ。話し声がぴたりと止む。
「……ニァ」
毛玉、もといあの白い小動物と、ばっちり目が合っていた。寝たふりは、もう無理だろう。もぞりと身体を起こす。
「う……」
頭が痛んだ。泣き疲れて眠ったあとみたいだ。額に手を当てようとして、思うように動かないことに気づく。視線を手元に落として、硬直する。
私の両手首には銀の鎖が巻き付いていた。一瞬、脳が理解を拒否した。
「……は?」
ついでにいうと足元でもじゃらりという音がした。掛けられていた毛布を除けると、やはりというべきか、しっかり足も拘束されていた。
「…………は?」
「やっと起きたか」
声がした方に顔を向ける。
金属のような声だ。冷たく、硬く、威圧的な声だった。それが真っ先に思ったことだ。
だが、その声の主の外見はまったく予想だにしない姿をしていた。
二十代半ばくらいの青年だ。裾の長い白い服に、青地に銀の刺繍の入った布を重ねている。RPGでいうところの僧侶や神官のような出で立ちだった。日本じゃそうそう見かけないファッションだろう……そもそも日本人ではなさそうだが。
腰まで届く長い髪は緩く波打っており、光を弾くような銀色。こちらを油断なく見据える双眸も、男性にしては長い睫毛も銀。
そして何よりも──凄まじく整った顔立ちだった。イケメン、なんてものじゃない。美形でもまだ足りない。いっそ神々しささえ感じるほどの美貌だった。
「まだ寝ぼけてるのか。呑気だな」
ただし、どうやら口が悪い。外見は人間でなく天使ですと言われても納得しそうなほどなのに、口調はただのガラ悪い人である。
「……ここは」
「麓の街の宿だ」
ぶっきらぼうな物言いには敵意が見え隠れしていた。私は辺りを見回す。私の横にはあの真っ白い小動物がいて、私をじっと見上げていた。ガラの悪い銀髪お兄さんの後ろには、遺跡で出会った赤髪の男の子がいる。
三人と一匹が今いるのは小部屋だった。四畳半ほどの部屋で、シングルサイズよりも一回り小さい粗末なベッドの上に私は寝かされていた。その横にもう一台ベッドがあって、銀髪の青年が腰掛けている。部屋にある家具といえばそれくらいだった。ちなみに、男の子は出口に近い壁に背を預けている。
「────」
思い出した。
思い出してしまった。
押し黙った私の様子に、青年も察したらしい。秀麗な顔はこれでもかというほどに仏頂面だった。
「騒いだら殺す。逃げようとしたら殺す。これからする質問に嘘をついても殺す。いいな?」
「…………」
同意したというよりは、混乱と恐怖で答えられなかったというのが正しいのだが、青年は検分するように私を見据えた。
「まず一つ目。貴様、名は」
「名前……、っ」
口に出そうとして、何故だか舌が動かなかった。動かし方を忘れてしまったかのように。そんな私を見て、青年が不機嫌そうに眉根を寄せる。
「追加だ。黙秘しても殺す」
「わかってます! ちょっとびっくりしただけで、私の、名前は──」
やはり、出てこない。
信じられない気持ちで俯くと、私の足元にスクールバッグが転がっているのに気づいた。外ポケットから見えていたものに心臓が跳ね上がる。手枷をもどかしく思いながら手を伸ばして引き抜く。ページを捲って文字列を追う。読み上げる。
「──春日陽乃。かすが、ひのです」
「カ……?」
「陽乃が名前で、春日が苗字です。……ヒノ・カスガの方がわかりやすいですか?」
生徒手帳を握りしめて、私は噛みしめるように述べた。
まさか自分の名前が出てこないとは思わなかった。混乱しすぎだ、落ち着かないと。開かれた生徒手帳の一ページ目には、私の基本情報と、それから入学時の顔写真が載っている。黒髪黒目の、平均的な顔立ちの少女。肩につくくらいの髪は、二年生になった今は鎖骨の下くらいまでに伸びている。写真を見つめていると少し落ち着いた。
大丈夫、私は私だ。冷静にならないと。
本当は今すぐ、ここはどこだと、家に帰りたいと叫びたい。だが、多分今混乱に呑まれたら終わる。青年の『殺す』という言葉は、きっと脅しではない。
「二つ目だ。どこから来た?」
「……──県──市です。日本の」
「ニホン?」
国名まで告げてみせたが、青年は聞き慣れない言葉のように繰り返した。
予想通りとはいえ、心臓が軋んだような錯覚を覚える。
「どこだそれは」
「……日本は、日本ですけど」
「街の名か?」
「国です」
「聞いたことがないな」
「……私たちが今話しているのは日本語、ですよね?」
「七神語だろうが」
「……聞いたことがないですね」
話が噛み合わなすぎてコントでもやっている気分になってくる。
「……あの、本当に、確認したいだけなんですけど。冗談とかドッキリとかじゃ……あ、違うんですね、ナマ言ってすみませんでした」
美形が睨むと迫力が凄かった。
「いやでもほんと、ちょっと理解が追いついてないっていうか……ドッキリじゃないならつまりあなたは女子高生を縛って誘拐する変態、ということに……いやほんとすみませんでしたごめんなさい黙りますごめんなさい」
「……随分余裕だな?」
「……追い詰められると口の回りが良くなるんです、私」
もっともな指摘に思い切り目を逸らした。
普段はけしてお喋りな方ではないのだが、追い詰められた時、頭が真っ白になった時、私は異常に口が回るという妙な癖がある。逆ギレ……ではないと思うのだが自信はない。しかもだいたいいらんことを口走って益々ドツボにはまるという、悪癖である。
「聞かれたことにだけ答えろ。どうやってあそこに入った? あそこは皇家の所有地だ、許可なくして侵入すれば死罪のはずだが?」
「死罪!?」
あまりに物騒な言葉にぎょっとする。
「しし、死罪ってあの、吊るされたりとか!?」
「一級反逆罪だからな。拷問の末斬首あたりが妥当だろう」
ぞっとする。どうあがいても絶望、という言葉が頭の中を流れて行く。
「……が、喜べ。俺にその権限はないし、おまえを皇国軍に突き出す義理もない。質問に答えなければどのみち殺すがな」
青年がちらりと私の背後を見やる。振り返ると、壁に寄りかかった赤毛の少年が大欠伸をしているところだった。私たちの視線に気づくと慌てて真顔になり、態とらしく腰の剣の鯉口を切った。
「……ラザ」
「ごめんて」
頭を抱えた銀髪のお兄さんがド低い声で少年の名を呼んだ。ラザ、というらしい。──じゃあもしかして、彼が遺跡で口にしていた『セダ』というのが銀髪のお兄さんの名前なのだろうか。確かにすぐ殺すぞって言うし。
「とにかくだ。貴様は何故あそこにいた? どうやって侵入した?」
「……気がついたらいたんです。信じてもらえないかもしれませんけど」
「もう少しマシな嘘なら信じてやれたがな」
「言い訳じゃありません。事実です」
少し迷ったが、続けることにした。
「学校からの帰り道に、川に落ちて……気がついたらあの場所にいました」
私は目を伏せた。言葉にすると、わけがわからない状況だというのが改めて突きつけられた気がする。
誰か、私に教えて欲しい。何が起こっているのか。情報が欲しい──この人に、正直に何もかも話していいのか、その判断すらつかない。
怖い。
俯く私をよそに、青年が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「川なんざなかったがな。いきなりあの場所に降って湧いたとでも? それとも」
青年が告げた。続いた言葉に私は目を見開く。
「──別の世界から来た、とでも言いたいのか?」
「……え」
顔を上げた。青年はそんな私を見て、苦々しげな顔をしていた。
「……何で、それを」
「……最悪だ」
その言葉は、私に向けたというよりは独り言のようだった。あるいは私以外の別の誰か。青年がちらりと、私の足元、ちょこんと座っている白い小動物を見やって、すぐにまた私へと視線を戻した。険しい視線だった。
「よりによって『世界渡り』か」
「ラプス、って何ですか!? ここ、本当に私の世界じゃないんですか!? 何が起こってるのか私本当にわからなくて……、私、元の世界に戻りたいんです!」
堰を切ったように言葉が溢れ出す。血相を変えて詰め寄る私に、青年は億劫そうに口を開いた。
「近寄るな、汚れる。──世界渡りというのは、門をくぐった者を指す言葉だ。珍しい存在だが、記録がないわけでもない」
さらっと酷い事を言われたのはさておき、ようやく得た情報だ。
「門、って」
「この世界と別の世界を繋ぐ門だ。何か予兆がなかったか?」
「……声。声を聞きました! 『こちらへおいで』っていう、声! それで私、川に引きずり込まれて!」
「ならその声の主探し出して送り返してもらえ」
私は絶句した。
そんなの、無理に決まっている。声だけで誰かを探し出すなんて。
「そんなのできっこないじゃないですか!」
「だとしても、俺たちには関係のないことだ。そもそも帰し方なんざ知らん。世界と世界を繋ぐ、なんて馬鹿げたこと、ただの人間にできると思うか?」
青年が立ち上がった。ぱちり、と指を鳴らすと、私の手足を戒めていた枷が一瞬にして消える。呆然とする私を見下ろす銀の双眸は、どこまでも冷たかった。
「おまえの言い分は信じてやる。だがそれだけだ。俺にはおまえを助けてやる義理も義務もない。この街を発つまでは面倒を見てやるが……何かあっても次は助けない。嫌なら大人しくしてるんだな」
「待っ……」
それだけ言い置いて、青年は私に背を向けた。歩みの先にはドアがある。道すがらに少年の首根っこを掴み、部屋から出て行く。私の隣にいたはずの白い小動物も彼に続いた。
戸を閉める音が虚しく響き、部屋には、私だけになる。
「嘘でしょ……?」
本当に異世界だと、思っていたわけじゃない。──異世界なんてあるわけがないと、笑われていたらどれだけよかったか。
信じられるわけがない。見知らぬ声を聞いて、川に引きずり込まれて、気を失って、目覚めたら異世界だなんて。
本当にここが異世界だとして、私にどうしろっていうの。知り合いもいない、家もない、お金だってない。そんな十六の小娘がひとり異世界に放り込まれて、どうしろというの。
私は自らを抱きしめた。腕を押さえても、震えは止まらない。一人きりの部屋の中で私はうずくまる。不安と恐怖と孤独とが、私の両肩にのしかかってきて押し潰されてしまいそうだと錯覚する。
私は目を閉じた。そうでもしないと、涙が零れそうだった。
泣くな、めげるな、挫けるな。夢なら醒めてよ、早く。そう呟きながら、震えるしかなかった。