03.夢か、それとも
走る。走る。走る。
入り組んだ通路を私は走り続ける。道順なんて覚えていない。直感で曲がる方向を選んで、また走る、その繰り返しだ。喉の奥に血の味がせり上がって来る。それでも走る。
そうして、見えた。出口だ。外だ。
「っ、はぁっ、はぁっ」
出口まであとほんの数メートルといったところで、安心したのも相まってかついに足を止める。通路の壁に寄りかかり、暴れる心臓を宥めつつ、耳を澄ませる。聞こえる音といえば自分の切れた息だけだ。逃げ切れた、のだろうか。
「っ、はぁっ、はーっ……」
こんなに走ったのは久しぶりだ。体全体が心臓になったかのように、血流の音がうるさい。
だがまだ油断は禁物だ。ここがどこなのかさえわかっていないのだ、どうにかして現状把握しないと。把握して、帰らないと。バイトだって確実に遅刻しているだろうし。一日休むだけで家計は回らなくなるのだから。
「……よし」
真っ先に心配するのが生活費のことだというのが我ながら悲しいが、だいぶ混乱から抜け出せてきた。まだ呼吸は整わないが、よろめくようにして外に踏み出す。立ち止まっている暇はない。
そして、私は言葉を失った。
「……嘘」
零れ落ちた言葉は、風が搔き消した。身を切り裂くような風がセーラー服をはためかせ、容赦なく私から体温を奪う。だが、そんなことはどうでもよかった。
出口からたったの五歩、そこは断崖絶壁だった。右手には緩やかな斜面が続いていたから、ここが行き止まりというわけではない。問題は、眼下に広がる世界だ。
白い世界だった。霧ではない、──雲海、だ。遥か彼方に、白と青の境界線が見える。見上げると、太陽と、そしてその周りを囲うように淡く発光する、虹色の光の螺旋が見えた。
「──」
美しい光景だった。
この世のものとは、思えないほどに。
まるで高い山の頂上にいるかのような光景に、呼吸さえ忘れて立ち尽くす。私の肩から、かけていた通学鞄が滑り落ちた音で我に返る。
何だこれ。
──何だ、これ。
「……っ、スマホ!」
足元に転がったスクールバッグに飛びつき、中身を漁る。内ポケットの中にスマートフォンを見つけた。無我夢中で液晶を覗き込む。
電波は、立っていなかった。
(落ち着け、落ち着け私)
叫び出したいのを堪えてスマホを操作する。電波は入らないから、GPSアプリの応答は当然ない。バイト先に電話をしてみても、もちろん繋がらない。希望が、一つ一つ絶たれていく。
現在時刻は午後三時半。私があの橋の上で最後に時間を確認したときから、一時間も経っていない。それの意味するところに気づき、私の身体が一層大きく震える。
一時間も経っていないのだ、国外どころか県外に出るのも難しいだろう。それに、あのコスプレ男子が話していた言葉だって日本語だった。ならここは日本だ。日本のはずだ。
なのに、この景色は一体なんだろう。
まるで、雲の上にある遺跡のような、この場所は。
スマホが手の中から滑り落ちた。震えが止まらない。肩を抱いて止めようとしても、小刻みな揺れは止まらない。震えが唇に伝播したかのように、呟きが一つ零れ落ちた。
「ここ……どこなの……」
✳︎✳︎✳︎
帰りたい。
鬱蒼とした森の中を、その一心で私は進む。唯一の持ち物である通学鞄をしっかり握りしめて、足早に歩く。
あの後、何とか立ち上がって、右手に見えていた下り道に足を踏み入れた。先の見えない道を進むことよりも、あのままあそこで座り込んでいることの方がずっと恐ろしかったからだった。
斜面は霧深く視界が悪かった。やっとの思いで霧を抜けた途端、森の中に切り替わる。振り返ると霧どころか下り坂もなくなっていて、三百六十度、木しか見えなかった。わけがわからなすぎて、もう笑えてきてしまう。
下り坂が消えたせいでもうあの遺跡のような場所には戻れないだろう。戻る気もないけれど。
辛うじて道と言えなくもない獣道を黙々と歩く。ローファーが山歩きに向いているはずもなく、既に足が痛い。それでも立ち止まる気にはなれなかった。
その、はずだったのだが。
──ぽてぽて。
「……」
何かいる。後ろに、何か、いる。
──ぽてぽてぽてぽて。
「……………」
こうとしか表現しようのない変な足音だ。明らかに人ではない気がする。私のすぐ後ろについて、歩いている。
努めてそちらを見ないようにしていたのだが、もう限界だった。気になって気になって仕方なかった。走って撒く、のはさっきやったが、それでも離れなかったので、疲れるだけだと判断してやめた。
意を決して足を止める。振り返る。目を見開く。
「……何これ」
「ニァ」
そんな言葉が思わず零れるくらいには、奇妙なモノが、そこにいた。
小動物だった。犬でも猫でも狐でもない。それどころか、私の知っているどの動物とも一致しない。
丸っとした身体を四つの短い足が支えている。真っ白な毛並みは柔らかそうで、兎のような長い耳の先だけ金毛だった。何だっけ、あの足の短い猫──思い出した、マンチカンだ。無理やりに既知の生物に当てはめるなら、マンチカンが近いかもしれないが、それにしては明らかに耳や尾が長いし、顔つきも違うし。
何より、目が。
蒼に金色が散った不思議な虹彩だった。宇宙の欠片をはめ込んだような。
奇妙な小動物はただじっと私を見上げていた。仕方ないので私も見つめ返す。ソシャゲによくいるマスコットキャラクターみたいだな、何て思いながら。
「…………やっぱこれ、夢っぽいなあ……」
だってそうだろう。目覚めたらいきなり知らないところにいて、死体があって、殺されかけて、何とか脱出したら雲の上で、かと思ったら森に迷い込んで、その果てに謎の小動物。
あ、夢だわ。
むしろそれ以外に何があるのか。よし、夢だと断言したら少し楽になってきたぞ。屈みこんで、小動物の顔を覗き込めるくらいには心に余裕ができた。手を伸ばして綿毛のような毛並みに触れようとすると、いきなり噛み付かれた。
「いっ……!?」
普通に痛かった。明晰夢にもほどがある。手をさすりながら小動物を涙目で見やると、獣はぷいっとそっぽを向いた。気安く触れるなとでも言わんばかりに。小動物のくせに。
「夢でも結構痛いんですけど……」
触るのは諦めて、話しかけることにする。
「ねえ、出口がどこか知らない? この夢から覚める方法でもいいけど」
どうせ夢だし、夢ならいっそファンタジーを貫き通して、小動物が喋るなんていうとんでも展開に期待してみる。
が、私の問いを受けて、小動物は蒼い目を私に向けると、呆れたようにため息をついた。
繰り返すが、ため息をついた。小動物が。小動物のくせに。
明らかに「こいつ馬鹿じゃね?」という目だった。私を圧倒的に格下と認定していた。
「し、仕方ないじゃん! こっちだっていっぱいいっぱいなんだってば!」
小動物を相手にむきになる私もどうかと思うが、それ以上に、小動物の視線が痛かった。尚も言い募ろうとした瞬間、小動物がぴんと耳を立て、身体を低くした臨戦態勢を取る。
──ア ア゛ ァガ グァ……
「!?」
遅れて私も、低い唸り声を聞いて飛び上がりそうになった。慌てて立ち上がると、数メートル先、誰かが立っていることに気づく。
『誰か』──そう、それは確かにヒトだった。少なくとも、形は。形だけは。
ボロ切れのような衣服の裂け目から覗いていたのは、灰色の皮膚だ。腹からはどす黒く変色した内臓が零れ落ち、ソレが唸る度にぶらぶらと揺れていた。右足首から先はなく、剥き出しになった脛骨の先端がそのまま地面に突き立てられている。
視線を上げていくと、抉られたような断面を見せる首があり、その上に、肉が半分腐り落ちた頭蓋骨が乗っていた。虚ろな眼窩の中には、眼球の代わりに蛆が蠢いていた。
化け物だった。化け物が、私を見て、嗤っていた。
──セイジャ オン ナ オンナ クイタ イ クイタイクイタイクワセロクワセロォォオアァァア!!
「────!!」
足元の小動物がすぐさま身を翻して来た道を駆けていった。足が竦まなかったのは奇跡に近い、私も一目散に回れ右して小動物を追いかける。
(やばい、やばい、やばいやばいやばい!!)
唐突にファンタジーからゾンビホラーへと変化した夢の世界(推定)を走る。振り返る余裕などないが、それでもわかる、追いかけられている!
何故デッドがウォーキングしているのかわからないが、とにかく! ただ! 走る!
「……ッ!?」
整備されていない獣道だ、木の根に蹴躓いて転びかける。何とか踏み止まるが、その代わりに見てしまった。先ほどの化け物を先頭として大挙する、ゾンビの群れを。
考えるより先に足が動いていた。走るというよりむしろ足をひたすら交互に前に出しているといった方が正しい。小動物の姿はもう見えなくなっていた。置いていかれた。逆の立場なら私だってそうするけれども!
「っ、あ……ッ!」
何かに突っかかって今度こそ転んだ。膝を擦りむいた痛みに顔を歪めながら足元を見ると、壊れかけだったローファーが完全にお亡くなりになっていた。こんな獣道、この子が耐えられるはずもなかったのだろうが、今じゃないだろと叫びたい。
唸り声が、すぐ近くから聞こえた。鼻をつく腐臭にえづきそうになる。振り返れば、鼻先にまで屍肉の手が迫っていた。
「ひ……!」
思わずその手を振り払う。爪の先が引っかかって、骨から屍肉が剥がれ落ちた。おぞましい感触に背筋が凍る。
化け物は、肉が削げ落ちても痛みなど感じていないらしかった。その手がまた私に伸ばされる。
いつのまにか囲まれていた。──逃げられない。
「あ……」
逃げられ、ない──。
「っ、やだ、やだ、やだあぁっ!」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
誰か。誰か。誰か。
「たすけて、おにいちゃ……」
──私の横を誰かが、一陣の風のように駆け抜ける。白刃が閃いて、私をまさに食らおうとしていたゾンビの頭部が水平に両断された。勢いのままに飛んだ頭部は軌跡を描いて私の真横に落ちる。泥水のような腐った血を撒き散らしながら。びしゃ、と、私の頰に腐水がかかる。
ついで、返す刃が化け物の身体を両断すると、先頭の一体目が崩れ落ちる。一体目が動かなくなるのを見届けることすらせずに、二体目、三体目と彼は斬り伏せて行く。
ゾンビの中心、流れるように双剣を振るう彼を、知っていた。つい先ほどまで、彼から逃げていたはずだった。
「これで、終わりっ!」
叫び、そして最後の化け物が頭を蹴砕かれて声もなく倒れた。十数体のゾンビが、ただの一瞬、それもたったひとりの少年の手で、倒されていた。
折り重なる屍の中心で、少年が剣を振り、血を払ってから両腰の鞘に納める。そして私の方に向き直り、口を開いた。
✳︎✳︎✳︎
地面に座り込む少女は、中々に酷い有様だった。珍妙な服から覗く足は擦り傷だらけで、屍人の返り血やら肉片やらが髪や顔に降りかかっていた。乱れた前髪の隙間から、茫然とした瞳がラザを見上げている。
「あー……平気か?」
返答はない。走って逃げていたからか、少女は肩で息をしていた。この沈黙どうしよう、と困りかけたところで、獣道の向こうからセダウェンが姿を見せる。
「セダ! おっせえよ!」
「だーかーら! てめえが突っ走り過ぎだと何べん言わせりゃ気がすむんだ、ああ!?」
およそ聖職者とは思えぬ口の悪さでセダウェンが怒鳴る。常ならば蹴りの一つでも入れられそうな剣幕だったが、ラザが立っていたのが屍人のど真ん中だったせいで、潔癖症の気があるセダウェンは近寄っては来なかった。
そのセダウェンの肩には、小動物が大儀そうに乗っていた。純白の毛並みに身を包んだ耳の長い獣は、この辺りの地域ではよく見かける、『ファニア』という小獣である。
「だって、とにかくヤバいから早く行けってせっつかれたし」
ラザがファニアを恨めしげに見やると、白い獣はつん、と顔を背けた。助け舟を出す気はないらしい。
セダウェンはまだ説教したりないようだったが、倒れた屍人を前に無言を貫く少女の後ろ姿を銀の双眸に納め、表情を引き締めた。懐から呪具を抜き出し、警戒しつつ歩み寄る。
屍人。別名、『成れ果て』。この聖域に資格なくして入ったものは、やがては生きながらにしてその身が腐り落ちる。そういった呪いが、この古城──『皇家の霊廟』にはかかっている。
見たところ、屍人たちは服装からして殆どが盗掘者のようだった。たまに皇国兵の装備を身につけたものがいるが、だいぶ年月が経過しているから、セダウェンらがこの古城を訪れた目的と関わりはなさそうだ。そこまで思いかけて、セダウェンの目が一点で止まった。
新しい矢が、一体の頭部に突き立っていた。矢羽には白地に赤の染め抜きがある。肩に乗ったままのファニアも気づいたのか、纏う雰囲気が変質した。
「──宰相の紋章だ。つまり、あいつの兵がここに来ているということだ」
「うへぇ……じゃあ鉢合わせするかもしれねえってこと?」
「とっととここを離れれば問題ねえだろ」
だが、それをするにはあと一つ、障害がある。セダウェンは、座り込んだまま押し黙る少女をじっと観察した。
見慣れぬ格好をしていた。ひだのある短い腰布と長袖の上衣は揃って灰色で、土埃に汚れてはいるが、そこらの庶民の服よりは上等な生地だろう。だが、セダウェンの知識にあるどの国の衣装とも一致しない。黒髪に、そして茶色がかった黒い瞳にも僅かな驚きを覚えたが、それよりも彼女の顔立ちの方が重要だった。
少女は、あまりにも『彼女』と似ていた。肩に乗った獣を窺うが、感情など読み取れる筈もない。
「……そいつか?」
「おう。祭壇で会ったやつ。さっきはうるさいくらい喋ってたんだけどなあ……」
その様子を見てないから何とも言えないが、少なくともラザには言われたくないだろうな、とセダウェンは内心でつっこむ。何も言わぬ少女に業を煮やしたのか、ラザがその顔を覗き込んだ。
「どうしたんだよ。びびってんのか?」
返事はなかったが、彼女は震える指先で自らの頰に触れ、そして、掌へと視線を落とした。白い掌には、べったりと、汚泥のような黒血が細かな肉片とともに付着していた。
「……、じゃ、ない」
彼女の息は荒い。最初は走ったせいかと思ったが、なら、己の手を凝視したまま小刻みに震えているのは何故なのか。
「屍人ならぶっ倒したからもう平気だっての。ほら」
ラザが手を差し伸べる。不審な人物への対応としては甘いのではないかとセダウェンは思ったが、何も言わずに少年と少女のやりとりを眺めている。
少女の瞳が、自分の掌から、少年のそれへと動いた。少年の掌もまた、返り血で汚れている。彼女は大きく目を見開き、さらに震えが激しくなった。そして、彼女が動く。
「おい、だいじょ」
「っ、近づかないで!」
ぱしっ、と、軽い音が辺りに響いた。ラザの手を跳ね除けた彼女は、自らを搔き抱いて叫ぶ。
「──夢じゃ、ない。夢じゃない、夢じゃない!」
「おい!」
「嘘だ、こんなの、嘘、夢に決まってるのに、なんで──」
「ラザ! 騒がれたらまずい!」
「わあってるよ、けど!」
二人と一匹の前で、彼女は半狂乱で叫ぶ。このまま騒がれたら、宰相の兵たちを呼び寄せてしまうかもしれない。それは絶対に避けねばならない。
舌打ちを零してセダウェンが精霊水晶を構えた。しゃらん、と銀の鎖が鳴る。セダウェンの意図を察したラザが、少女の横に移動した。
「【我が声に応えよ、其は清冽なる水の現し身。其の繊手もて、昏く穢れなき水底に彼女を迎え給え──麗しき湖水の乙女】」
精霊水晶から青い光が放たれ、少女を取り巻いた。過呼吸気味だった少女が、一つ息をするごとに落ち着いていく。見開かれていた瞳は霧がかかったように焦点をなくす。やがて、長い睫毛に縁取られた瞼が落ちる。
「嫌だ……たすけて……」
──おにいちゃん。
それを最後に、彼女の全身から力が抜けた。傾ぐ身体はラザが受け止める。深い眠りに落ちた少女を抱えて、ラザは困ったようにセダウェンを見上げた。
見上げられたところで、セダウェンでさえ今後どうするかなどわかるはずもなく。
ただ、彼の肩の上で、蒼い瞳の獣が「ニァ」と鳴くだけだった。