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チョコが降った日

作者: 篠雨 創

 存在し得ないものが描きたい、その一心で今日もまた黒線と絵具が踊る。


 絵というものは写実性において大きな欠陥を抱えている。難しい事じゃない。本当にこのただ一瞬を切り取りたければ、今から部屋に戻ってスマートフォンを持ってこなければいけないということだ。それだけで済む話であるし、それ以上に勝る方法も無い。絵には時間が掛かり、その間も刻々と世界は変化し続ける。それを切り取る事は絵にはできない。物体を部屋に閉じ込めて描くのなら話は別だけれど。


 写真技術の台頭と進歩と共に、絵による写実の欠陥は浮き彫りになってしまった。かつて画匠達がしのぎを削って求めた技術は、今やボタン一つで無慈悲に再現できてしまう。


 だけど、それで良かったのだと僕は思う。きっと絵に本当の意味での写実性を求めるのは愚かだったのだ。つまるところ、絵の魅力は決して現実に存在するものをそのまま表現する事にあるのではなく、もっと別にあるということだ。才能が無いものが努力しても才覚があるものに敵わぬように、相手の土俵に上がって戦うことがそもそも間違っているのだ。絵には絵の武器があって、それを最大限に利用した作品こそ価値があるのだと思う。


 絵の武器。それは時間が掛かるという事だ。


 一瞬を残酷に切り取る写真と違い、絵には時間が流れている。線を引く間に、絵の前の景色は移り変わって行くのだ。それをカンバスや白紙に写し取る事こそ、絵の本懐というものではないだろうか。


 変移する時間を、流れる景色を切り取りたい。そこにあるものではなく、生きた時間を描きたい。それ故に、僕の描く絵はきっと、限りなく近いかも知れないけれど、実際には存在していなかったものになる。風景画としてはもしかしたら失格かもしれない。それでいい。僕が描きたいのは風景画じゃない。存在し得ないものを描きたい。そんな想いで今日も筆を滑らせているのだ。


 ……なんて高尚な考えを建前にはしてるけれど、僕自身はそんな大層な人間じゃない。画家になるつもりはないし、絵の学校に通っているって訳でもない。一つの趣味、というよりかは習慣だ。


 朝起きて、寝癖を直して、二年ほど住んでいる学生マンションのベランダに出る。三階であるそこから寝惚け眼を擦りながら今日の町並みを眺める。今日はカラッとした快晴。秋と冬の境目の晴れの、いい天気だ。


 今日がいい天気だからだろう、東側の遠くの向こうには山が見える。背伸びをしたような薄い雪化粧をしたそれなりに大きな山だ。


 相も変わらず、と言ってしまえばそれまでだけど、いつもと変わらないような、それでして昨日とは確かに違う景色。まだ開いていないスーパーも一日中開いているコンビニも見える。時間帯的に誰もいない公園も変わらずにある。あとは大体民家が建ち並んでいて、変哲のないありふれた情景。


 そう、情景。辞書的な意味だと『心に何かを感じさせるような景色や、具体的な場面』。僕を惹きつけて止まないこの景色はまさしく情景だ。


 身についた習慣が当然のように僕に鉛筆を握らせ、白紙に線を引かせる。一体どれだけ同じ線を描いて、どれだけ違う線を描いてきたのだろうか。五日前から描いていた絵が昨日着色を終えたので、今日はまたゼロからのスタートの日だ。


 今日は大学の講義が始まるまで余裕がある日だったから、大まかなラフ作業は終えた。でもここまではある意味でルーティーンに近い。僕が本当に描きたいものは、これからの作業によって生み出される。これまでもそうしてきたように。


 そんな感じで、今日も僕は絵を描いて明日も絵を描いています。変わっていく日を、変わっていくままに。




 

 お隣さんが越してきた。正確に言えば越してきたからお隣さんになったわけだけど、細かい事は気にしなくていいと思う。なんであれ、しばらく空き部屋だった右のお隣さんができた。角部屋なので左のお隣さんはいないから現状唯一のお隣さんということになる。


 越してきたのは女の子だった。先程ご丁寧に挨拶にいらっしゃった。どうやら僕の通う大学の二個下らしい。短めの内巻きな髪がよく似合う子だった。どうしてこんな時期に? とは思ったけるど、それを知ることはないだろう。

 僕は社交的な人間じゃないからきっと深くは関わらないだろうから。


 そんな大方の予想通り、お隣さんができたらと言っても何が変わるわけではなかった。二ヶ月が過ぎたけれど僕は彼女が何をしているのか全然知らなかったし(知るつもりも無い)、相も変わらずベランダに出て見える景色を描いていた。

 今日もそんな冬の一日だった。


「あ、あの……」


 声が右から聞こえた気がした。

 そしてそれはそのまま左へ抜けて行った。僕のお隣はどちらも空室だったはずだと思い返す。ならば空耳に違いないと。


「あ、あの!」


 また声が聞こえた。ひょっとして幽霊か? とチラリと横を見ると人と目が合った。


「えっ!? 幽霊!?」

「何を言ってるんですかお隣さん!」


 ようやくお隣に越してきた子がいた事を思い出した。

 うちのマンションはベランダとベランダの間にいわゆる仕切り版のようなものが無く、ベランダと同じ高さの分厚い壁が隣との間を遮っているため、隣の部屋のベランダを覗くことができるようになっている。つまり僕が絵を描いていることはベランダに出てしまえば一目瞭然だった。


「あの、何を描いているんですか? いつも何か描いてますよね?」


 お隣さんは私服姿だった。以前会った時も私服だったとは思うのだけどさっぱり覚えてないから、言うなれば新鮮な感じがする。そもそも会うのが二度目だから新鮮も何もないけれど。


「ええと、街を」


 緊張して声が震えてないか少し心配だけれど、無難な受け答えができた。


「ずっと、街を描いているんですか?」


「うん、ずっと。ここから見える景色の、この街を」


「それ、飽きてこないんですか?」


 心底不思議そうに彼女が言う。


「飽きないからずっと描いてるんだと思うよ。僕も不思議なくらいだけど」


 そう答えると彼女は「へー」とどこか感心したような顔をした。


「あっ、今まで描いたやつ見せてもらってもいいですか!?」


 明るく弾んだ声で彼女は言った。断る道理は無かったので承諾することにする。


「多分、見ても面白くないと思うよ」


「それは私が決めます。それに、興味ありますから!」


 自信満々に胸を張って彼女は言うので、後押しされたような気分で僕は彼女に今まで描いた絵を見せることにした。




「って意外と多いですね!?」


 パンチで穴を開けてファイルに束ねられた紙の束を三つほど差し出すと驚かれた。紙が水分を吸って膨らんでる分かさんでそう見えるだけだと思うのだが。


「そんな多くないよ。多分百何十枚だと思うし」


「十分多いですよ……。あ、これ一番上からですか?」


「いや、一番下が一番最初かな」


「了解です!」


 そう言うと彼女は絵を見始めた。

 ――そう言えば、人に絵を見せるのは初めてだ。

 今更そんなことを思った。そこまで下手ではないと思う。人に見せられないというほどはないとも。でもそれが言うなれば親の欲目であるとも否定できない。

 大学の合否通知を待っているような、そんな気分だった。


「うわぁ……」


 やはり自分の目にはわからない稚拙さがあったのかもしれない。そんな絵を見せてしまった彼女には申し訳ないことをしたと思う。

 ――でも、そうかぁ、少しは自信あったんだけどなぁ。


「……ごめん、そんなに下手だった?」


 慌てて、と言った様子で彼女が手を横に振る。


「逆ですよ、逆。とても、綺麗です」


 そう言って笑いかけてくる彼女の笑顔が、後ろの茜色の夕焼けと落日によく映えて、とても綺麗だと思った。

 お前はこの笑顔を見るために絵を描いていたと言われても信じるぐらいだった。


「私、この絵とこの景色を見るために引っ越してきたのかもしれません」


 ペラペラと紙の束を捲り、絵と目の前の景色の両方を見ながら彼女は言った。


「お世辞を言っても何も出ないよ」

「そんなんじゃないですよー」


 そう言って僕たちは笑った。


「この絵を見て、この景色を見ると、何だか生きてるって感じがします。時間が流れてるんです。この何枚も積み重ねられた紙たちに、お隣さんが吹き込んだ時間が。って、ごめんなさい。恥ずかしい事言っちゃいました」


 それを聞いて僕は驚いた。僕が追い求めてきたものを、何も言わずに理解されるとは思っても見なかった。少しだけ、今まで描いてきた絵達が報われたような気分になった。


「いいや、ビックリした。僕がずっと欲しかった言葉かもしれない。僕はずっと流れる時間を閉じ込めたくて絵を描いてきたんだ。整合性の取れてない不恰好なこの街の絵を、二年間」


「そう、なんですか。欲しかった言葉なんて言ってもらえるとますます恥ずかしいんですが……。……本当ですね、全然わけわかんない絵も沢山あります。これなんて光源と影の位置が丸っきり逆です」


「それは影を塗った時間と太陽を描いた時間がズレた事による現象だと……」


「これなんて街は昼間なのに空は夜です」


「それは夜空が描きたかったんだと思う。……多分」


「これなんてすごいです。街の半分は昼間で街の半分はオレンジ色です。しかも東側が夕方です。適当過ぎます」


「……ごめんなさい」


 ちょっと申し訳ない気分になった。でも絵を、僕の存在を否定されている気分にはならなかった。恐らく、彼女が褒めてくれているとわかったから。


「でも、好きです。時間が流れてる気がします。奇をてらっている感じもしません。本当にありのままに、街が描かれてます。雪や雨が降っていて、それが半分では止んでいたり。山の雪がだんだん積もっていったり。公園で人が遊んでいたりいなかったりして、それぞれの絵に時間があります。これは写真では切り取れない、絵の良さなんじゃないでしょうか」


「すごいな、まるで評論家だ」


 素直な感想を述べる。


「むぅ、なんだかバカにしてませんか?」


「いや、本心だよ。君の言葉でなんだかその絵達が救われた気がする。ずっと閉じ込めてしまっていたから」


 人に見せる事で本当に時間が動き出したような、誰かに見られて初めて流れが生まれたような、そんな気がした。


「だから、ありがとう」


 それは、嘘偽りのない本心だった。


「あの、二つお願いがあります」


「ん? なんでも言ってみて」


 おずおず、といった様子で彼女が言い出したので、努めて明るく言い返す。なにせ彼女は僕の作品の救世主とも言える人だから。


「一つは、これからも私に絵を見せてくれませんか?」


 断る理由がなかった。むしろこちらから頼みたいぐらいである。


「そんなこと、願ったり叶ったりだよ。それで、二つ目は?」


 少しだけ意を決したように、彼女は言葉を紡いだ。


「私の言葉で満たされないでください。貴方が最高の瞬間を見つけるまで、絵を描き続けてください。おこがましくて、ごめんなさい」


 そんな彼女の言葉が無性に嬉しくて、僕は自然に笑みが溢れた。そんなの答えは決まっている。


「任せてくれ。僕のパトロンさん」




 パトロンと言っても別に金銭的援助をしてもらうわけじゃなくて、単にモチベーションを上げてもらうだけの役割で、どちらかと言えばそれは制作する側というよりは鑑賞する側のような気もしたけれど、そんなのは瑣末なこと。僕の中で彼女は立派なパトロンだった。


 彼女は絵に色々な意見をくれた。具体的でわかりやすい意見を。ある意味で適当な僕の絵に意義と命を吹き込んでくれた。それが嬉しくて僕は絵を描いた。根底にある描きたい物は変わらなかったから、彼女を失望させる事もなかったようだ。

 変に意識せず、流れるままに絵を描く事が以前にも増して好きになっていた。


 それからしばらく経ったある日の夕方。


「お隣さん、お隣さん! 今日ってなんの日だか知ってますか?」


 お隣さんである彼女が意気揚々と言った感じで、相変わらず絵を描いていた僕に話しかけてきた。

 ――二月の半ばに何かあっただろうか。


「えっと、君の誕生日?」


「あー、そういう適当な事言うんですか! 私の誕生日は六月です! ハズレです」


 当てずっぽうは見事ハズレてしまったようだ。誕生日が六月だという情報は覚えておくことにする。


「本当に知らないんですか? バレンタインデーですよ、バレンタイン!」


 そう言えばそんなイベントもあったかもしれない。僕には何分縁のないイベントだ。少しだけ、悲しかったりもするけれど。


「うーん、関係のないイベントだなぁ。くれる相手もいなければ、出掛ける用事も無いし」


 絵具はこの間買い足したばかりだし、家にはまだ食材があったので今日は外に出る事はないだろう。

 そんな僕の言葉を聞いて一層彼女がパッと顔を晴れやかにした気がしたけれど、どんな意味があるのやら。


「えへへ、そんなお隣さんに朗報です。はい、どーぞ!」


 彼女が隣の敷地越しに何かを差し出していた。どうやらマグカップのようだ。薄黄色の可愛らしいマグカップだ。


「ホットチョコレートです。まだまだ寒いですし、あったまってください!」


「おお、ありがとう」


 人生で初めてバレンタインという行事を、世の中と同じく味わったような気がする。毎年母からは貰っていたが、一人暮らしを始めてからはそれも無くなってしまっていたから。


「えへへ、初めてパトロンの真似事のような事した気がします」


 照れくさそうに彼女は笑った。


「そんな事無いのになぁ」


「まあ、そんな事はどうでも良いです。マグカップも差し上げますので、はいどーぞ」


 彼女がベランダ越しに手を伸ばす。少しだけ距離が足りないので、描いてた絵を互いのベランダの中間のところに置いて、それを受け取ろうとした。


「あっ」


 それはどちらがあげた声だっただろうか。ほんの少し勢いよく差し出されたマグカップからホットチョコレートが飛び出してしまった。それが向かう先には、今しがた置いた絵があった。


 ピシャリ、と液状のそれが絵にかかる。これから絵具を塗るところでまだ色の無かったそれにの中央にやや大きな茶色のしみと、それの周りに無数の細かいしみが広がった。


「あっ、あの、そのっ」


 慌てたような声だった。


「あの、ごめんなさい……」


 彼女が泣きそうな顔になる。こんな事になるとは思っていなかったのだろう。


 僕がそれを気にすることはなかったけれど、彼女が泣きそうな顔になっているのはいただけなかった。彼女には笑顔こそが似合うのだ。


「気にしない気にしない。それより、冷めちゃうからそれ、飲んじゃダメかな?」


 驚いたような顔をこちらに向けてくる彼女は、かぶりを振って言う。


「ダメです、作品、台無しにしちゃったのに」


「君に掛からなくて良かったよ。それより、揺らしたらまたこぼれちゃうよ」


 彼女は悲しそうな顔でマグカップをこちらに差し出して来たので、僕もそれを手を伸ばして受け取る。

 ――良かった、まだ全然温かい。


 口にしたホットチョコレートから広がる甘さからは、彼女の優しさが感じ取れた。とても温かかった。


「それに、多分これはいい絵になる。そんな気がするんだ」


「えっ……?」


 また驚いたような表情を見せる彼女に笑いかける。


「口下手でうまく言えないけど、これも一つの流れのような気がするんだ。ホットチョコレート美味しい。ありがとう。マグカップも大切に使うね」


 まだ驚いた顔をしていた彼女は、やっと笑ってくれた。


「あの、はい! 喜んでもらえてよかったです!」




 それから僕は色を染めた。彼女が染めた茶色の部分には一切手をつけず、それを引き立てるような色を選んで。

 中央に大きく滲んだまさしくチョコレート色のそれは、なんだか少しだけ捻くれた僕と彼女の関係のような感じがして可笑しかった。


 完成した絵はなんだか今までで一番『できた』絵のような気がして、僕はそれを額に入れて飾る事にした。タイトルは『チョコが降った日』。彼女に見せたら照れて怒られそうだから、今はまだ黙っておくことにしよう。


 大切すぎて使う事ができないマグカップと一枚だけ大切に飾ってあるちょっとおかしな絵が彼女にバレて、彼女がどんな反応をしたのかは、また別の話ということで。

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