(0)
「大丈夫、怖くないからね」
少女は抱えていた野兎に優しく話しかける。
「酷い傷。痛かったでしょ? 直ぐに治してあげるから」
そう言いながら、そっと手の平を傷口にかざして意識を集中させる。
すると、わずかな静寂の間に兎の傷は塞がり、傷跡や白い毛を染めた血まで見えなくなった。
「これでもう大丈夫。 早くお家にお帰り。 もう怪我しちゃ駄目だよ!」
そっと地面に放すと、勢い良く飛び跳ね森へ帰っていく。
そのうしろ姿を少女はにっこり笑って見送った。
肩までの緩くウェーブがかかった黒髪と、真っ白なワンピース姿で微笑む姿を初めて見た者は、きっと天使と見間違えてしまうだろう。
そんな優しく愛らしい笑顔だ。
突然、 彼女は何かを思い出したのか、慌てて戸口へと駆け出した。
「ディド」
彼女の向かった先には、一人の青年が立っていた。
整った顔立ち、長く波打つ金髪。
その姿は女性と見間違う程美しい。
少女がまだあどけない小天使だとしたら、彼は高位の大天使とでも言うべきだろうか。
「サリュ!」
少女は彼を見るなり、何のためらいもなくその胸に飛び込んでいった。
「ディド、また動物の怪我を治してあげていたのかい?」
「うん!」
「そうか、ディドは優しいね」
そう言うと少女の頭を優しく撫でる。
「でもそろそろ行こう。
ディドも今日から魔術士の卵だ。初日から遅刻じゃ笑われてしまうからね」
「……ごめんなさい」
「さぁ、これを羽織って。 迎えの馬車はもう着いているんだ。 荷物を積み込んだら早速王都に向かおう」
「ねぇ、サリュ。 王都の魔術学校ってどんなところ?」
「魔術学校は、素質を持つ者たちが集まり、魔法を一からきちんと勉強する所だよ。
各地にいっぱいあるけど、王都の学校に通う子たちは皆、宮廷魔術師を目指しているから特に熱心だね。
ディドもその子たちと一緒に生活しながら学ぶんだよ。
……不安かい?」
「うん、ちょっとだけ」
「心配することはないよ、僕も近くの王宮で働いているからね」
「うん」
「これで、良しっと」
サリュエルはディドに羽織らせた外套のボタンを掛け終えると、彼女の手を引いて歩きだした。
家の表側に回ると直ぐに馬車が見える。
「ほら、馬の隣に居るおじいさんが今日私たちを王都まで案内してくれる方だよ。しっかり挨拶してね」
「もう!そんなに子ども扱いしないで」
白髪の老人は、サリュエルたちを見つけると静かに頭を下げた。
「サリュエル様。荷物は全部積み込みましたんで、いつでも出発できます」
「そうか、ありがとう」
「おじいさん、はじめまして。ディド・アーサーです。王都までよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げるディドを見て、老人は顔のしわを一層深くして微笑んだ。
「これは可愛らしいお嬢さんだ。
さぁ、お嬢さんも早くわし自慢の馬車に乗ってくだされ」
老人は二人が馬車に乗り込むのを見届けると馬の鬣を撫でてから、ゆっくりと馬車に乗り込んだ。
「サリュエル様、出発してもよろしいですかな?」
「あぁ、出してくれ」
「かしこまりました」
手綱が小さく打たれると馬は一鳴きしてゆっくりと歩きだす。
ガタゴトと時折車輪が小石に乗り上げる不規則なリズムが妙に心地良い。
ディドは馬車の揺れを楽しみながら次第に遠ざかる我が家を見つめていた。
少女の名はディド・アーサー。
御歳14歳。
神の加護を受けた国に初めて生まれた『ゲートキーパー』である。
少女は育ての親、魔術師サリュエルの愛情を一身に受け、今日まで何不自由なく暮らしてきた。
そんな彼女の幸福な日々が既に崩壊へと歩み始めていることを誰が想像できただろうか。
誰も知らない「運命」への旅路はこのとき始まったのである。