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侍女のふりでお供した王宮の門で、義妹の招待状が開かない理由がわかりました ~宛名は"土かぶり"の私だったようです~

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/11/04

夜明け前の庭は、土と朝露のにおいがする。


私は膝をついて、母の遺した薔薇の根もとに指を差し入れた。

ひんやりとした土が、爪のあいだに入りこむ。


今日も私は、この家で「土かぶり」と呼ばれる。


花壇の端の株が、また一本、根もとから折れていた。

昨日の夕方、義妹のフリーダが、わざとドレスの裾で引きずっていった跡だ。


私は折れた茎を拾い集めて、土を寄せ直した。


「良かった……大丈夫、根は生きてるみたい」


指先が、ぽうっと温かくなる。

しおれかけていた隣の株の葉が、ゆっくりと持ち上がった。


「おはよう、エマ。今朝も早いのね」


生け垣の向こうから、しわがれた声がした。


教会のシスター・マルタだ。

腰の曲がった体で杖をつき、朝の散歩をしている。

私に花の世話を教えてくれた、たったひとりの先生だった。


「おはようございます、シスター。見てください、つぼみがこんなに。今年は去年より多く咲きそうです。母がいた頃みたいに、門のところまで咲かせてみせますわ」


しゃべりだすと止まらなくなる私を、シスターは目を細めて見ていた。


「あなたが触ると、花がうれしそうね。去年の冬、教会の花壇を咲かせてくれたときもそうだったわ」


「あれは……母の真似をしただけです」


「真似だけで、雪の中に薔薇は咲かないわ」


シスターは、ふふっと笑った。


「あの、シスター。今月の父への手紙も、いつものように継母に預けました。でも……返事は一度も来ていないんです」


言ってから、自分の声が少し沈んでいるのに気づいた。


シスターの笑みが、ほんの一瞬だけ曇った。

けれど、すぐにいつもの顔に戻った。


「大丈夫。春は、思いがけないものが届く季節よ」


それだけ言って、杖の音を響かせながら去っていった。



母は、私が十のときに亡くなった。


母の手は、触れた花を咲かせた。

花の加護と呼ばれる力で、母の庭はいつも、通りがかりの人が足を止めるほど咲き乱れていた。


母が亡くなった年、母の薔薇もぜんぶ枯れかけた。

私が泣きながら土に触れると、薔薇は一株ずつ元気を取り戻していった。


そのとき初めて、母の力が私の手に残っていると知った。


けれど、それが誰かの役に立つ力だなんて、思ったことはなかった。


母の庭が咲いていれば、それでよかった。


「エマ! いつまで土をいじっているの!」


屋敷の窓から、継母のベアトリス様の声が飛んできた。


「朝食の支度がまだでしょう。それとも、その泥だらけの手でパンを触るつもり?」


「……すぐにまいります」


母が亡くなって二年後、父は継母を迎えた。


父は交易の仕事で、一年のほとんどを遠い港町で過ごす。

この家を任せられる人が必要だったのだ。


継母は、連れ子のフリーダを溺愛していた。

そして、前の奥方の娘である私を、家の裏方に押しこめた。


客間に出ることは許されない。

母の庭の手入れも、洗濯も、台所の手伝いも、全部私の仕事になった。


それでもこの家を出ていかなかったのは、母の庭があるからだ。私がいなくなったら、母の薔薇は一年ももたない。それだけは、どうしても嫌だった。


その日の昼過ぎだった。


王宮の紋章をつけた使者が、伯爵家の門を叩いた。


差し出されたのは、白い封筒が一通。

表には「ハーゼ伯爵家御中」とだけあり、封の口には、王家の紋章を押した金色の封蝋が光っていた。


封蝋の紋章を見た瞬間、継母が目を輝かせた。


「王宮の招待状? どうせフリーダ宛てに決まっているわ。社交界でいちばん可愛いのは、あなたですもの」


使者は、それには答えずに、うやうやしく告げた。


「王妃様主催の、春の園遊会への招待状でございます。園遊会は日暮れから、ランタンの灯りの下で薔薇を愛でる会でございます。日暮れの鐘が鳴り終わりましたら門は閉じますので、どうぞお早めに。それから王妃様より、お庭の花を、ひと籠お持ちくださいますように、とのことでございます」


使者が帰るなり、フリーダが封筒を抱きしめて飛び跳ねた。


「王妃様の園遊会! お母様、わたくし、王宮に招かれたのよ!」


継母は満足そうに笑って、封筒を受け取った。


「さあ、中を確かめましょう」


継母が封蝋に爪をかけた。


けれど、金色の封蝋はびくともしなかった。

ペーパーナイフを差しこんでも、刃のほうがつるりと滑る。


「何これ、開かないじゃない」


「王家の封蝋は、宛名のご本人が触れたときにしか開かないそうですよ」


客間の隅でお茶を下げながら、私は言った。

母から聞いたことがあったのだ。代筆やなりすましを防ぐための、古い仕組みだと。


「だったらフリーダが触れればいいのよ」


フリーダが、得意げに封蝋に指を当てた。


何も起こらなかった。


「……あれ?」


一瞬、胸の奥がざわりとした。


宛名は、フリーダではないのかもしれない。


でも、私であるはずもない。

王妃様が、土かぶりの娘を知っているわけがないのだから。


「きっと古い飾りなのよ。王宮の門で、係の者に開けさせればいいわ」


継母は、封筒を自分の手提げにしまいこんだ。


それから、私のほうを見た。


「エマ、あなたもついていらっしゃい。王妃様がお庭の花をお望みなのだから、籠を持つ者がいるでしょう。薔薇の棘で、フリーダの手が傷ついたら困るもの」


「わたくしが、王宮へ……?」


「勘違いしないで。門の外で待つのよ。それから、いちばん見栄えのいい薔薇を切ってちょうだい。わが家の庭の花だと言えば、王妃様もお喜びになるわ」


母の薔薇を、わが家の庭の花、と。


喉の奥が、きゅっと詰まった。


それでも私は、黙ってうなずくしかなかった。



園遊会の日の夕方。


フリーダの支度は、なかなか終わらなかった。


髪の結い方が気に入らない、首飾りはこちらがいい、と三度もやり直して、馬車が門を出たのは、空が茜色に染まりはじめてからだった。


フリーダは薄紅色の絹のドレスに真珠の首飾り。継母は羽根飾りのついた帽子。


私は、いつもの灰色の侍女服のままだった。


「あなたは御者台よ。ドレスに土がついたら困るもの」


御者のトーマスさんの隣に、私は薔薇の籠を抱えて座った。


「お嬢様」


トーマスさんが、前を向いたまま小声で言った。


「その薔薇、奥様が生きていらした頃の花と、同じ色ですな」


「……ええ。母の株から、育てたんです」


「きっと、王妃様もお喜びになりますよ」


トーマスさんの皺だらけの横顔を見て、少しだけ、胸が温かくなった。


背後の小窓が開いて、フリーダが顔を出した。


「ねえ、土かぶりお姉様。門の外で待つあいだ、あんまり目立たないでね。わたくしの侍女だと思われたら恥ずかしいもの」


「……ええ。気をつけますわ」


「お姉様は、一生お庭でいいわよね。土がお似合いだもの」


小窓が、ぱたんと閉まった。


籠を抱える指に、知らず力がこもった。

薔薇の棘が、ちくりと指先を刺した。



王宮の門の前には、着飾った貴族たちの馬車が列をなしていた。


門番長は、白い髭をたくわえた大柄な人だった。

招待客が封筒を差し出すたびに、一人ひとりの指を封蝋に触れさせている。

封蝋が光って、ぱちりと開く。宛名を確かめて、門番長がうなずく。


「次の方」


フリーダが、胸を張って進み出た。

継母が手提げから封筒を取り出して、門番長に渡す。


「ハーゼ伯爵家のフリーダでございます」


「では、ご本人の手で、封蝋に」


フリーダが、白い手袋を外して封蝋に指を当てた。


封蝋は、冷たく黙ったままだった。


フリーダがもう一度触れる。両手で包むように握る。しかし、何も起こらない。


後ろに並んでいた貴婦人たちが、扇の陰でささやき合いはじめた。


「開かないわね」


「宛名のご本人ではない、ということかしら」


フリーダの頬が、みるみる赤くなっていく。


「お、お母様!」


「貸しなさい!」


継母が封筒をひったくって、封蝋に爪を立てた。金色の封蝋には、傷ひとつつかない。


「奥方様。王家の封蝋は、宛名のご本人にしか開けられません。無理にこじ開けようとなさるのは、おやめください」


「融通というものがないの?」


継母は声を潜めて、手提げから小さな金の包みを取り出した。


「これで、通していただけないかしら。伯爵家の娘ですのよ」


門番長は、包みに目もくれなかった。


「封蝋が開かぬ方を通せば、わたくしの首が飛びますから」


後ろの列から、くすりと笑い声が漏れた。

年配の侯爵夫人が、連れの令嬢に聞こえよがしに言う。


「王家の封蝋を、袖の下で開けようだなんて。ハーゼ伯爵家も、ずいぶん変わったこと……」


継母の耳が、真っ赤になった。


遠くで、日暮れ前の鐘がひとつ鳴った。


継母の目が、籠を抱えて後ろに控えていた私をとらえた。


「……あなたね」


「え?」


「あなたが何かしたんでしょう! この泥だらけの手で、封筒に触ったのね!」


継母が、私の肩を突き飛ばした。


よろけた拍子に、継母の手から封筒が滑り落ちた。石畳の上に、白い封筒が落ちる。


私は、反射的にそれを拾い上げていた。


その瞬間。


指先に、ぽうっと温かいものが触れた。


封蝋が、私の手の中で、朝の光のように輝く。

そしてぱちり、と小さな音がして、封が開いた。


まわりの貴族たちが、息をのんだ。


私は、開いた封筒を見つめたまま動けなかった。


門番長が、私の手から封筒を受け取った。

中の招待状を取り出して、低く通る声で読み上げる。


「エマ・ハーゼ嬢。真冬の花壇を咲かせた方へ。王妃エレオノーラより」


門の前が、しんと静まり返った。


継母の顔から、血の気が引いていくのがわかった。


「そ、そんなはずありません! その子は、使用人同然の娘で……何かの間違いです。王妃様がお招きになったのは、わたくしの娘のフリーダで……」


「奥方様」


門番長が、静かに遮った。


「封蝋と王妃様は、嘘をつきません」


それから私に向き直って、深く一礼した。


「エマ・ハーゼ嬢。お待ちしておりました。どうぞ、お通りください」


私は、自分の格好を見下ろした。


灰色の侍女服。

エプロンには、今朝の土のしみが残っている。爪のあいだも、まだ黒い。


「あの……わたくし、こんな格好で……」


「お召し物の指定は、招待状にございません」


門番長は、そう言って口の端をかすかに上げた。


そのとき、フリーダが叫んだ。


「お姉様なんかが! 土かぶりのくせに!」


侯爵夫人が、扇をぱちりと閉じた。


「お嬢さん。土にまみれて花を咲かせる手と、その手を笑う口と、王妃様がどちらをお招きになるか。今、目の前でご覧になったでしょう?」


フリーダが、真っ赤な顔のまま口をつぐんだ。


二度目の鐘が鳴りはじめた。日暮れの鐘だ。

私が一歩踏み出した瞬間、継母の手が、私の腕をつかんだ。


「どこへ行くの。あなたは門の外で待つと言ったでしょう?」


爪が、袖ごしに食いこむ。

いつもなら、ここで黙ってうなずいていた。


鐘の音が、ひとつ、またひとつと響く。


「……お継母様。この封筒の宛名は、わたくしです」


私は、継母の指をほどいた。

自分でも驚くほど、手は震えていなかった。


鐘が鳴り終わる前に、私は薔薇の籠を抱え直して、門をくぐった。


私のあとに並んでいた招待客たちも、鐘に追い立てられるように封蝋を開けて、次々と門をくぐっていく。


鐘の最後の音と一緒に、背後で重い門が閉まった。


宛名のない人は、通れないのだ。



門の内側は、ランタンの明かりに照らされた美しい庭だった。


けれど、その奥に広がる薔薇園だけは、まるで冬のままだった。


葉は茶色く縮れ、枝はやせ細っている。

つぼみひとつ、ついていない。


「あれが、わたくしの薔薇園よ」


振り返ると、銀の髪を結い上げた貴婦人が立っていた。穏やかな目をした方だった。


その隣に、見慣れた姿があった。杖をついた、腰の曲がった老女。


「シスター・マルタ!」


「ほらね。思いがけないものが届いたでしょう?」


シスターが、いたずらっぽく笑った。


貴婦人が、私の前に進み出た。


「王妃のエレオノーラです。来てくださって、ありがとう」


私はあわてて膝を折った。籠の中で、母の薔薇が揺れる。


「お、王妃様……エマ・ハーゼと申します。あの、こんな格好で申し訳ございません。継母の荷物持ちとして来たものですから、着替えもなくて、それに、手もまだ土だらけで……」


緊張で、言葉が次々に転がり出てくる。


王妃様は、私の手をそっと取った。

土のしみがついた、ひび割れた手を。


「マルタはね、わたくしが子どもの頃の乳母なの。今でも手紙をくれるのよ。あの雪の中で、教会の花壇を咲かせた娘がいるって」


それから、少しだけ声を落とした。


「あなたがお父様に書いた手紙に、一度もお返事が来ていないことも、マルタはずっと心配していたわ。だから、表には家の名前だけを書いて、宛名は封の中にだけ書いたの。あなたの名前を表に書けば、きっと途中で消えてしまうと思ったから」


王妃様は、私の抱えた籠に目をやって、ふふっと笑った。


「花籠をお願いしたのも、マルタの入れ知恵よ。籠を持たされるのは、きっとあの子だからって」


胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。


王妃様は、薔薇園のほうを振り返った。


「この庭はね、わたくしが故郷から持ってきた薔薇なの。嫁いでくるとき、母が持たせてくれた株よ。母は、もう何年も前に亡くなったわ。……ここ数年、どの庭師が手を尽くしても、咲かなくなってしまった」


「……わたくしの母も、亡くなりました」


思わず、口からこぼれていた。


「この籠の薔薇は、母が遺した株なんです。継母は、わが家の庭の花だとお伝えしなさいと申しておりましたけれど、本当は、母の薔薇なんです」


王妃様は、籠の中の薄紅色の薔薇を、じっと見つめた。


「そう。あなたも、お母様の花を守ってきたのね」


その一言で、目の奥が熱くなった。


王妃様の横顔に、母の庭が重なった。


「……わたくしで、よろしいのでしょうか」


声が、震えた。


「わたくし、ずっと土かぶりと呼ばれてきました。この手は、お客様に見せられないと言われてきました。そんな手で、王妃様の大切な薔薇に、触れてもよろしいのでしょうか」


「その手だから、お招きしたのよ」


王妃様は、まっすぐに私を見て言った。


私は、薔薇園の入口にいちばん近い株の前に膝をついた。


まず、根もとの土に素手を差し入れた。表面がかちかちに固まっている。

指でほぐすと、その下は水が溜まって冷たく、少し酸っぱいにおいがした。


水はけが悪い。それに、土が息をしていない。


固まった土を指で崩し、根のまわりに空気を入れていく。

爪のあいだに、また黒い土が入りこむ。いつもの朝と同じように。


それから、枯れたように見える枝の根もとを、両手でそっと包んだ。


大丈夫。まだ、根は生きている。


指先が、ぽうっと温かくなった。


茶色く縮れていた葉が、ゆっくりと緑に戻っていく。

枝の先に、小さなつぼみがふくらむ。


ひとつ、ほころんだ。


それを合図にしたように、隣の株が、その隣の株が、次々に緑を取り戻していく。


つぼみがふくらみ、花びらが開いていく。


ランタンの明かりの中で、薔薇園いっぱいに、淡い金色の薔薇が咲き広がった。


甘い香りが、夕暮れの空気を満たしていく。


庭に集まっていた招待客たちから、小さなどよめきが上がり、それがやがて大きな歓声に変わっていった。


「……ああ」


王妃様が、両手で口もとを覆っていた。


「母の庭の、色だわ」


その目に、涙が光っていた。


私は、立ち上がることも忘れて、咲いた薔薇を見上げていた。


「……よかった。咲いてくれて、よかった」


気づけば、ぽろぽろと涙がこぼれていた。


「王妃様、この子たち、ずっと待っていたんです。根っこが、まだちゃんと温かくて。土が少し固くなっていたのと、水はけが悪かったのと、それから、きっと、さびしかったんだと思います。母がいつも言っていました。花は、話しかけてくれる人のところで咲くのよって」


泣きながら、まだしゃべっていた。


王妃様は、涙をぬぐいながら笑った。


「エマ。あなた、このまま王宮に残って、わたくしの庭の花守になってくださらない?」


「……花守、ですか?」


「ええ。この薔薇園を、あなたに任せたいの」


母の庭以外の場所で、花を咲かせてもいいなんて。

それを、誰かが望んでくれるなんて。


「……はい。喜んで」


声は震えていたけれど、自分の言葉で答えられた。


王妃様は、満足そうにうなずいてから、ふと門のほうへ目を向けた。


「それから、あなたのご家族に、ご挨拶をしなければね」



門の外では、継母とフリーダが、まだ格子の前に立っていた。


薔薇の香りと歓声は、塀の外まで届いていたらしい。

継母は、王妃様の姿を見るなり、格子にすがりついた。


「王妃様! その娘は、わたくしが育てた娘でございます! 母でございます! どうか、わたくしどももお通しくださいませ!」


王妃様は、格子の手前で足を止めた。


門の外に残っているのは、締め出された二人と、迎えの馬車を待つ御者たちだけだった。

門の内側では、王妃様の後ろについてきた招待客たちが、格子越しに息をひそめて見守っている。


「ハーゼ伯爵夫人」


王妃様の声は、穏やかだった。穏やかすぎて、背筋が冷えるほどだった。


「あの子を、土かぶりと呼ばせていたそうね」


継母の顔が、凍りついた。


「お手紙も、ずいぶん届かなかったと聞いているわ。……ハーゼ伯爵夫人、今後の参内は不要です」


それだけ言うと、王妃様は私の肩にそっと手を置いて、背を向けた。


格子の向こうで、継母が膝から崩れ落ちるのが見えた。

フリーダは、母親の袖をつかんだまま、泣き声も出せずに立ち尽くしていた。


格子の内側で、貴婦人たちの扇がひそひそと揺れはじめる。

その夜のうちに、話は社交界じゅうに広まったそうだ。



王妃様からの書状を受け取った父が、港町から馬を飛ばして帰ってきたのは、それから間もなくのことだった。


書状には、私の手紙が一通も届いていなかったことが書かれていたらしい。

父は王宮で私を見つけると、旅の埃も払わずに言った。


「一緒に、家へ来てくれ。確かめたいことがある」


屋敷の居間では、継母が青い顔で待っていた。

フリーダは、母親の後ろに隠れるように立っている。


「おかえりなさいませ、あなた。あの、王宮での件は、何かの行き違いで……」


「文机の鍵を出しなさい」


父の声は、低かった。


継母の顔が、ひきつった。


「な、何をおっしゃるの。女の文机を開けるだなんて……」


父は答えずに、執事から合い鍵を受け取って、継母の文机の引き出しを開けた。


中から出てきたのは、紐でくくられた二つの手紙の束だった。


ひとつは、私が父に宛てて書いた手紙。

もうひとつは、父が私に宛てて書いた手紙。どちらも、封が切られないまま押しこまれていた。


「私の手紙も、エマに届いていなかったのか」


父の手が、束を握りしめて震えていた。


「ち、違うのです。あの子があなたに泣き言ばかり書くから、お仕事の邪魔になると思って……あなたのお手紙だって、あの子が甘えないように、わたくしが……」


「それが、エマのためだと言うのか?」


父は、束を机に置いた。


「ベアトリス。君とは今すぐ離縁する。今日のうちに、フリーダを連れて実家へ帰りなさい」


継母が、その場に崩れ落ちた。

フリーダが「お母様」と泣きながらすがりつく。


私は、それを黙って見ていた。

胸がすっとするかと思っていたのに、ただ、ひどく疲れていた。


二人が荷物をまとめて屋敷を出ていったのは、その日の夕方だった。


継母の実家は遠い田舎の男爵家で、もう王都の茶会に顔を出すことはないだろう、と執事がそっと教えてくれた。


その夜、父は、母の庭の前で私に頭を下げた。


「すまなかった、エマ。母さんが亡くなって、この家にいるのがつらくて、私は仕事に逃げた。家を誰かに任せれば済むと思っていた。……済むわけが、なかったのにな」


父の肩が、小さく震えていた。


「お父様。わたくし、寂しかったです。お返事が来ないのは、お父様がわたくしのことをお忘れになったからだと、ずっと思っていました」


「忘れるものか。毎月、書いていたんだ。私のほうこそ、返事が来ないのは、お前を置いていった私が恨まれているからだと思っていた」


父の束を受け取ると、一番上の封筒には、私の誕生日の日付が書かれていた。


涙で、宛名の文字がにじんだ。


父は、私の土だらけの手を、両手で包んだ。


「それから、母さんの庭には腕のいい庭師を入れる。だから、お前は週に一度、帰ってきて教えてやってくれないか。……私にも、見せてほしい。母さんの庭を、ちゃんと見たことがなかったから」


胸が、いっぱいになった。


「……はい。毎週、帰ります」


私は、泣き笑いの顔でうなずいた。


「お父様に見ていただきたい花が、たくさんあるんです」



花守として迎えた最初の夜、私は、母の庭から株分けしてきた薔薇を、王宮の薔薇園の一角に植えた。


王妃様の故郷の金色の薔薇と、母の薄紅色の薔薇が、並んで夜風に揺れている。


部屋に戻って日記を開き、あの日の招待状の封蝋をはさんだ。

押し花にした、母の薔薇の花びらと一緒に。


封蝋は、もう光らない。けれど、温かい。


明日の朝も、私は土にまみれる。


今度は、誰にも土かぶりとは呼ばれない場所で。

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