侍女のふりでお供した王宮の門で、義妹の招待状が開かない理由がわかりました ~宛名は"土かぶり"の私だったようです~
夜明け前の庭は、土と朝露のにおいがする。
私は膝をついて、母の遺した薔薇の根もとに指を差し入れた。
ひんやりとした土が、爪のあいだに入りこむ。
今日も私は、この家で「土かぶり」と呼ばれる。
花壇の端の株が、また一本、根もとから折れていた。
昨日の夕方、義妹のフリーダが、わざとドレスの裾で引きずっていった跡だ。
私は折れた茎を拾い集めて、土を寄せ直した。
「良かった……大丈夫、根は生きてるみたい」
指先が、ぽうっと温かくなる。
しおれかけていた隣の株の葉が、ゆっくりと持ち上がった。
「おはよう、エマ。今朝も早いのね」
生け垣の向こうから、しわがれた声がした。
教会のシスター・マルタだ。
腰の曲がった体で杖をつき、朝の散歩をしている。
私に花の世話を教えてくれた、たったひとりの先生だった。
「おはようございます、シスター。見てください、つぼみがこんなに。今年は去年より多く咲きそうです。母がいた頃みたいに、門のところまで咲かせてみせますわ」
しゃべりだすと止まらなくなる私を、シスターは目を細めて見ていた。
「あなたが触ると、花がうれしそうね。去年の冬、教会の花壇を咲かせてくれたときもそうだったわ」
「あれは……母の真似をしただけです」
「真似だけで、雪の中に薔薇は咲かないわ」
シスターは、ふふっと笑った。
「あの、シスター。今月の父への手紙も、いつものように継母に預けました。でも……返事は一度も来ていないんです」
言ってから、自分の声が少し沈んでいるのに気づいた。
シスターの笑みが、ほんの一瞬だけ曇った。
けれど、すぐにいつもの顔に戻った。
「大丈夫。春は、思いがけないものが届く季節よ」
それだけ言って、杖の音を響かせながら去っていった。
母は、私が十のときに亡くなった。
母の手は、触れた花を咲かせた。
花の加護と呼ばれる力で、母の庭はいつも、通りがかりの人が足を止めるほど咲き乱れていた。
母が亡くなった年、母の薔薇もぜんぶ枯れかけた。
私が泣きながら土に触れると、薔薇は一株ずつ元気を取り戻していった。
そのとき初めて、母の力が私の手に残っていると知った。
けれど、それが誰かの役に立つ力だなんて、思ったことはなかった。
母の庭が咲いていれば、それでよかった。
「エマ! いつまで土をいじっているの!」
屋敷の窓から、継母のベアトリス様の声が飛んできた。
「朝食の支度がまだでしょう。それとも、その泥だらけの手でパンを触るつもり?」
「……すぐにまいります」
母が亡くなって二年後、父は継母を迎えた。
父は交易の仕事で、一年のほとんどを遠い港町で過ごす。
この家を任せられる人が必要だったのだ。
継母は、連れ子のフリーダを溺愛していた。
そして、前の奥方の娘である私を、家の裏方に押しこめた。
客間に出ることは許されない。
母の庭の手入れも、洗濯も、台所の手伝いも、全部私の仕事になった。
それでもこの家を出ていかなかったのは、母の庭があるからだ。私がいなくなったら、母の薔薇は一年ももたない。それだけは、どうしても嫌だった。
その日の昼過ぎだった。
王宮の紋章をつけた使者が、伯爵家の門を叩いた。
差し出されたのは、白い封筒が一通。
表には「ハーゼ伯爵家御中」とだけあり、封の口には、王家の紋章を押した金色の封蝋が光っていた。
封蝋の紋章を見た瞬間、継母が目を輝かせた。
「王宮の招待状? どうせフリーダ宛てに決まっているわ。社交界でいちばん可愛いのは、あなたですもの」
使者は、それには答えずに、うやうやしく告げた。
「王妃様主催の、春の園遊会への招待状でございます。園遊会は日暮れから、ランタンの灯りの下で薔薇を愛でる会でございます。日暮れの鐘が鳴り終わりましたら門は閉じますので、どうぞお早めに。それから王妃様より、お庭の花を、ひと籠お持ちくださいますように、とのことでございます」
使者が帰るなり、フリーダが封筒を抱きしめて飛び跳ねた。
「王妃様の園遊会! お母様、わたくし、王宮に招かれたのよ!」
継母は満足そうに笑って、封筒を受け取った。
「さあ、中を確かめましょう」
継母が封蝋に爪をかけた。
けれど、金色の封蝋はびくともしなかった。
ペーパーナイフを差しこんでも、刃のほうがつるりと滑る。
「何これ、開かないじゃない」
「王家の封蝋は、宛名のご本人が触れたときにしか開かないそうですよ」
客間の隅でお茶を下げながら、私は言った。
母から聞いたことがあったのだ。代筆やなりすましを防ぐための、古い仕組みだと。
「だったらフリーダが触れればいいのよ」
フリーダが、得意げに封蝋に指を当てた。
何も起こらなかった。
「……あれ?」
一瞬、胸の奥がざわりとした。
宛名は、フリーダではないのかもしれない。
でも、私であるはずもない。
王妃様が、土かぶりの娘を知っているわけがないのだから。
「きっと古い飾りなのよ。王宮の門で、係の者に開けさせればいいわ」
継母は、封筒を自分の手提げにしまいこんだ。
それから、私のほうを見た。
「エマ、あなたもついていらっしゃい。王妃様がお庭の花をお望みなのだから、籠を持つ者がいるでしょう。薔薇の棘で、フリーダの手が傷ついたら困るもの」
「わたくしが、王宮へ……?」
「勘違いしないで。門の外で待つのよ。それから、いちばん見栄えのいい薔薇を切ってちょうだい。わが家の庭の花だと言えば、王妃様もお喜びになるわ」
母の薔薇を、わが家の庭の花、と。
喉の奥が、きゅっと詰まった。
それでも私は、黙ってうなずくしかなかった。
園遊会の日の夕方。
フリーダの支度は、なかなか終わらなかった。
髪の結い方が気に入らない、首飾りはこちらがいい、と三度もやり直して、馬車が門を出たのは、空が茜色に染まりはじめてからだった。
フリーダは薄紅色の絹のドレスに真珠の首飾り。継母は羽根飾りのついた帽子。
私は、いつもの灰色の侍女服のままだった。
「あなたは御者台よ。ドレスに土がついたら困るもの」
御者のトーマスさんの隣に、私は薔薇の籠を抱えて座った。
「お嬢様」
トーマスさんが、前を向いたまま小声で言った。
「その薔薇、奥様が生きていらした頃の花と、同じ色ですな」
「……ええ。母の株から、育てたんです」
「きっと、王妃様もお喜びになりますよ」
トーマスさんの皺だらけの横顔を見て、少しだけ、胸が温かくなった。
背後の小窓が開いて、フリーダが顔を出した。
「ねえ、土かぶりお姉様。門の外で待つあいだ、あんまり目立たないでね。わたくしの侍女だと思われたら恥ずかしいもの」
「……ええ。気をつけますわ」
「お姉様は、一生お庭でいいわよね。土がお似合いだもの」
小窓が、ぱたんと閉まった。
籠を抱える指に、知らず力がこもった。
薔薇の棘が、ちくりと指先を刺した。
王宮の門の前には、着飾った貴族たちの馬車が列をなしていた。
門番長は、白い髭をたくわえた大柄な人だった。
招待客が封筒を差し出すたびに、一人ひとりの指を封蝋に触れさせている。
封蝋が光って、ぱちりと開く。宛名を確かめて、門番長がうなずく。
「次の方」
フリーダが、胸を張って進み出た。
継母が手提げから封筒を取り出して、門番長に渡す。
「ハーゼ伯爵家のフリーダでございます」
「では、ご本人の手で、封蝋に」
フリーダが、白い手袋を外して封蝋に指を当てた。
封蝋は、冷たく黙ったままだった。
フリーダがもう一度触れる。両手で包むように握る。しかし、何も起こらない。
後ろに並んでいた貴婦人たちが、扇の陰でささやき合いはじめた。
「開かないわね」
「宛名のご本人ではない、ということかしら」
フリーダの頬が、みるみる赤くなっていく。
「お、お母様!」
「貸しなさい!」
継母が封筒をひったくって、封蝋に爪を立てた。金色の封蝋には、傷ひとつつかない。
「奥方様。王家の封蝋は、宛名のご本人にしか開けられません。無理にこじ開けようとなさるのは、おやめください」
「融通というものがないの?」
継母は声を潜めて、手提げから小さな金の包みを取り出した。
「これで、通していただけないかしら。伯爵家の娘ですのよ」
門番長は、包みに目もくれなかった。
「封蝋が開かぬ方を通せば、わたくしの首が飛びますから」
後ろの列から、くすりと笑い声が漏れた。
年配の侯爵夫人が、連れの令嬢に聞こえよがしに言う。
「王家の封蝋を、袖の下で開けようだなんて。ハーゼ伯爵家も、ずいぶん変わったこと……」
継母の耳が、真っ赤になった。
遠くで、日暮れ前の鐘がひとつ鳴った。
継母の目が、籠を抱えて後ろに控えていた私をとらえた。
「……あなたね」
「え?」
「あなたが何かしたんでしょう! この泥だらけの手で、封筒に触ったのね!」
継母が、私の肩を突き飛ばした。
よろけた拍子に、継母の手から封筒が滑り落ちた。石畳の上に、白い封筒が落ちる。
私は、反射的にそれを拾い上げていた。
その瞬間。
指先に、ぽうっと温かいものが触れた。
封蝋が、私の手の中で、朝の光のように輝く。
そしてぱちり、と小さな音がして、封が開いた。
まわりの貴族たちが、息をのんだ。
私は、開いた封筒を見つめたまま動けなかった。
門番長が、私の手から封筒を受け取った。
中の招待状を取り出して、低く通る声で読み上げる。
「エマ・ハーゼ嬢。真冬の花壇を咲かせた方へ。王妃エレオノーラより」
門の前が、しんと静まり返った。
継母の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
「そ、そんなはずありません! その子は、使用人同然の娘で……何かの間違いです。王妃様がお招きになったのは、わたくしの娘のフリーダで……」
「奥方様」
門番長が、静かに遮った。
「封蝋と王妃様は、嘘をつきません」
それから私に向き直って、深く一礼した。
「エマ・ハーゼ嬢。お待ちしておりました。どうぞ、お通りください」
私は、自分の格好を見下ろした。
灰色の侍女服。
エプロンには、今朝の土のしみが残っている。爪のあいだも、まだ黒い。
「あの……わたくし、こんな格好で……」
「お召し物の指定は、招待状にございません」
門番長は、そう言って口の端をかすかに上げた。
そのとき、フリーダが叫んだ。
「お姉様なんかが! 土かぶりのくせに!」
侯爵夫人が、扇をぱちりと閉じた。
「お嬢さん。土にまみれて花を咲かせる手と、その手を笑う口と、王妃様がどちらをお招きになるか。今、目の前でご覧になったでしょう?」
フリーダが、真っ赤な顔のまま口をつぐんだ。
二度目の鐘が鳴りはじめた。日暮れの鐘だ。
私が一歩踏み出した瞬間、継母の手が、私の腕をつかんだ。
「どこへ行くの。あなたは門の外で待つと言ったでしょう?」
爪が、袖ごしに食いこむ。
いつもなら、ここで黙ってうなずいていた。
鐘の音が、ひとつ、またひとつと響く。
「……お継母様。この封筒の宛名は、わたくしです」
私は、継母の指をほどいた。
自分でも驚くほど、手は震えていなかった。
鐘が鳴り終わる前に、私は薔薇の籠を抱え直して、門をくぐった。
私のあとに並んでいた招待客たちも、鐘に追い立てられるように封蝋を開けて、次々と門をくぐっていく。
鐘の最後の音と一緒に、背後で重い門が閉まった。
宛名のない人は、通れないのだ。
門の内側は、ランタンの明かりに照らされた美しい庭だった。
けれど、その奥に広がる薔薇園だけは、まるで冬のままだった。
葉は茶色く縮れ、枝はやせ細っている。
つぼみひとつ、ついていない。
「あれが、わたくしの薔薇園よ」
振り返ると、銀の髪を結い上げた貴婦人が立っていた。穏やかな目をした方だった。
その隣に、見慣れた姿があった。杖をついた、腰の曲がった老女。
「シスター・マルタ!」
「ほらね。思いがけないものが届いたでしょう?」
シスターが、いたずらっぽく笑った。
貴婦人が、私の前に進み出た。
「王妃のエレオノーラです。来てくださって、ありがとう」
私はあわてて膝を折った。籠の中で、母の薔薇が揺れる。
「お、王妃様……エマ・ハーゼと申します。あの、こんな格好で申し訳ございません。継母の荷物持ちとして来たものですから、着替えもなくて、それに、手もまだ土だらけで……」
緊張で、言葉が次々に転がり出てくる。
王妃様は、私の手をそっと取った。
土のしみがついた、ひび割れた手を。
「マルタはね、わたくしが子どもの頃の乳母なの。今でも手紙をくれるのよ。あの雪の中で、教会の花壇を咲かせた娘がいるって」
それから、少しだけ声を落とした。
「あなたがお父様に書いた手紙に、一度もお返事が来ていないことも、マルタはずっと心配していたわ。だから、表には家の名前だけを書いて、宛名は封の中にだけ書いたの。あなたの名前を表に書けば、きっと途中で消えてしまうと思ったから」
王妃様は、私の抱えた籠に目をやって、ふふっと笑った。
「花籠をお願いしたのも、マルタの入れ知恵よ。籠を持たされるのは、きっとあの子だからって」
胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。
王妃様は、薔薇園のほうを振り返った。
「この庭はね、わたくしが故郷から持ってきた薔薇なの。嫁いでくるとき、母が持たせてくれた株よ。母は、もう何年も前に亡くなったわ。……ここ数年、どの庭師が手を尽くしても、咲かなくなってしまった」
「……わたくしの母も、亡くなりました」
思わず、口からこぼれていた。
「この籠の薔薇は、母が遺した株なんです。継母は、わが家の庭の花だとお伝えしなさいと申しておりましたけれど、本当は、母の薔薇なんです」
王妃様は、籠の中の薄紅色の薔薇を、じっと見つめた。
「そう。あなたも、お母様の花を守ってきたのね」
その一言で、目の奥が熱くなった。
王妃様の横顔に、母の庭が重なった。
「……わたくしで、よろしいのでしょうか」
声が、震えた。
「わたくし、ずっと土かぶりと呼ばれてきました。この手は、お客様に見せられないと言われてきました。そんな手で、王妃様の大切な薔薇に、触れてもよろしいのでしょうか」
「その手だから、お招きしたのよ」
王妃様は、まっすぐに私を見て言った。
私は、薔薇園の入口にいちばん近い株の前に膝をついた。
まず、根もとの土に素手を差し入れた。表面がかちかちに固まっている。
指でほぐすと、その下は水が溜まって冷たく、少し酸っぱいにおいがした。
水はけが悪い。それに、土が息をしていない。
固まった土を指で崩し、根のまわりに空気を入れていく。
爪のあいだに、また黒い土が入りこむ。いつもの朝と同じように。
それから、枯れたように見える枝の根もとを、両手でそっと包んだ。
大丈夫。まだ、根は生きている。
指先が、ぽうっと温かくなった。
茶色く縮れていた葉が、ゆっくりと緑に戻っていく。
枝の先に、小さなつぼみがふくらむ。
ひとつ、ほころんだ。
それを合図にしたように、隣の株が、その隣の株が、次々に緑を取り戻していく。
つぼみがふくらみ、花びらが開いていく。
ランタンの明かりの中で、薔薇園いっぱいに、淡い金色の薔薇が咲き広がった。
甘い香りが、夕暮れの空気を満たしていく。
庭に集まっていた招待客たちから、小さなどよめきが上がり、それがやがて大きな歓声に変わっていった。
「……ああ」
王妃様が、両手で口もとを覆っていた。
「母の庭の、色だわ」
その目に、涙が光っていた。
私は、立ち上がることも忘れて、咲いた薔薇を見上げていた。
「……よかった。咲いてくれて、よかった」
気づけば、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「王妃様、この子たち、ずっと待っていたんです。根っこが、まだちゃんと温かくて。土が少し固くなっていたのと、水はけが悪かったのと、それから、きっと、さびしかったんだと思います。母がいつも言っていました。花は、話しかけてくれる人のところで咲くのよって」
泣きながら、まだしゃべっていた。
王妃様は、涙をぬぐいながら笑った。
「エマ。あなた、このまま王宮に残って、わたくしの庭の花守になってくださらない?」
「……花守、ですか?」
「ええ。この薔薇園を、あなたに任せたいの」
母の庭以外の場所で、花を咲かせてもいいなんて。
それを、誰かが望んでくれるなんて。
「……はい。喜んで」
声は震えていたけれど、自分の言葉で答えられた。
王妃様は、満足そうにうなずいてから、ふと門のほうへ目を向けた。
「それから、あなたのご家族に、ご挨拶をしなければね」
門の外では、継母とフリーダが、まだ格子の前に立っていた。
薔薇の香りと歓声は、塀の外まで届いていたらしい。
継母は、王妃様の姿を見るなり、格子にすがりついた。
「王妃様! その娘は、わたくしが育てた娘でございます! 母でございます! どうか、わたくしどももお通しくださいませ!」
王妃様は、格子の手前で足を止めた。
門の外に残っているのは、締め出された二人と、迎えの馬車を待つ御者たちだけだった。
門の内側では、王妃様の後ろについてきた招待客たちが、格子越しに息をひそめて見守っている。
「ハーゼ伯爵夫人」
王妃様の声は、穏やかだった。穏やかすぎて、背筋が冷えるほどだった。
「あの子を、土かぶりと呼ばせていたそうね」
継母の顔が、凍りついた。
「お手紙も、ずいぶん届かなかったと聞いているわ。……ハーゼ伯爵夫人、今後の参内は不要です」
それだけ言うと、王妃様は私の肩にそっと手を置いて、背を向けた。
格子の向こうで、継母が膝から崩れ落ちるのが見えた。
フリーダは、母親の袖をつかんだまま、泣き声も出せずに立ち尽くしていた。
格子の内側で、貴婦人たちの扇がひそひそと揺れはじめる。
その夜のうちに、話は社交界じゅうに広まったそうだ。
王妃様からの書状を受け取った父が、港町から馬を飛ばして帰ってきたのは、それから間もなくのことだった。
書状には、私の手紙が一通も届いていなかったことが書かれていたらしい。
父は王宮で私を見つけると、旅の埃も払わずに言った。
「一緒に、家へ来てくれ。確かめたいことがある」
屋敷の居間では、継母が青い顔で待っていた。
フリーダは、母親の後ろに隠れるように立っている。
「おかえりなさいませ、あなた。あの、王宮での件は、何かの行き違いで……」
「文机の鍵を出しなさい」
父の声は、低かった。
継母の顔が、ひきつった。
「な、何をおっしゃるの。女の文机を開けるだなんて……」
父は答えずに、執事から合い鍵を受け取って、継母の文机の引き出しを開けた。
中から出てきたのは、紐でくくられた二つの手紙の束だった。
ひとつは、私が父に宛てて書いた手紙。
もうひとつは、父が私に宛てて書いた手紙。どちらも、封が切られないまま押しこまれていた。
「私の手紙も、エマに届いていなかったのか」
父の手が、束を握りしめて震えていた。
「ち、違うのです。あの子があなたに泣き言ばかり書くから、お仕事の邪魔になると思って……あなたのお手紙だって、あの子が甘えないように、わたくしが……」
「それが、エマのためだと言うのか?」
父は、束を机に置いた。
「ベアトリス。君とは今すぐ離縁する。今日のうちに、フリーダを連れて実家へ帰りなさい」
継母が、その場に崩れ落ちた。
フリーダが「お母様」と泣きながらすがりつく。
私は、それを黙って見ていた。
胸がすっとするかと思っていたのに、ただ、ひどく疲れていた。
二人が荷物をまとめて屋敷を出ていったのは、その日の夕方だった。
継母の実家は遠い田舎の男爵家で、もう王都の茶会に顔を出すことはないだろう、と執事がそっと教えてくれた。
その夜、父は、母の庭の前で私に頭を下げた。
「すまなかった、エマ。母さんが亡くなって、この家にいるのがつらくて、私は仕事に逃げた。家を誰かに任せれば済むと思っていた。……済むわけが、なかったのにな」
父の肩が、小さく震えていた。
「お父様。わたくし、寂しかったです。お返事が来ないのは、お父様がわたくしのことをお忘れになったからだと、ずっと思っていました」
「忘れるものか。毎月、書いていたんだ。私のほうこそ、返事が来ないのは、お前を置いていった私が恨まれているからだと思っていた」
父の束を受け取ると、一番上の封筒には、私の誕生日の日付が書かれていた。
涙で、宛名の文字がにじんだ。
父は、私の土だらけの手を、両手で包んだ。
「それから、母さんの庭には腕のいい庭師を入れる。だから、お前は週に一度、帰ってきて教えてやってくれないか。……私にも、見せてほしい。母さんの庭を、ちゃんと見たことがなかったから」
胸が、いっぱいになった。
「……はい。毎週、帰ります」
私は、泣き笑いの顔でうなずいた。
「お父様に見ていただきたい花が、たくさんあるんです」
花守として迎えた最初の夜、私は、母の庭から株分けしてきた薔薇を、王宮の薔薇園の一角に植えた。
王妃様の故郷の金色の薔薇と、母の薄紅色の薔薇が、並んで夜風に揺れている。
部屋に戻って日記を開き、あの日の招待状の封蝋をはさんだ。
押し花にした、母の薔薇の花びらと一緒に。
封蝋は、もう光らない。けれど、温かい。
明日の朝も、私は土にまみれる。
今度は、誰にも土かぶりとは呼ばれない場所で。




