第5話: 最初の患者
走ってきたのは、まだ十にもならない少年だった。
薬草園の入口で膝に手をつき、白い息を荒く吐いている。
「じいちゃんが……じいちゃんが倒れて、動かなくて……!」
リリアーナは月見草の苗を確かめていた手を止め、腰のポーチに手を伸ばした。乾燥させた月見草の花弁と、ガラスの小瓶に詰めた陽だまり草の露。星霜の庭から持ち出した薬材が、まだ残っている。
「案内してください」
少年の祖父は、城下町の南端にある古い石造りの家に横たわっていた。
扉を開けた瞬間、熱気と汗の匂いが押し寄せた。白髪を汗で額に貼り付けた老人が、炎に炙られたように顔を赤くしている。呼吸が浅く、速い。
寝台の脇に、少年の母親が座り込んでいた。目が赤い。濡れた布を絞った桶が置いてある——水で額を冷やす以外に、手立てがなかったのだ。
「オットー先生は隣領に出張中で……早くて三日は戻りません」
近隣の男が答えた。
リリアーナは寝台に歩み寄り、老人の額に手のひらを当てた。
——肺の炎症。悪化すれば命に関わる。だが今ならまだ間に合う。
「私が診ます。お湯を沸かしてください」
指示を出した瞬間、空気が変わった。
「待ってくれ」
入口に立っていた四十がらみの男が、腕を組んだまま言った。
「あんた、王都から来た薬師だろう。追放された——毒を扱ったとかいう」
「毒は扱っておりません」
「噂じゃ、調合室から毒草が出てきたって。あんたの薬なんぞ、親父に飲ませられるか」
リリアーナは静かに手を下ろした。予想はしていた。王都での噂は、馬車よりも速く北の果てまで届く。
だがその間にも、老人の呼吸は荒くなっている。
「お気持ちは理解いたします。ですが——」
「俺が保証する」
声は背後から聞こえた。ルシアンが戸口に立っていた。軍服風のコートの襟を立て、柱に肩を預けている。
「彼女は本物だ。俺が保証する。何かあったら俺が責任を取る。だから——今は、あの爺さんを助けることだけ考えろ」
男たちが顔を見合わせた。少年の母親が最初に動いた。「お湯を……沸かしてきます」
リリアーナはルシアンを一瞬だけ見た。灰青の瞳と目が合う。ルシアンは小さく顎で促した。——やれ、と。
革箱を開き、器具を並べた。銅の小鍋、石臼、乳鉢。
沸いた湯で器具を清めた。——なぜそうするのかは、うまく説明できない。ふと浮かぶ感覚。白い壁の部屋。手を洗う水の音。「正しい」という確信だけがある。
「器具を熱湯で清めます。目に見えない汚れがありますから」
領民たちが怪訝な顔をした。だが構わなかった。
ポーチから月見草の乾燥花弁を取り出す。白銀に透ける六弁花の花弁。星霜の庭で——もう戻れないあの場所で——丹精込めて育てた月見草だ。
陽だまり草の露を三滴。
石臼に花弁を載せ、すり潰す。銀色の繊維が砕けるたび、月光の残り香が立ち昇る。沸騰した清水に月見草の粉末を落とし、陽だまり草の露を一滴ずつ。
指先に力を込めた。薬師としての全神経を注ぐ。
初めての患者だ。失敗は許されない。「追放された薬師の薬」が効かなければ、次の患者は来ない。
四半刻。液体が濁りから淡い銀色に変わっていく。不純物が取り除かれ、月見草の薬効だけが残る。透き通った銀の液体——月露の解熱薬。完成だ。
「飲ませてあげてください。ひと口ずつ、ゆっくりと」
母親が震える手で老人の唇に陶椀を当てた。老人は朦朧としながらも、唇に触れた液体を本能のように飲み込んだ。
三口目を飲んだ時——老人の呼吸が、目に見えて穏やかになった。荒く上下していた胸が、ゆっくりと規則正しいリズムに変わる。額の汗が引き、赤みが薄れていく。
「熱が……下がってきてる……」
母親の声が震えた。少年が「じいちゃん」と呼びかけた。老人の瞼が微かに動いた。苦痛のない、穏やかな眠りに落ちたのだ。
「翌朝にもう一度、同じ量を飲ませてください。水をたくさん摂るように。首のここと、腋の下も冷やすと、熱の下がりが早くなります」
前世の記憶が指先を導いた。大きな血管が通る場所を冷やすほうが効率が良い——理由は言語化できない。ただ「正しい」と知っている。
家を出ると、冬の風が頬を打った。
あの四十がらみの男が入口に立っていた。地面を見つめていたが、リリアーナが出てくると顔を上げた。
「……すまなかった」
「気にしておりません」
穏やかに答えた。本心だった。父親を思う気持ちのほうが先に立っていたのだろう。それは——正しい感情だ。
男は「ありがとう」とだけ呟いて、家の中に戻っていった。
ルシアンが城壁の前で待っていた。
「終わったか」
「はい。明日にはお熱も下がるかと」
二人で城への道を歩いた。
「あの器具を湯に浸けてたのは何だ?」
「器具を清める手順です。……ふと、思い出したのです。前に読んだ書物に」
ルシアンは追及しなかった。「面白いな」と呟いただけだった。
城が近づいた時、リリアーナは足を止めた。
「領主様。ありがとうございました。あの場で庇っていただかなければ、診ることすらできませんでした」
「礼は要らん。あの爺さんが助かったのはお前の腕だ」
一呼吸。
「ありがとう」
その言葉だけは、軽口ではなかった。
東棟の小さな部屋に戻り、残った薬材の点検をした。月見草の乾燥花弁——あと数枚。陽だまり草の露は小瓶に半分。薬草園の苗が育つまで、この備蓄で凌がなければならない。
窓の外に目を向けた。薬草園で、月見草の苗が少しずつ伸びている。霜晶草の苗も、ヘルダの畑から移植した株が根を張り始めている。
だが——星霜花の区画に、変化はなかった。
毎朝確かめている。土を荒らさないように、指先でそっと表面を撫でる。芽の気配は——まだない。
「……もう少しだよ。この土は良い土だから。きっと、根を張ってくれる」
誰もいない部屋で、種に語りかけた。
窓から見える薬草園の隅に、星霜花を蒔いた区画がある。霜の降りた土壌。冷たい北風。母の庭とは何もかもが違う。
それでも——この種は、母が三十年守った命だ。
きっと、芽を出してくれる。いつか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第五話「最初の患者」——追放された薬師が、辺境で最初の信頼を勝ち取る話です。
書いていて一番力を入れたのは調合シーンです。月見草を石臼ですり潰し、陽だまり草の露を三滴。同じ「月露の解熱薬」でも、追放された薬師が作ると意味が変わる。失敗すれば「毒だ」という噂が確定してしまう——だからリリアーナは一切手を抜かない。
ルシアンの「俺が保証する」は、この物語の重要な転換点です。追放された薬師の味方をする領主。それは信頼ではなく、合理的な判断です。薬師がいなければ領民が死ぬ。だから使う。——感情ではなく、合理。この男の本質がここに表れています。
そして星霜花は、まだ芽を出しません。毎朝そっと土を撫でるリリアーナの指先に、読者の皆さんも一緒に待っていてくださると嬉しいです。
次話「銀色の紋様」では、ルシアンの秘密に迫ります。お楽しみに。
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