第3話: 辺境への道
ハルトヴィヒ領を出て東へ五日。
山道を一人で歩き続けた足はとうに限界を超えていた。靴底は擦り減り、足首には水膨れができている。標高が上がるにつれ空気が冷たくなり、薄い外套では寒さが骨に染みた。
道端の草を見つけるたびに、つい薬効を考えてしまう自分がおかしかった。薬草師の性は、追放されたくらいでは抜けない。
三日目の夜、道端で野宿をしながら星を見上げた。星霜花の名前の由来は「星の霜」——母が冬の朝、花弁に降りた霜が星のように煌めくのを見て名づけたのだという。懐の種を握りしめて、眠った。
四日目の昼。山道の脇にしゃがみ込んで、月見草の乾燥花弁を齧った。食料代わりにはならないが、薬効が僅かに体の疲れを和らげてくれる。
五日目の朝——山の空気に混じるその匂いに、リリアーナは足を止めた。
「……この匂い」
清冽で、どこか甘い。薬草師なら見間違えない。
「氷雪蘭? こんな場所に自生しているの……?」
星霜の庭では栽培が極めて難しかった希少種が、山の斜面に群生していた。青みがかった葉が霜を纏い、朝の光を受けてきらきらと光っている。
寒冷地でなければ育たない——そう母の手記にも記されていた。
疲れが一瞬、吹き飛んだ。薬草を見ると体が勝手に動く。膝をつき、葉の厚みを指で確かめ、茎の太さを測る。
「すごい……。高山の寒さで育った分、葉が厚い。薬効が強そう……」
「おや。見かけない顔だね」
背後からしわがれた声が降ってきた。
振り向くと、白髪を団子にまとめた小柄な老婆が立っていた。腰に薬草袋を下げ、手には摘んだばかりの草が握られている。
「旅の人かい? こんな山奥まで来るなんて、珍しいね」
「は、はい……少し、休ませていただける場所を探しているのですが……」
老婆——ヘルダは、リリアーナの手をじっと見た。
薬草の汁で染まった指先。爪の間に残る土の色。
「……ほう」
ヘルダの薄い茶色の目が、深い皺の奥で光った。
「薬草を扱う手だね。いい手をしてるよ、お嬢ちゃん」
「……わかるのですか?」
「五十年、薬草を触ってきたからね。同じ手をした人間は、ひと目でわかるさ」
ヘルダはリリアーナの顔をまじまじと見た。それから、ふっと息を吐いた。
「追い出されたクチかい」
言い当てられて、リリアーナは言葉を失った。
「その顔を見りゃわかるよ。腕はあるのに居場所がない——って顔してる。何十年も薬草を触ってりゃ、人の顔色だって読めるようになるんだよ」
「……はい。追い出されました」
「そうかい」
ヘルダはそれ以上は聞かなかった。
「じゃあ、うちの村においで。この先にベルクハイム村ってのがある。ノルトハイム辺境伯の領内でね。小さい村だけど、薬草師がいなくて困ってるのさ」
「薬草師がいない……?」
「あたしも年だからね。膝が痛くて、もう山を登れないんだよ。若い手が欲しかったところさ」
ぶっきらぼうに言って、ヘルダは背を向けた。
「ほら、着いておいで。まずは温かいものでも飲みな」
小柄な背中が、山道を迷いなく歩いていく。リリアーナは、その背中に母の面影を重ねていた。
ベルクハイム村は、山裾に寄り添うように佇む小さな集落だった。石壁の家が二十軒ほど。ヘルダの小屋は村の外れにあり、裏手に小さな薬草畑が広がっている。
「これは……」
リリアーナは目を見開いた。星霜の庭とは全く異なる薬草が、山の斜面に沿って植えられている。見たことのない草、匂ったことのない花。
「山の薬草は平地のとは違うんだよ」
ヘルダが誇らしげに言った。
「寒さに耐えた分だけ、薬効が強いのさ。ほら、この青い花——霜晶草ってんだけどね。咳に効くんだよ。陽だまり草より効くよ」
「陽だまり草より……?」
「学院の薬物辞典にゃ載ってないだろうけどね。この山の薬草は、この山にしかないんだよ。あたしの母さんがそう教えてくれた。そのまた母さんから受け継いだ知恵さ」
リリアーナの胸が熱くなった。学院式の正統薬草学と、民間に伝わる土着の薬草学。体系は違えど、根は同じだ。薬草を愛し、人を癒す——その一点で繋がっている。
「ヘルダさん。お世話になってもよろしいですか」
「いいとも。ただし、あんた一人で決めていい話じゃないよ」
「……と言いますと?」
「この辺りはノルトハイムの領主の管轄だからね。領主に顔を見せて、筋を通しておきな。ちょうど領都はここから半日だ」
翌朝、ヘルダに見送られて領都への道を歩いた。
ノルトハイム辺境伯領の領都が見えてきた。石壁に囲まれた小さな城下町。城壁は古く、所々に補修の跡を見せている。華やかさはない。だが堅実に人が暮らしている匂いがする——煙突の煙、鍛冶の音、子どもの声。
城門で足を止められた。
「止まれ。身分と用件を」
初老の門番だった。
「リリアーナ・フォン・ハルトヴィヒと申します。薬師です。ベルクハイム村のヘルダさんの紹介で参りました」
「ハルトヴィヒ……?」
門番の眉が動いた。隣の若い兵士が耳打ちする。
「王都で追放された薬師殿か。毒を扱ったとかいう噂が——」
「毒は扱っておりません」
穏やかに。だが語尾だけは、はっきりと。
門番が口ごもった。通す判断を自分ではできないのだろう。リリアーナは黙って待った。
「門番殿。その者は通せ」
声は、門の内側から聞こえた。
門番が慌てて背筋を伸ばし、振り返る。石壁の影から、一人の若い男が歩み出てきた。
暗い金髪が北風に乱れている。仕立ての良い、しかし飾り気のない軍服風のコート。長身。だが——どこか痩せている。健やかな細さではない、と薬師の目は無意識に読み取っていた。
灰青の瞳が、リリアーナを見た。
正確には——リリアーナの指先を。
薬草の汁で薄く染まった、薬師の手を。
「ヘルダ婆さんの紹介なら間違いない。——俺はルシアン・フォン・ノルトハイム。ここの領主だ」
飄々《ひょうひょう》と笑った。だがその灰青の瞳の奥に、何かを見定めるような静かな光が宿っていた。
「追放された令嬢薬師だろう? ちょうど薬師を探していたところだ」
「……お話が早いのですね」
「ヘルダ婆さんから鳥便が来た。『腕のいい薬師のお嬢ちゃんが来た。使ってやりな』って」
リリアーナは内心で驚いた。ヘルダはぶっきらぼうに「領主に筋を通せ」と言っただけだったのに、その裏で手を回していたのだ。
「見ての通り、うちは貧乏だ。金はない、人も少ない。でも」
ルシアンの表情が一瞬だけ変わった。軽い口調が消え、領主の顔が覗いた。
「病人だけは多い。医師は一人。薬師はゼロ。この前の冬は領民が三人死んだ。薬があれば助かった命だ」
リリアーナは黙って頷いた。
「お前の条件は?」
「薬草園を作らせてください。見返りは領民の治療です」
「いいよ。好きにやってくれ」
即答。交渉ですらなかった。
リリアーナが驚いた顔をすると、ルシアンは肩を竦めた。
「噂は聞いてた。けど、お前の手を見ればわかる。毒を盛る人間の手じゃない。薬草を育ててきた人間の手だ」
リリアーナは指先を見下ろした。薬草の汁で染まった爪の間。土を何百回も掘り返して硬くなった掌。
「……ありがとうございます。お世話になります」
城壁を歩きながら、ルシアンが何気なく右手で左手首を押さえるのを、リリアーナは見ていた。一瞬だけ——歩調が乱れた。すぐに持ち直して、何事もなかったように歩き出す。
薬師の目は、見逃さない。
だが今は——まだ聞かない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三話「辺境への道」——氷雪蘭の群生地でヘルダと出会い、ノルトハイムでルシアンと出会う。二つの出会いが、リリアーナの第二章を開きます。
ヘルダの「追い出されたクチかい」は、書いていて最も筆が乗った台詞です。五十年薬草を触ってきた老婆は、手を見て人を見抜く。そしてリリアーナの背後で、黙って領主に鳥便を飛ばしている。ぶっきらぼうだけど温かい——母に続いてリリアーナが出会った「大人の女性」です。
そしてルシアン。手を見て「本物だ」と判断する男。飄々とした態度の裏に、領民を三人失った痛みがある。この男の左手首に何が隠されているのか——次話以降で明らかになります。
次話「荒れ地の薬草園」では、北の大地に薬草園が生まれます。お楽しみに。
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