第2話: 讒言と追放
「侯爵閣下。お嬢様の調合する薬について、ご報告申し上げたき儀がございます」
マティアスが父に謁見を求めたと聞いた瞬間、リリアーナの胸は凍りついた。
——やはり、来た。
影夜草の種を見つけたあの日から、薄々覚悟はしていた。あの男は薬草を「雑草」と見る。リリアーナの庭を脅威と見る。ならば排除しようとするのは時間の問題だった。
父の執務室に呼ばれた時、マティアスはすでにそこにいた。白衣の胸ポケットに差した羽根ペンを神経質にいじりながら、穏やかな声で言った。
「お嬢様が領民に投与している薬の中に、成分不明の薬草が複数含まれております。医学的見地から申しますと、これらの薬草には毒性がないとは……いえ、危険がないとは言い切れません」
「毒だと? リリアーナの薬がか」
父——ハルトヴィヒ侯爵が眉を寄せた。
「毒ではありません!」
リリアーナは声を上げた。
「この薬草は母の代から三十年以上——」
「お嬢様」
マティアスが遮った。穏やかだが、確かな重みのある声だった。
「私は王都の医学院で八年間、薬理学を修めました。学院の薬物辞典に載っていない薬草を、正式な薬理試験もなく領民に投与することの危険性を、ご理解いただけますでしょうか。万が一——万が一にも毒性があった場合、侯爵家の名に傷がつきます」
巧みだった。「毒だ」とは一度も断言していない。「危険がないとは言い切れない」「万が一」——可能性を示唆するだけで、不安の種を撒いていく。学院の権威という盾の前に、「効く薬は効く」という素朴な真実は無力だった。
父の顔が曇った。
「リリアーナ。侍医殿の言葉を軽く見るわけにはいかん。念のため、薬草園での調合は——」
「お父様、あの子たちは毒なんかじゃ——せめて調べてください。お母様が三十年かけて育てた庭です。薬理試験をすれば安全だとわかります」
「調査の間にも万が一のことがあれば、侯爵家の名に傷がつく。念のためだ」
父はそれ以上、聞く耳を持たなかった。
——独学。
口にはしなかったが、父の目がそう言っていた。侍医殿は王都の医学院出身だ。お前の——母の——独学よりも信頼できる、と。
母の知恵を。三十年の積み重ねを。七年間の実績を。学院の肩書き一つで量られた。
翌日。クラウスが侯爵邸を訪れた。
婚約者のクラウス・フォン・ブレンナー。明るい金髪に青い瞳。幼い頃から一緒に育った、いつも笑顔の優しい人——のはずだった。
けれどその日のクラウスの顔は強張り、目が泳いでいた。
「リリアーナ。話がある」
中庭のベンチに並んで座った。クラウスの声は震えていた。
「侍医殿から聞いた。君の薬に——毒の可能性があると」
「クラウス様、それは違います。あれは讒言です。マティアスが——」
「でも、君の薬が医学院に認められていないのは事実だろう?」
言葉に詰まった。確かに、星霜花も氷雪蘭も、王都の薬物辞典には載っていない。母が独自に発見し、この庭で育ててきた固有種だ。学院に報告する機会はなかった——その必要も感じていなかった。
「リリアーナ。すまない。でも、毒を扱う女と婚約していると噂されたら、ブレンナー家の名にも傷がつく。この婚約は——」
「——なかったことにしてくれ、と?」
クラウスは目を逸らした。
「……僕には判断できないんだ。侍医殿が言うなら、そうなんだと思う」
自分で確かめようとはしなかった。この庭に来て、薬草に触れて、領民の声を聞いてくれれば——わかるはずなのに。
リリアーナは唇を噛んだ。
「……わかりました」
涙は出なかった。泣くよりも先に、胸の奥の何かがすうっと冷えていった。
追放が告げられたのは、その三日後だった。
「リリアーナ。領民の安全のため、お前にはこの領地を去ってもらう」
父の声は硬かった。
「お父様。七年間、この庭の薬で何人の領民が救われたか——」
「侍医殿は王都の医学院出身だ。お前の独学よりも信頼できる」
——独学。
ついに口にされた。母の知恵を、三十年の積み重ねを、七年間の実績を、たった一言で片づけた。
反論の言葉は胸にあった。マティアスが影夜草の種を庭に紛れ込ませた証拠もある。だがそれを口にしても、父はマティアスの言葉を信じるだろう。学院の権威という壁は、今のリリアーナには崩せない。
「……わかりました。お父様」
リリアーナは静かに頷いた。
荷造りは半日で終わった。
着替えをひとつ、母の手記を一冊、調合道具の最低限。それだけだった。
影夜草の種を封じた小瓶と、マティアスの庭への不正侵入を記録した書簡を、荷の底に入れた。今はまだ使う時ではない。
最後に、星霜の庭に足を向けた。
夕暮れの薬草園は、いつもと同じ穏やかな匂いに満ちていた。月見草が露を蓄え、星霜花が白い花弁を風に揺らし、陽だまり草が最後の陽光を浴びている。氷雪蘭の青みがかった葉が、夕風に微かに震えていた。
リリアーナは一つ一つの薬草に触れて歩いた。
「ごめんね……もう、わたしは来られないの」
月見草の葉を指でそっと撫でる。
「誰かがちゃんと手入れしてくれるはずだから……」
嘘だ。この庭の薬草は、それぞれに固有の手入れが必要だ。水やりの時刻、剪定の角度、隣り合う薬草との相性。母が三十年かけて築いたその体系を、リリアーナ以外に理解している者はいない。
マティアスにできるはずがない。あの男は薬草を「ただの草」としか見ていない。
——枯れる。この庭は枯れる。
わかっている。わかっていて、離れなければならない。
星霜花の前で膝をついた。白い花が、夕陽に染まって淡い桃色に輝いている。満開の星霜花。母が三十年守った命。
「……ごめんね」
種鞘から、数粒の種をそっと摘み取った。小さな、けれど確かな重みが掌に乗る。
これだけは——持っていく。
門を出るとき、料理長のバルトがエプロンで目を拭いながら立っていた。
「お嬢様。お嬢様の薬に救われた者は、この屋敷にも大勢おります。どうかお元気で」
「……ありがとう、バルト。薬草園の手入れだけは、どなたかにお願いしてくれますか。あの子たちは、放っておくと枯れてしまいますから」
「必ず……必ずお伝えします」
振り返らなかった。
懐の星霜花の種を握りしめて、リリアーナは歩き出した。
涙は出ない。出さない。泣いたら、あの庭に残してきた子たちに申し訳が立たない。
お母様——ごめんなさい。でも、この種があれば。どこでもやり直せる。
翌朝。リリアーナは護衛もなく、一人で領地を出た。
荷は少ない。衣服と薬学書、調合器具、そして種。月見草の乾燥花弁と陽だまり草の露を詰めた小瓶を腰のポーチに入れた。旅路で病人を見かけた時のための、薬師としての備え。
東へ向かった。山を越えれば辺境伯領がある。寒冷地の薬草は強い——母の手記にも、そう記されていた。
門を出る時、空を見上げた。朝焼けが東の山脈の稜線を赤く染めている。
背後に、星霜の庭がある。満開の星霜花がある。もう二度と、あの庭で「おはよう」と声をかけることはない。
「……行こう」
ポーチの中の種の感触を、指先で確かめた。小さな種。母の命。
種が一つあれば——どこでもやり直せる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第二話「讒言と追放」——マティアスの策が動き、リリアーナの日常が崩壊する回です。
マティアスは一度も「毒だ」と断言しません。「万が一」「危険がないとは言い切れない」——可能性を示唆するだけで不安を撒く。学院の権威という盾の前では、「三十年間効いてきた」という事実も力を持てない。これが政治的な讒言の恐ろしさです。
書いていて最も胸が痛んだのは、父の「独学」という一言です。母が三十年かけて築いた知恵を、その一言で踏みにじった。けれどリリアーナは泣かない。泣く代わりに星霜花の種を握りしめて、前を向いた。
次話「辺境への道」では、旅路の果てにヘルダとの出会いが待っています。お楽しみに。
☆ブックマーク・評価・感想をいただけると、次話の励みになります!




