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幽明の三碩  作者: 双鶴


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第9話 流浪の道(今川氏真)

 元亀二年。

 駿河を離れた今川氏真は、遠江の山道を歩いていた。


 春の風が、木々の間を抜けていく。

 その風は、駿府の炎の匂いをまだ微かに残していた。


 「……父上。

  わたしは、あなたとは違う道を行きます。」


 氏真は、足元の土を踏みしめた。

 義元は戦で死んだ。

 だが、氏真は戦で死なない。

 それが、敗者の生存の哲学だった。


 そこへ、朝比奈泰朝が駆け寄ってきた。


 「御屋形様!

  徳川の追手が近くまで――!」


 氏真は、静かに頷いた。


 「来るだろうな。

  だが、追手は“わたし”を追っているのではない。」


 泰朝は息を呑んだ。


 「では……何を?」


 氏真は、懐から一通の書状を取り出した。

 朝倉義景からの密書だ。


 「敗者の静謐は、敗者の生存を照らす。」


 その一行を、氏真は何度も読み返した。


 「徳川が追っているのは、今川家の“残影”だ。

  わたしではない。」


 泰朝は理解できずに黙り込んだ。


 氏真は、山道の先を見つめた。


 「泰朝。

  わたしは、もう“今川家の当主”ではない。

  ただの流浪の男だ。」


 泰朝は震える声で言った。


 「御屋形様……それでは、あまりにも……」


 氏真は微笑んだ。


 「よいのだ。

  敗者は、名を捨ててこそ生き延びる。」


 その時、山道の先に小さな村が見えた。

 煙が上がり、子どもたちの笑い声が聞こえる。


 泰朝が言った。


 「御屋形様……ここで休まれますか。」


 氏真は頷いた。


 村に入ると、農民たちが驚いた顔で二人を見た。

 だが、氏真は名乗らなかった。

 ただの旅人として、井戸の水を飲み、

 農家の軒先で休ませてもらった。


 その夜、村の老人が氏真に話しかけた。


 「旅の方。

  どこから来なさった。」


 氏真は、少し考えてから答えた。


 「……駿河から。」


 老人は頷いた。


 「駿河は、武田に攻められたとか。」


 氏真は、静かに言った。


 「ええ。

  わたしの故郷は、もうありません。」


 老人は、しばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと言った。


 「故郷を失った者は、強くなる。」


 氏真は、その言葉に胸を打たれた。


 「……強く、ですか。」


 老人は頷いた。


 「家を失い、名を失い、

  それでも生きる者は、強い。

  戦で勝つ者よりも、ずっと。」


 氏真は、義景の言葉を思い出した。


 ――敗者とは、時代に取り残された者のことだ。


 そして、前久の言葉も。


 ――敗者の漂泊は、敗者の美学を照らす。


 氏真は、静かに目を閉じた。


 「……わたしは、生き延びます。

  敗者として、最後まで。」


 老人は微笑んだ。


 「それでいい。

  生きていれば、道は開ける。」


 その夜、氏真は村の納屋で眠った。

 藁の匂いが、どこか懐かしかった。


 翌朝、村を出る前に、氏真は老人に深く頭を下げた。


 「ありがとうございました。」


 老人は言った。


 「旅の方。

  あなたは、きっと遠くまで行く。」


 氏真は微笑んだ。


 「ええ。

  まだ、行かねばならぬ場所がある。」


 泰朝が問う。


 「御屋形様……どこへ?」


 氏真は、遠くの山々を見つめた。


 「越前だ。

  義景殿に会わねばならぬ。」


 泰朝は驚いた。


 「義景殿に……?」


 氏真は頷いた。


 「敗者の連環は、まだ終わっていない。」


 春の風が、氏真の狩衣を揺らした。

 その風は、駿河の滅びを越え、

 新たな道へと彼を導いていた。


 今川氏真の流浪は、

 敗者の生存が“哲学”から“行動”へと変わる旅だった。


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