第8話 一乗谷の影(朝倉義景)
元亀元年。
一乗谷の空は、どこか重く沈んでいた。
朝倉義景は、書院の縁側に座り、庭の池を眺めていた。
水面には、春の雲がゆっくりと流れている。
その静けさは、戦国の喧騒とは無縁のようだった。
だが、義景の胸の内は、静かではなかった。
「……越前の風が変わったな。」
義景は呟いた。
浅井長政からの密使が、先ほど去ったばかりだ。
信長は、浅井を疑い始めている。
包囲網は、わずかな綻びを見せ始めていた。
そこへ、家臣の山崎吉家が控えめに入ってきた。
「御屋形様。
京より、近衛前久殿が越前へ向かっているとの報せが。」
義景は目を細めた。
「……前久殿が、京を捨てたか。」
吉家は頷いた。
「信長公の意に背き、京を離れたとのこと。
公家たちは動揺しております。」
義景は、静かに笑った。
「前久殿らしい。
あの男は、京という檻に収まる器ではない。」
義景は、懐から一通の書状を取り出した。
前久からの密書だ。
「敗者の漂泊は、敗者の美学を照らす。」
その一行を、義景は何度も読み返した。
「……漂泊、か。」
義景は、庭の池に映る自分の姿を見つめた。
そこに映っているのは、戦国大名ではなく、
滅びゆく王朝の最後の光を抱えた男だった。
吉家が、静かに言った。
「御屋形様。
浅井殿は、信長を討つために動くべきだと――」
義景は首を振った。
「吉家。
わしは、戦を好まぬ。」
吉家は、言葉を失った。
義景は続けた。
「戦は、文化を壊す。
わしが守りたいのは、越前の文化だ。
一乗谷の静謐だ。」
吉家は、義景の横顔を見つめた。
そこには、戦国の大名としての顔ではなく、
文化の守護者としての顔があった。
「だが……」
義景は、池に落ちた花びらを見つめた。
「文化は、時代に愛されねば生き残れぬ。」
吉家は息を呑んだ。
義景は、義景自身の胸の奥にある“影”を見つめていた。
「信長は、時代そのものだ。
わしは、その奔流の前に立ち尽くすだけの男よ。」
その言葉は、悲しみではなく、
静かな諦観と誇りに満ちていた。
そこへ、もうひとりの家臣――朝倉景鏡が駆け込んできた。
「御屋形様!
信長公が、越前への道を探っているとの報せが!」
義景は、ゆっくりと立ち上がった。
「……来るか。」
景鏡は叫んだ。
「御屋形様! 今こそ軍を挙げて迎撃を――!」
義景は、静かに首を振った。
「景鏡。
わしは、戦で信長を討つつもりはない。」
景鏡は怒りを抑えきれずに言った。
「では、どうなさるおつもりですか!」
義景は、前久と氏真の書状を並べた。
「敗者の美学。
敗者の生存。
敗者の漂泊。」
義景は、深く息を吸った。
「わしは――
敗者の“静謐”を守る。」
景鏡は理解できずに黙り込んだ。
義景は、池の水面に映る空を見つめた。
「越前は、滅びるだろう。
だが、この静謐は、誰にも壊させぬ。」
吉家は震える声で言った。
「御屋形様……それは……」
義景は、静かに言った。
「わしは、越前とともに滅びる。
それが、わしの美学だ。」
その声は、静かで、揺るぎなかった。
池の水面に、風がひとすじ走った。
その波紋は、やがて消えた。
義景の胸の奥にも、
同じ波紋が静かに広がっていた。
――滅びの予兆。
だが、その滅びは悲劇ではなく、
義景にとって“美学の完成”だった。




