第7話 京を去る(近衛前久)
永禄十三年。
京の春は、例年よりも冷たかった。
近衛前久は、二条御所の焼け跡に立っていた。
あの夜の炎から半年が経つというのに、
瓦礫の匂いはまだ消えていない。
「……京は、もう死んでいる。」
前久は、焼け焦げた柱に手を触れた。
かつてここにあった公家社会の栄華は、
信長の上洛とともに崩れ去った。
そこへ、ひとりの公家が駆け寄ってきた。
近衛家の家司、藤谷行房。
「前久様! 信長公より使者が――」
前久は振り返らずに言った。
「また、わたしを京に縛りつけるつもりか。」
行房は息を呑んだ。
「信長公は、前久様に“京の安定”を――」
前久は、静かに笑った。
「安定……?
信長が求めているのは、わたしの“利用価値”だ。」
行房は言葉を失った。
前久は、懐から二通の書状を取り出した。
ひとつは朝倉義景から。
もうひとつは今川氏真から。
「義景殿は、敗者の美学を守ろうとしている。
氏真殿は、敗者の生存を選んだ。」
前久は、焼け跡の空を見上げた。
「ならば、わたしは――
敗者の“漂泊”を選ぶ。」
行房は震える声で言った。
「前久様……京を、お捨てになるのですか。」
前久は頷いた。
「京は、もはやわたしの居場所ではない。
信長の京は、わたしの京ではない。」
その時、遠くから馬の蹄の音が響いた。
信長の使者だ。
行房が慌てて言った。
「前久様! お逃げを――!」
前久は、焼け跡の中央に立ち尽くしたまま動かなかった。
「逃げる必要はない。
わたしは、京を“去る”のだ。」
使者が馬を止め、前久の前に膝をついた。
「近衛殿。
信長公よりの御意にございます。」
前久は目を閉じた。
「言わずともわかる。
わたしに、京を守れと?」
使者は頷いた。
「公家の代表として、京に留まるようにと。」
前久は、静かに言った。
「……断る。」
使者は驚愕した。
「な、何と……!」
前久は、焼け跡の瓦礫を踏みしめながら歩き出した。
「信長にとって、わたしは“飾り”にすぎぬ。
だが、義景殿と氏真殿にとって、
わたしは“筆”だ。」
使者は声を荒げた。
「前久殿!
信長公に逆らえば――!」
前久は振り返り、静かに微笑んだ。
「逆らうのではない。
離れるのだ。」
その微笑みは、どこか危険で、どこか優雅だった。
前久は、行房に向き直った。
「行房。
京を頼む。
わたしは、しばし旅に出る。」
行房は涙をこらえながら頭を下げた。
「……前久様。
必ず、お戻りくださいませ。」
前久は頷いた。
「戻るとも。
だが、その時の京は、今の京ではない。」
前久は、焼け跡を背に歩き出した。
その背中は、京の公家ではなく、
戦国の“影”を歩む者のそれだった。
「義景殿。
氏真殿。
わたしも動く。」
京の春風が、前久の狩衣を揺らした。
その風は、やがて越前へ、駿河へ、
そして戦国の裏側へと流れていく。
前久の“漂泊”が、
敗者の連環をさらに強く結び始めていた。




