第6話 駿河崩壊(今川氏真)
永禄十三年初夏。
駿府の空は、異様な静けさに包まれていた。
今川氏真は、城の天守から駿河の町を見下ろしていた。
風が止まり、鳥の声すら聞こえない。
その静寂は、嵐の前触れのようだった。
「……来るな。」
氏真は呟いた。
武田信玄の軍勢が、駿河へ迫っている。
家臣たちは動揺し、城下は不安に満ちていた。
だが、氏真の表情は静かだった。
そこへ、朝比奈泰朝が駆け込んできた。
「御屋形様! 武田軍、今川領へ侵入との報せが!」
氏真は頷いた。
「そうか。」
泰朝は叫ぶように言った。
「御屋形様! 今こそ軍を挙げて迎撃を――!」
氏真は、ゆっくりと首を振った。
「泰朝。
戦えば、駿河は滅ぶ。」
泰朝は息を呑んだ。
「しかし……逃げれば、今川は終わります!」
氏真は、静かに鞠を拾い上げた。
白い鞠が、光を受けて淡く輝く。
「泰朝。
終わるのは“家”だ。
だが、わたしは終わらぬ。」
泰朝は理解できずに黙り込んだ。
氏真は鞠を軽く蹴り上げた。
鞠はふわりと宙を舞い、ゆっくりと落ちてくる。
「父・義元は、戦で死んだ。
だが、わたしは戦で死なぬ。
それが、敗者の道だ。」
泰朝は震える声で言った。
「御屋形様……それは、逃亡ということですか。」
氏真は、鞠を受け止めた。
「逃亡ではない。
“生存の選択”だ。」
その声は、静かで揺るぎなかった。
泰朝は、氏真の手元にある二通の書状に気づいた。
ひとつは朝倉義景から。
もうひとつは近衛前久から。
泰朝は問う。
「御屋形様……その書状は……?」
氏真は、二通の文を並べた。
「義景殿は、敗者の美学を語った。
前久殿は、敗者の意志を語った。
ならば、わたしは――」
氏真は、鞠をそっと地面に置いた。
「敗者の“生存”を示す。」
泰朝は息を呑んだ。
氏真は、義景の文を指でなぞった。
「義景殿は、越前で時代を揺らす。
前久殿は、京の闇で動く。
ならば、わたしは――
駿河の滅びを利用する。」
泰朝は震えた。
「滅びを……利用……?」
氏真は頷いた。
「駿河が滅べば、武田と徳川は争う。
その狭間で、わたしは生き延びる。」
泰朝は、氏真の言葉の意味を理解し始めた。
「御屋形様……それは……」
氏真は、静かに言った。
「敗者の連環は、戦ではなく“生存”で繋がるのだ。」
その時、城の外で喧騒が起きた。
武田軍が駿府へ迫っている。
泰朝が叫んだ。
「御屋形様! 急ぎ脱出を!」
氏真は、鞠を抱きしめた。
「行こう、泰朝。
駿河は滅ぶ。
だが、わたしは生きる。」
泰朝は深く頭を下げた。
「……御屋形様。
その道、必ずお守りいたします。」
氏真は、城を振り返らなかった。
駿府の町が燃え始めていた。
だが、その炎は――
氏真にとって“敗者の再生”の始まりだった。
「義景殿。
前久殿。
わたしは、生き延びてみせる。」
その声は、炎の中で静かに響いた。
駿河の滅びは、
氏真が“敗者の哲学”から“敗者の生存”へと変わる瞬間だった。




