第5話 包囲網の影(朝倉義景)
永禄十二年。
越前・一乗谷の空は、春の霞に包まれていた。
朝倉義景は、庭に面した書院で、ひとり硯に向かっていた。
墨を磨る音が、静かに響く。
その音は、戦国の喧騒とは無縁の、穏やかな響きだった。
だが、義景の胸の内は静かではなかった。
――比叡山での会合から、まだ数日しか経っていない。
前久の言葉が、耳の奥に残っている。
「表の歴史は信長が動かす。
ならば、裏の歴史は我らが動かす。」
義景は筆を取り、書状を書き始めた。
宛名は六角承禎。
信長包囲網の一角を担う男。
だが、義景の筆は途中で止まった。
「……承禎殿は、動かぬだろうな。」
義景は筆を置き、庭の桜を見つめた。
花は満開だが、風が吹けば散る。
その儚さが、義景の胸に刺さった。
そこへ、家臣の朝倉景鏡が入ってきた。
「御屋形様。
近江より密使が参っております。」
義景は目を細めた。
「……浅井殿か。」
景鏡は頷いた。
「浅井長政殿より、信長の動きについての報せが。」
義景は書院の奥へ進み、密使を迎えた。
浅井家の使者は、深く頭を下げた。
「朝倉殿。
信長公は、越前への道を探っております。」
義景は静かに息を吐いた。
「……来るか。」
使者は続けた。
「長政様は、朝倉殿が動かれれば、
包囲網は完成すると申しております。」
景鏡が言った。
「御屋形様。
今こそ、信長を討つ好機にございます。」
義景は、ゆっくりと首を振った。
「景鏡。
わしは、戦を好まぬ。」
景鏡は眉をひそめた。
「しかし――」
義景は、使者の前に置かれた書状を手に取った。
それは、前久からの密書だった。
「天下は、我ら敗者の手に委ねられている。」
義景は、その文を指でなぞった。
「……敗者が動く時は、戦のためではない。
時代を揺らすためだ。」
景鏡は理解できずに黙り込んだ。
だが、義景の視線は鋭かった。
「浅井殿に伝えよ。
わしは動く。
だが、戦ではなく――“調停”として動く。」
使者は驚いた。
「調停……?」
義景は頷いた。
「信長は、戦で倒すべき相手ではない。
時代そのものだ。
ならば、時代の流れを変えるのは、戦ではなく――
“言葉”だ。」
景鏡が声を荒げた。
「御屋形様!
信長は言葉の通じる相手ではございませぬ!」
義景は静かに言った。
「景鏡。
わしは、信長と戦うつもりはない。
信長の“背後”と戦うのだ。」
景鏡は息を呑んだ。
義景は、前久と氏真の書状を並べた。
「敗者の美学。
敗者の哲学。
そして、敗者の意志。」
義景は、筆を取り、浅井長政への返書を書き始めた。
「――包囲網は、わしが整える。」
その筆致は、迷いなく美しかった。
だが、その裏には、
史料には決して残らない“影の外交”が動き始めていた。
義景は書状を封じ、景鏡に渡した。
「これを長政殿へ。
そして……」
義景は、もう一つの封を取り出した。
宛名は書かれていない。
「この書状を、京へ。」
景鏡は驚いた。
「京……?
前久殿のもとへ、ですか。」
義景は頷いた。
「敗者の連環は、まだ始まったばかりだ。
わしは、裏の歴史を動かす。」
その声は、静かで、揺るぎなかった。
越前の春風が、書院の障子を揺らした。
その風は、やがて京へ、駿河へ、
そして戦国の裏側へと流れていく。
義景の“影の調停”が、
信長包囲網の裏で静かに動き始めていた。




