第4話 影の三筆(幻の初会合)
永禄十二年初春。
比叡山の山霧は、まだ冬の冷たさを残していた。
その霧の中を、ひとりの公家が歩いていた。
近衛前久。
京を離れ、行き場を失った“漂泊の公家”。
前久は、山門の前で足を止めた。
そこには、すでに二つの影が立っていた。
ひとりは、越前の主――朝倉義景。
もうひとりは、駿河の落人――今川氏真。
この三人が同じ場所に立つ史料は、どこにも存在しない。
だが、この瞬間、確かに三つの影は交わっていた。
前久は、静かに口を開いた。
「……お二人とも、よく来られました。」
義景は、山霧の向こうで微笑んだ。
その微笑みは、王朝文化の残り香をまとっている。
「前久殿。
あなたの書状がなければ、わしは越前を出なかった。」
氏真は、袖を整えながら言った。
「わたしも同じです。
駿河は崩れつつありますが……まだ、終わってはいない。」
前久は二人を見渡した。
義景は“滅びゆく王朝の光”。
氏真は“生存の哲学者”。
そして自分は――“漂泊する影”。
この三人が揃うこと自体が、時代の歪みだった。
前久は懐から二通の書状を取り出した。
義景の文と、氏真の文。
同じ文言。
だが、筆致も紙質も違う。
「……お二人の書状は、同じ夜に届きました。
同じ言葉で。
しかし、微妙に異なる。」
義景は目を細めた。
「わしは、敗者という言葉をそのまま書いた。
それがわしの美学だ。」
氏真は静かに続けた。
「わたしは、仮名を添えた。
敗者という言葉の重さを、逃げずに書きたかった。」
前久は二通の文を並べ、霧の光に透かした。
「……この二つの文は、互いに呼び合っている。
敗者の美学と、敗者の哲学。
そして――」
前久は、ゆっくりと息を吸った。
「この二つの文の“間”に、もう一つの筆がある。」
義景と氏真が同時に前久を見た。
「第三の筆……?」
前久は頷いた。
「お二人の文は、互いに補い合っている。
だが、どちらにも欠けているものがある。」
義景は静かに問う。
「それは……何だ。」
前久は、霧の向こうの京を思い浮かべた。
燃え落ちた二条御所。
崩れゆく公家社会。
信長の影。
「――時代を動かす“意志”です。」
義景の瞳が揺れた。
氏真の指先が震えた。
前久は続けた。
「敗者の美学。
敗者の哲学。
だが、それだけでは時代は動かない。
必要なのは、敗者が手を結ぶ“意志”だ。」
義景は、深く息を吐いた。
「……前久殿。
あなたは、その意志を持っているのか。」
前久は、霧の中で微笑んだ。
その微笑みは、どこか危険で、どこか優雅だった。
「持っております。
そして、お二人にも持っていただきたい。」
氏真が問う。
「我ら三人が手を結べば……何が変わる。」
前久は、霧の向こうの戦国を見つめた。
「歴史の“裏側”が変わります。
表の歴史は信長が動かす。
ならば、裏の歴史は我らが動かす。」
義景は、静かに頷いた。
「……敗者の連環、か。」
氏真もまた、鞠を抱くように両手を組んだ。
「敗者が手を結ぶなら……生き延びる道が見える。」
前久は、二人の視線を受け止めた。
「では――
ここに、“影の三筆”を結成しましょう。」
その瞬間、比叡山の霧がわずかに揺れた。
三人の影が重なり、ひとつの形を成した。
史料には決して残らない、
戦国最大の“裏の連帯”。
その始まりを、霧の山が静かに見守っていた。




