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幽明の三碩  作者: 双鶴


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第3話 駿府の落日(今川氏真)

 永禄十一年十月。

 駿府の空は、京とは違う静けさを湛えていた。


 今川氏真は、庭の芝の上でひとり蹴鞠をしていた。

 鞠がふわりと宙を舞い、秋の光を受けて白く輝く。

 その軌道は、まるでこの世の混乱とは無縁のように美しかった。


 「……もう少し、上だ。」


 氏真は鞠を受け止め、軽く息をついた。

 蹴鞠は、彼にとって遊びではない。

 心を整え、世界の“形”を見つめるための術だった。


 そこへ、家臣の朝比奈泰朝が駆け込んできた。


 「御屋形様! 京より急使が――」


 氏真は鞠を抱えたまま振り返った。

 泰朝の顔には、焦りと恐怖が入り混じっている。


 「……京が、燃えたのか。」


 泰朝は息を呑んだ。


 「な、なぜそれを……!」


 氏真は、静かに微笑んだ。

 蹴鞠の白い鞠を見つめながら、淡々と告げる。


 「京が燃えれば、風が変わる。

  風が変われば、鞠の軌道も変わる。」


 泰朝は理解できずに黙り込んだ。

 だが、氏真には見えていた。

 京の炎が、駿河の未来をどう揺らすかを。


 泰朝は震える手で書状を差し出した。

 封には――近衛前久の花押。


 氏真は鞠をそっと地面に置き、書状を開いた。


 そこには、ただ一行。


 「天下は、我ら“敗者まけびと”の手に委ねられている。」


 氏真は、目を閉じた。

 その一行は、胸の奥に深く沈んでいった。


 「……敗者、か。」


 泰朝が慌てて言った。


 「御屋形様は敗者などではございませぬ!

  駿河はまだ――」


 氏真は首を振った。


 「泰朝。

  敗者とは、戦に敗れた者のことではない。」


 その言葉は、義景が越前で語ったものと同じだった。

 だが、氏真の声には、別の響きがあった。


 「敗者とは、“時代に愛されなかった者”のことだ。」


 泰朝は息を呑んだ。

 氏真は続けた。


 「父・義元は、時代に愛されなかった。

  わたしもまた、そうだろう。」


 だが、その声には悲しみはなかった。

 むしろ、どこか澄み切った諦観があった。


 「だからこそ、敗者には敗者の道がある。

  生き延びることだ。」


 氏真は書状を光に透かした。

 墨の濃さ、筆の癖、紙の質――

 すべてが、前久の手によるものだ。


 「……前久殿。

  あなたもまた、敗者の側に立つのか。」


 その時、泰朝が震える声で言った。


 「御屋形様……もう一通、越前からの書状が。」


 氏真は目を細めた。

 封には、朝倉義景の花押。


 書状を開くと、そこにも同じ文言が記されていた。

 ただし――

 義景の文には仮名がない。


 “敗者”

 ただ、それだけ。


 氏真は二通の書状を並べた。

 同じ文。

 同じ夜。

 だが、筆致も紙質も違う。


 「……これは、偶然ではない。」


 氏真は、鞠を拾い上げた。

 その白い球体に、二通の文が映り込む。


 「義景殿。

  前久殿。

  そして――」


 氏真は、鞠を高く蹴り上げた。

 鞠は秋空に吸い込まれ、ゆっくりと落ちてくる。


 「この連環には、まだ“第三の筆”がある。」


 鞠が地面に落ちる音が、静かに響いた。


 その瞬間、駿府の空気が変わった。

 氏真は、戦国の裏側で動き始めた“敗者の連帯”を、

 誰よりも早く感じ取っていた。


 「泰朝。

  わたしは生き延びる。

  敗者として、最後まで。」


 その声は、静かで、揺るぎなかった。


 駿府の落日は、

 氏真の“生存の哲学”が目覚める夜でもあった。


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